徳島県 剪宇峠と豊丈集落のお堂と家屋を訪ねて
穴吹から剣に向かう国道492号を走るときには、この白人神社に祈願と安全の感謝。台風で被害を受けていた本殿も修復され輝いていました。さあ、とりあえずの目標は剪宇峠です。
古宮で右折して県道259号に入り、北丈集落を目指します。
県道とは名ばかりの狭い急勾配の道を登っていくと・・
青い屋根のお堂が迎えてくれました。北丈のお堂のようです。
この日はちょうど観音石像の開眼日で、お寺さんや総代の方がやっってきてお堂が開けられていました。お堂に上がり、町指定の藤原期の阿弥陀仏にお参りさせていただきました。
世話役さんから話を伺うと、昭和50・51年の台風災害でこの北又集落の多くの人が里に下りたそうです。それから半世紀近くたって、故郷を顧みるゆとりが出来て観音様を迎えることができたとのこと。このお堂が、散りじりになった人たちの交流の場所になることを願っているとのことでした。お堂が人々を、再び結びつけているのです。こんな風に受け継がれていくお堂もあるのだと教えられました。
いろいろと御接待を受けてお腹もいっぱいに・・・・感謝
車をさらに上に走らせると最後の家屋が現れました。ここから見えるのが剪宇峠です。大きな二本の杉が目印になります。
稜線下の県道をしばらく行くっと、道は下り初めそして終点へ。
ここが剪宇峠直下の「駐車場」になります。
杉木立に囲まれた静かな所です。
峠には大きな杉が迎えてくれました。地元の人は二本杉と呼んでいます。最大の太さは、幹周りが地上高I㍍で南側のは2・85、北側のは5・65㍍で、遠くから見ると周りの樹木よりもひときわ高く目立ちます。
杉の根元の小広場には嘉永3年(1850)建立の常夜灯一基と石室内に大師石像が二体鎮座していました。
向かって右側は明和9年(1772)、左側は弘化4年(1847)とあり、西方の津志嶽に向かって鎮座しています。かつては 旧暦の7月26日に一宇と古宮から大勢の人達が集まって、護摩法要が催され、回り踊りの後、真夜中の2時頃に昇る三体の月を見る行事があったといいます。
巨樹の根元に石仏が抱き込まれています。いつの日か木と一体化してしまうのかもしれません。
手水鉢がありますが、これは剪宇の上の戦の窪で落武者狩りがあった時、亡くなった人達を祀った石を巾着に入れて運んだものが大きくなったと伝わり、キンチャク石と呼ばれています。
いろいろな伝説が、深い峠には生まれて消えていきます。
この峠は、美馬郡一宇と穴吹町古宮の860㍍にある峠で、昔は産業や姻戚間の交流の大動脈でした。峠のいわれは、猪狩の際の解体小屋を宇と呼んでいたところから剪宇峠とついたと言います。
お堂で、話をきいた総代さんも子どもの時分に、畑で積んだお茶の葉を背負って一宇の乾燥場に持って行くために、この峠を何度も越えたと話してくれました。しかし、今は大杉の根元に安置された大師参拝に利用するだけで、訪れる人も少なくなっています。高い杉の梢の先を、秋の風が渡っていきます。
登ってきた北丈の集落が下に見えます。
しかし、住んでいる人はいないようです。
剣周辺の山々に、秋がそこまでやってきている気配を感じました。
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