11師団跡を探して善通寺街歩き その2 

赤門→ 歩兵第43聯隊 → 兵器部 → 師団司令部 → 工兵第11大隊→伏見病院跡 → 山砲兵第11聯隊 → 南大門  
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善通寺の繁華街 赤門筋周辺

駅前通りの河原町が、旅館街や師団相手の出入りの店が続く街並みであったのに対して、赤門筋は善通寺の繁華街でした。その中心は琴平参宮電鉄の善通寺赤門前停留所で、善通寺の参拝客や第十一師団関係の人々で賑わいました。
赤門筋の東の角には、県内でも有数の本屋林館がありました。歩兵操など軍隊関係の書物も多くあり、近隣からも人々がやって来ました。戦後は林館と名前を改め、文学書、学習書などを揃えて繁盛しました。
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兵林館のはすむかいには「千葉屋敷」がありました。

師団長宿舎は後にJR善通寺駅東にできますが、師団設立当初は、中将(師団長)、大佐(聯隊長)など高級将校は宮西・乾地区、大尉など尉官クラスは生野本町、南町などの借家に住んでいました。そんな中、大正末に地元の千葉熊太郎が、ガス、水道付で和洋折衷の玄関、応接間、座敷、奥座敷、坪庭、勝手口、女中部屋等のある文化住宅20数戸を建てます。地元で評判になったこの文化集宅には、高級士官達が住むことになります。千葉は軍隊の払い下げ品を扱う千葉商会の経営者でもあり、師団の情報にも通じていたようです。
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第十一師団の経済効果は各方面におよびます。

企業では、讃岐鉄道の発展、讃岐電気株式会社(1900)、藤岡銀行(1899、藤岡政太郎)、中立貯蓄銀行(1899、亀井長郎)、善通寺貯金銀行(1900、藤岡重吉)、善通寺牛乳株式会社(1898)の創業などが、挙げられます。
 軍隊の繁栄とともに、1898(明31)年富士見座、1921(大10)年には世界館ができます。世界館はドボルザークの「新世界」から命名されたものとされ、1920年代のヨーロッパやアメリカで流行したアールデコの建築様式を模したものでした。所有者は岸田勇三郎でしたが1992年に残念ながらとりこわされました。

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旧電車通りを南に進むと右手に森のような境内が広がります。

こんもりとした鎮守の森には、乃木神社と護国神社が並んで鎮座しています。ここは歩兵43聯隊があった場所です。大正の世界軍縮の一環で廃止されました。その空き地となった場所に、昭和になって作られたのが2つの神社です。
さらに旧善通寺西高、消防署が見えてきますが、西中・自衛隊第ニキャンプをふくむこの場所には大阪砲兵工廠善通寺兵器支廠があり、通称「兵器部」と呼ばれたようです。当時の『香川新報』によると、兵器の備蓄よりも騎兵の鞍等の修理を行っていたようで、給料支払方法をめぐって紛争記事が残っています。
 この兵器部東北隅に、捕虜収容所が敗戦末期に建てられたことは前回紹介したとおりです。 
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旧師団司令部 現乃木記念館

右手に自衛隊の第2キャンプ施設部を見ながら南に進むとT字路の突き当たり、四国管区警察学校の高い塀と鉄条網が見えてきます。これを右に折れて西進すると、師団司令部の入口が見えてきます。
 善通寺11師団は、四国の1県1聯隊で編成された歩兵4聯隊の他、騎兵・砲兵・工兵・輜重(しちゅう)兵あわせて約9千余人が配備されました。 
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1898年12月1日、師団司令部が開庁し、この司令部庁舎は10月に出来上がります。木造二階建、寄棟瓦葺きで北面には4つの越屋根が設けられています。この建物に初代師団長として入ったのが陸軍中将男爵乃木希典でした。そしていまこの建物は乃木記念館として公開されています。

 記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。
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乃木希典はじめ旧第十一師団関係の資料が陳列されています。歴代師団長の顔ぶれには、「南京大虐殺」のときの中支那方面軍司令官松井岩根や、沖縄戦のときの第32軍指令牛島満の顔も見えます。
玄関で手続きを済ませると、建物の方に案内係が待機していて一人からでも入場ができます。車で訪れた場合は、ここで史料を見ながら「予習」後に散策することお勧めします。

この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。
記念碑は、乃木神社の中にあります。
さらに奥には、旧善通寺子ども病院がありました。
この病院の前身は、軍隊の病院すなわち丸亀衛戌(えいじゅ)病院として出発しました。その後、善涌寺陸軍病院と改称し、日中戦争の開始と共に、送還患者が急増し、規模の拡大を迫られます。そこで、練兵場西北に分院(現子どもと大人の病院)を建築することになりました。その後の太平洋戦争開始による患者数激増で、増築可能な分院が本院となり、衛茂病院の設置されていたこの地は伏見分院となりました。
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敗戦後に、伏見分院は結核療養所を経て、小児医療を開始し、1975(昭50)年には、こども専門の国立療養所香川小児病院と「転進」していきました。さらに、香川県立善通寺養護学校が隣接して設けられ、病弱児の療養所や重度心身障害児の福祉施設としての機能を拡充させ、四国全体の小児医療をカバーする存在に成長しました。いまは、国立善通寺病院と統合され「子どもと大人の病院」と長いネーミングがつけられた病院になっています。
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善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプ=旧野戦砲兵聯隊

  師団司令部と工兵隊の間の道から北を望むと、赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。ここから善通寺の南大門に向けては、整備された歩道が続きそぞろ歩きには最適な道です。この左手に広がるのが現在の善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
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 野戦砲兵聯隊は第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転されたものです。1922(大11)年に山砲兵第十一聯隊と改称されましが、砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、GHQが警察予備隊の創設を指令すると、善通寺町はすぐ誘致運動を始めます。四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。駐屯地の門を入り右手の北西隅に1969年に善砲会によって建てられた記念碑があります。

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五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が待ち構えています。
日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていましたが、近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。
高麗門で、間口は、入って行くときに正面金堂を額縁に納めるように高く開いて5.64mもあります。正面本柱の背後には、控柱を立て袖屋根が架かっています。両袖の切石の基礎石の上に建てられた反屋根本瓦葺の太鼓塀は、壁外面に五線の定規筋が入っていることから格式の高さを示しています。間口が他の寺院の山門に比べて高いのは、11師団の凱旋を迎えるためであったと伝わります。
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 多くの凱旋部隊が、駅前からここまでパレードして、最後にこの門をくぐって境内で記念式典が開かれたのでしょう。しかし、15年戦争の激化と共に、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。