まんのう町のソラの集落を行く (川奥・沖野)編
まずやって来たのは美霞洞渓谷の竜神社です。
エピア美霞洞温泉の手前のトンネル前の駐車場から清流沿いに整備された遊歩道を歩くと、行き当たりがここです。
拝殿の背後の雄渕・雌淵が雨乞の聖地で、清流が響きます。
「龍」と言えば空海の「善女竜王」で、ここでも雨乞祈祷が行われました。干魃の時には、この淵に船を浮かべて雨を祈る神事を行うと必ず雨が降ったと伝えられています。山の雨乞聖地が大川山とするなら、川の雨乞聖地だったということになります。
身を清め、心を清めコリトリ修行と思うのですが、もう秋の気配で水は澄み切り冷気を感じます。思うだけで実行なし・・・
次にやってきたのは、阿波街道の三頭越入口の太子堂です 。
国道の北側の久保谷橋のたもとに、二間四方のトタン葺の大師堂があります。
祭壇の中央に阿弥陀如来を祀り、その右側に寄木造りの大師座像と左側に舎利仏像が祀ってあります。舎利仏像の厨子には
「安政七庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」
と書かれています。安政の大獄のあった幕末のものです。
戦前まではこの太子堂に、金毘羅堂も隣接してありました。
正面に金毘羅さんを祀り側面右に舎利仏像、
左に善光寺石仏が安置されていました。
踏み込みの土間に沿って、広い縁があり板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていたそうです。
左に善光寺石仏が安置されていました。
踏み込みの土間に沿って、広い縁があり板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていたそうです。
阿波から険しい峠を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換を行なっていたのです。
しかし、鐡道建設や他の峠道整備もあって、三頭越えを越える人々は年々少なくなり金毘羅堂も荒れて老朽化がひどく、戦後には取り払われました。今は金毘羅社の小祠が往時の繁栄をしのばせるのみです。
太子堂境内には三頭越えに続く道沿いに古い記念碑があります。
ここから三頭越までの峠道を開くために、献身的に活躍した智典法師の業績を称えるものです。彼は街道建設と併せて道中安全を願って、久保谷から三頭神社までに西国三十三か寺の石仏を建てました。それが今も、この峠道を歩く人々を見守っています。ここは重要な交通の要衝で、阿波金毘羅街道の通行の安全にかけられた人々の思いと、峠道を行き来する旅人の様子をしのばせるものが一か所に集められています。
太子堂の目の前を、土器川の支流が流れ、その上には三角(みかど)集落の家々が見えます。秋も少しずつ里に下りてきて、木々が色づき始めています。
国道の下をくぐって川奥へ川沿いに登って行きます。
かつては川奥は三頭越街道の通る川奥中の久保谷が山間部の入口でした。しかし、明治になって学校が川奥上の明神川原に置かれてから、川奥地域の中心が川奥上に移動したようです。その川奥小学校跡に行ってみましょう。
大きな杉が迎えてくれました。
境内には、鳥居が小さく見える「杉王」が起立しています。
この神社の18世紀前半の棟札には「三種大明神」とあり、それが50年後の棟札では「杉王大明神」となっています。境内のこの大杉にあやかって、神社名を変更したようです。
そして、その敷地には、かつての小学校の建物と思われるものがポツンと・・
川奥集会場を後にして・・川沿いをさらに上っていくと・・
沖野集落の川上神社を目指します。
沖野集落の祖先の中には、もともと山田郡に住んでいましたが寛永12年(1635)に神内池が築造の際に立ち退きになり、この地に移った人もいた伝えられます。そして、川の源流に近い聖地に神社を創建し、川上大明神と呼ぶようになったと伝えられています。
少し荒れた川沿いの道をたどると社殿が現れました。川沿いの深い森に囲まれ、日も届かない幽玄な雰囲気です。
この神社にはかつて、寛永年間(1624~44)の棟札があったと伝えられていますが、今は残っていません。今ある棟札からは、本殿は天保9年(1838)頃、拝殿が明治21年(1888)に棟上げしたことが分かります。
境内には、町指定自然記念物の「朴の木」の大木があり歴史を感じさせてくれます。そのホオノキの根元にはキノコが一杯出ていました。
かわいらしい小ぶりな二の鳥居が迎えてくれます。
その向こうが拝殿。
ここまで迎えていただいたことに感謝し礼拝。
そして、この神社の私の一番見たかったのは・・・裏に回ると
この社殿は小規模ながら、他には見られないいくつかの特徴があります。
①拝殿の向拝の位置が、拝殿建物全体の中心線からずれていること。②本殿には、珍しい腰紐が設けられ、三手先腰組で拳鼻が取り付けられていること。
③丸桁の上に地垂木が使われず、厚板に雲文が彫られた板軒になっていること。
この板軒の工法は、全国的にも珍しく、香川県内では金刀比羅宮の旭社など、数例しか見られない工法です。
④前面両脇柱正面で、向拝の海老虻梁の下に立てられ、脇障子柱に高欄、登高欄が取り付いたユニークな配置構造なこと。
以上から、川上神社本殿及び拝殿は、腰組、獅子鼻、龍の彫り物も見事であること、拝殿の軸線のずれ、本殿脇障子の立ち位置、板軒は、他に類を見ないなど特徴を持つ貴重な建物といえます。
いい仕事を明治の宮大工は残しています。
しばし、ぼけーとこれらの彫物を眺めていました。
いいものに出会わせていただいたことに感謝して、再度礼拝
さて、次は浅木原へ向かう予定なのですが・
・・・・それはまた次回に
・・・・それはまた次回に
コメント