善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか
善通寺伽藍について
善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。
西院は永禄の戦火で焼けたのか?
善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?
それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。
善通寺西院なぜ御影堂が大型化していくのか?
善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。
西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか
生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
『西院図』から分かることは?
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること
が分かります。
800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。
善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
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