「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?
多度津白方の海岸寺奥の院
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
『説経かるかや』「高野の巻」『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版『南無弘法大師縁起』
「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。
一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。
この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。
澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。
そして善通寺の存在もあなどれません。
灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。
では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。
彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
では何の目的で作られたのか。
この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。
この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。
これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」
とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし
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