金比羅芝居小屋の建設と運営に、遊女達の果たした役割は?
金比羅門前町 金山寺町周辺
天保九年(1838)に、茶町が密集していた金山寺町は大きな火災にみまわれます。残された被害記録から当時の町屋の様子が分かります。
それによると、この町筋の総家数は八四軒で、その内茶屋・酌取女旦雇宿は二十三軒です。他の記録では三十二軒ともあります。他に金光院家中四軒、大工四軒、明家(明屋)六軒、茶屋用の座敷三つ、油場一つ、酒蔵一軒、その他四二軒です。
この町筋の1/3が茶屋・酌取女旦雇宿(=遊女をおく茶屋)だったことが分かります。
掛け小屋時代の仮設の金比羅金山寺町の芝居小屋
金比羅では表向きは「遊女」は存在せず「酌取女」と書かれました。
酌取女をおく宿が茶屋で、置かない宿は旅籠と区別されます。表通りに面して茶屋・酌取女日雇宿が多く、それは間口が狭く、奥行の深い「うなぎ床」の建物でした。そして仮設の芝居小屋は、茶の並ぶ金山寺の裏通りにありました。金山山町の茶屋と芝居小屋は、背中合わせの位置関係だったのです。
また表通りの茶屋・酌取女日雇宿は「水帳付」とされている者が多く、賃貸ではなく屋敷自体の所有者でした。茶屋の主人は、建物も自前の檀那が多かったのです。ここからも茶屋・酌取女日雇宿の繁盛ぶりがうかがえます。
2、芝居小屋建設に茶屋は、どのように関わっていったか
かつては、役人や一部の商人のみの町であった金山寺町は、天保期を境に芝居小屋・富くじ小屋といった「悪所」が立ち現れ大変貌を遂げ、茶屋・酌取女旦雇宿を大きく成長させます。むしろ茶屋が町と芝居小屋をもりたてていく存在になったともいえます。
そして芝居小屋 + 富くじ + 遊女 の相乗効果で繁栄のピークを迎えます。
常設の芝居小屋建設の過程で、茶屋と遊女はどのような関わりを持ったのでしょうか?
芝居小屋建設をリードしたのは、茶屋の主人達でした。
それまで、年三回の芝居興行の度に立て替えられていた仮芝居小屋を、瓦葺の定小屋として金山寺町に建てたいという願いを、町方の者が組頭に提出したのは、天保五年(1834)十二月のことです。この願書に対して、翌年二月五日高松藩より金光院へ許可が下ります。
それを受けて金光院は、芝居小屋建設に伴う「引請人」と「差添大」という役職を町方の者に命じます。
「町方」からは、どんな人たちが選ばれたのでしょうか
まず差添人の「麦屋」は内町の茶屋、そして花屋も茶屋です。つまり、遊女達を置く茶屋の旦那衆が主体となって芝居小屋建設は進めれたことが分かります。
九月には小屋の上棟で完成をみ、十月にはこけら落としの興行を行っています。芝居小屋の完成を間近に九月一日には、町中で「砂持」の祝いをしたとあります。
芝居定小屋土地上ヶ申候。付、今明日砂持初り、芸子・おやま・茶や之若者共いろいろ之出立晶、町中賑々敷踊り廻り砂持候斜
と、芸子・おやまが町中を賑やかに踊り祝ったことが記されています。定小屋建設が町の人々、特に茶屋連中にとって大きな期待をもって迎えられた様子がうかがえます。芝居の存在は彼らにとって「渡世一助」のものであり、芝居と門前町の繁栄は両者不可欠なものと当時の彼らは考えていたようです。
芝居の興業も茶屋・旅寵屋連中が主体となっています。
常設小屋のこけら落としの興業者の最後に名前がある「大和屋久太郎」は、文政七年の「申渡」に「旅人引受人」として任命されている人物ですが、ここでは「芝居興行の勧進元」としての役割も担っています。つまり、今風に言うと旅館組合(=茶屋組合)が芝居小屋の建設、そして興行勧進元としての役割を担っていたのです。
芝居見学は、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーで
芝居見物座席の買取予約用に用いたとされる「金毘羅大芝居奥場図噺」によると、平場桝席の上には当時一流の旅寵・茶屋の屋号の書込みがありました。これはあらかじめ茶屋・旅寵屋別に座席の販売が行われていたことを意味します。現代と同様、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーが存在したということです。また芝居興行の際に配るパンフレットにも、「茶屋茂木屋/新町」などと茶屋・旅寵屋の広告などが掲載されています。
このように茶屋と芝居小屋の関係は非常に密接だったのです。
茶屋は参詣客に宿と食事と遊女を提供する場所であると同時に、芝居小屋を作り、芝居勧進元を務め、見物席を売るプレイガイドとしての役割をも担っていたのです。
遊女には、どのような徴収金が課せられていたのでしょうか。
まず、金毘羅の遊女の徴収金は大きくわけて二種類ありました。
一つは 「刎銀」です。これは、遊女たちの稼ぎの一部を天引きしたものです。酌取女・おやまの稼ぎの2%が「刎銀」としてまず宿場方へ、次に年寄、そして多田屋次兵衛へと渡る徴収制度です。宿場方(町方役人)が茶屋を通して遊女の稼ぎの一部を取り立てているのです。これは「宿場積金」として芝居興行だけでなく町の財政全般に組み込まれました。この「宿場積金」については、慶応二年(一八六六)の記録からは内町・金山寺町からの遊女からの天引きが、つまり刎銀が収入部分の大半を占めているのです。
桜花下遊女図 落合芳幾 金刀比羅宮奉納絵馬
二つめは「雑用銀」で、遊女一人一人に対する「人頭税」です。
「旅人引請人」である大和屋久太郎によって置屋から徴収されています。この支出部をみてみると、支出七〇貫余のうち、芝居関係費用が約三三貫にもなっています。宿場にとって芝居は大きな負担でもあったのです。
「宿場積金指出牒」に詳細記載のある十四年間のうち黒字利益のあった年は、わずか六年だけでです。後は赤字を出しながら芝居興行を続けているのです。金比羅門前町に参拝客を寄せるためには、赤字続きでも芝居興行をうつほかはなかったのです。その赤字補填は、遊女達への徴収金で支払われていたのです。このあたりの事情は、現在の金比羅大芝居と共通する部分がありそうです。
「街興し」のためのイヴェントが、赤字を重ねて行政が補填する。しかし、利益を得ている人たちもいるので止められない。江戸時代は、遊女から天引きされたお金が補填に使われていたのです。
遊女たちが影の存在として支えた金比羅大芝居
茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけでなく、芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席の販売を担うまでのマルチな営業活動を繰り広げています。そこで働く遊女達も、種々の負担金を通して、芝居小屋の経営、ひいては門前町自体の財政をも支えていたわけです。
「こんぴらさん」と親しまれ、讃岐が誇るこの一大観光地も、江戸時代に遡れば、それを大きく支えていたのは茶屋・遊女たちといった陰の存在と言えるのかもしれません。
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