五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?

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春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。
その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。

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この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。

善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後、百年間東院には金堂も五重塔もない時代が続きます。世の中が落ち着いた元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間です。これが3代目の五重塔にあたります。
ところが、これも天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。
そして5年後の弘化2年(1845)に再建に着手します。
そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工したものが現在の五重塔です。古く見えますが百年少々の五重塔としては案外若い建物です。
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1762宝暦12年着工の3代目五重塔の完成までの足取りは次の通りです 
1762宝暦12年 綸旨
1763宝暦13年 一重柱立
1765明和2年 二重成就
1777安永6年 三重柱立
1783天明3年 四重成就
1788天明8年 五重成就
1804文化元年 入仏供養
開始時の責任者は、丸亀藩のお抱え大工頭である山下孫太夫です。
棟梁が真木(さなぎ)弥五右衛門清次で、真木家は、塩飽本島笠島浦に住んでいた塩飽大工です。豊臣秀吉から650人の船方衆に1250石の領知を認める朱印状が与えられた時期には塩飽の有力な4家の一つとして島を運営した由緒ある家系です。真木弥五右衛門は、山下孫太夫の父である山下弥次兵衛の弟子であり、孫太夫とは義兄弟の一族でもありました。着工の際には、木材欅数十本、杉丸太400本余りを大阪で買い求めた史料が残っています。
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(東院に五重塔は描かれていません)

三代目の五重塔の完成まで42年かかっています。
あまりにも長くなったため、5層目の造立の時には塔脚が古びて朽ちそうになっていたようです。諸州を回って勧進しますが資金不足に悩まされ、丸亀藩に願い出て、金銭と材木2、500本をもらい受けて、塔脚の扶持としています。勧進により資金を集めながらの建設なので、資金がなくなれば材料も購入することが出来ず工事は長期にわたってストップするのが常でした。
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 浄財を集めながら塩飽大工・真木家(さなぎ)が棟梁として完成させた3代目五重塔です。
ところがわずか36年後の1840天保11年に、落雷による火災で灰燧に帰してしまいました。
この時の再建に向けた動きは早いのです。翌年には、大塔再建の願書草案を丸亀藩へ提出しています。1845弘化2年に綸旨が下ります。綸旨とは天皇の勅許であり、形式的手続きとして必須条件でした。
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完成への道のりは以下の通りです。4代目五重塔の建築推移

初代棟梁 橘貫五郎         初代棟梁  2代貫五郎  3代目棟梁
1845弘化2年 綸旨  ~9年間勧進        大平平吉
1854嘉永7年 着工     48才    20才
1861文久元年 建初  ~4年間工事  55才    27才 
1865応元年  初重上棟 ~2年間工事  59才    31才  
1867慶応3年 二重上棟 ~10年間 維新の動乱と勧進のため中断 
         初代貫五郎没(61才) 2代目貫五郎へ 33才 
1877明冶10年 三重着工 ~2年間工事  43才
1879明治12年 三重上棟 ~2年間工事  45才
1881明治14年  四重上棟  ~1年問 工事 47才    
1882明治15年 五重上棟   17年問 勧進のため中断48才 16才
1897明治30年 2代目橘貫五郎没(63才)      63才   36才
1902明治35年 ~9か月間 工事
1902明治35年 五重塔完成        三代目棟梁大平平吉36才

初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。

彼は善通寺五重塔の綸旨が下りた年に、備中国分寺五重塔を完成させたばかりで39歳でした。彼にとって2つめの五重塔なのです。この頃の貫五郎は塩飽大工第一人者の枠を超え、中四国で最高の評価を得た宮大工でした。同時進行で建設中だった岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。 
西大寺本堂立柱前年の1861文久元年に善通寺五重塔を建て始め、
西大寺本堂完成の2年後1865慶応元年に善通寺五重塔初重を上棟
二重を工事中の1867慶応3年4月26日に初代貫五郎は61歳で没します。彼にとって善通寺五重塔は、西大寺本堂と共に最晩年の大仕事だったのです。

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貫五郎はこの塔に懸垂工法を採用しました。

心柱は五重目から鎖で吊り下げられて礎石から90mm浮いています。
この工法は、昔の大工が地震に強い柔工法を編み出したと、従来はされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間ができて雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 五重塔は層毎に地上で組み立て、一旦分解して部材を運び上げ、積み上げていく手法がとられました。心柱も柄で結合させながら伸ばしていきました。五重目を組むときに、鎖で心柱を吊り上げたのです。これによって、建物全体が重みで縮むのに合わせて心柱も下がり、宝塔と屋根の間に隙間ができるのを防止する工夫だったようです。
 彼の死とあわせるように、資金不足と幕末の動乱によりそれから10年間工事は中断します。
塩飽本島生ノ浜浦の橘家には
「貫五郎は善通寺で亡くなり、墓は門を入って左側にある」
と伝わっているが、どこにあるか分からないようです。

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世の中が少し落ち着いてきた明治10年に工事は再開します。
初代貫五郎の跡を継いだのは2代目貫五郎です。
彼は1877明治10年、三重を着手する時に貫五郎の名を襲名しています。彼はほとんど一生を善通寺五重塔に捧げたともいえます。合間に数多くの寺社を残し、彫刻の腕前は初代に勝るとも劣らないと言われました。2代目貫五郎が五重を上棟したのは、5年後の明治15年48歳のときで、落慶法要が行われた明治18年まで携わったようです。しかし、この時には宝塔が乗っていません。宝塔のない姿がそれから17年間も続きました
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 日清戦争後に善通寺に11師団が設置されたのをきっかけに宝塔設置が再開されます。
そして、やっと1902明治35年五重塔の上に宝塔が載せられます。完成させたのは弟子の大平平吉で、この時36才でした。彼の手記には次のような文章が残っています。
明治15年3月に16才で2代目貫五郎の徒弟となり、五重完成後師匠に従い各所の堂宮建築をなし実地習得す、明治23年7月師匠より独立開業を許せらる」
とあります。
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五重塔の建立は、発願から完成まで62年がかかっています。

初代貫五郎と2代目夫妻の戒名が宝塔には掲げられています。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。初重外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力に圧倒されそうになります。
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 木造、三間五重塔婆、本瓦葺の建築で、一部尾垂木と扉に禅宗様が認めらますが、純和様に近い様式です。高欄付切石積基壇の上に建築され、芯柱は6本の材を継いで、最上部がヒノキ材、その下2つがマツ材、そして下部3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。また、各階には床板が張られていますので、階段での昇降が可能です。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたためか、各層で時代の違い違いを見ることができます。
 ちなみに建築に当たったのは塩飽本島出身の宮大工達で、彼らは同時期に、建設中だった金毘羅山の旭社も担当していました。
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 完成から約百年が経過し、所々に腐食が見られるようになったので、善通寺開創千二百年を迎えるに際の寺内外整備の一環として平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて修理が行われました。江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示すものとして価値が高く、平成24年12月28日に重要文化財に指定されました。