「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 

空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
1日本霊異記
                                                            仏教説話集『日本霊異記』
日本霊異記とは

日本霊異記は、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、
この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。

そのヒロイン(?)が、田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)です。そのストーリーを見てみましょう。

①三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、②多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 ③広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、④広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 ⑤家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
要点を整理しておきます。
田中真人広虫女のプロフィール

①広虫女は三木郡の大領小屋県主宮手の妻であったこと
②彼女は、資産家であり、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ=高利貸)も行っていた
③広虫女は776年に、夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たち後に亡くなった。
 
広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。
罪を許してもらうため、三木寺(始覚寺に比定)や東大寺に対して家産を寄進し、息をひきとった
以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が讃岐の豪族層に浸透していたことがうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから8世紀後半の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」をテキストにして、広虫女の周辺を見ていくことにします。
広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。

古代の三木郡

ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。

三木郡田中郷
三木郡田中郷
 田中真人広虫女について「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」は、次のように語ります。
 広虫女は、宮手が住んでいる井上郷よりも南の山の方にある田中郷の生まれである。「真人」といえば少し前までは、高貴な人の力バネ(尊称)だった。「真人って言っているけど、自称らしいぜ」ど誰かが噂していたのも聞いた。それはともかく、広虫女は、馬・牛・稲・銭をはじめ、畑や田といった財産を持ち、多くの使用人を抱えていたと聞く。高貴なえらい人であるが、そのような家に生まれたからか、「がいな」女性であった。                
 ある日、私の友人が怒りながらやって来た。何事かと聞くと、広虫女から高い酒を買い、いざ飲んでみると、その酒は水で薄まっていたそうだ。集まった一同は驚愕し、友人は恥をかいたのだという。また、三木郡に住む親戚が云うには、コメなどを借リるときは小さい升を用いていたのに、返す時には大升を使って」だそうだ。広虫女のこのような話はいっぱい聞いており、取り立てがあまりにも厳しいため三木郡から逃げた人もいるそうだ。
 広虫女の仕事よりは実にせこいが、その貪欲さには脱帽である。
その姿は、最近流行の「富豪の輩」とかいうものなのだろう。寄進するだけの財産を築き上げたのは大領白身の手腕もそうだが、妻広虫女の功績もあるだろう。いろいろな噂を耳にしている。最近閣いた話だと、虫女は生前の行いから牛になってしまい、家族がその罪を許してもらおうと寺に寄進をしたというものだ。他にも広虫女は「亡くなる直前に閻魔さまに会った」という話も閻いた。実に怪しげな話だが心惹かれる話でもある。
田中真人広虫女が嫁いだのが、吉田川の下流を拠点とする三木郡の大領・小屋県主宮手です。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

 研究者が注目するのは広虫女の夫が、「県主」を名乗っている点です。県主は律令制以前において地方を統治した長のことです。ここからは、彼の一族が律令制以前の古い時代から権力を持っていた在地勢力であったことがうかがえます。ある意味では、三木郡南部の広虫女と、北部の小屋県主宮手の結婚は、地方豪族の婚姻を通じた連合を目指したものであったことがうかがえます。
 そういえば、以前にお話した山田郡殖田郷下司の舎人国足も「舎人」という姓をもっていました。舎人は名前の通り、ヤマトの大王に仕えたことを表しています。それが讃岐に帰ってきて使用するようになった姓です。舎人国足も小屋県主宮手も、壬申の乱以後は勝ち組の天武側に着いて、令国家に組み込まれて郡司となり、地域の支配権を維持したことがうかがえます。
 彼らは、在地勢力としての碁盤(財力や労働力)を持つとともに、地域の代表者として新しい知識・技術を中央政府から受け取ります。そのひとつの象徴が古代寺院でした。古代寺院の建設は、当時の最先端技術のシンボルでもあり、ステイタス=モニュメントでもありました。初期の前方後円墳のようなもので、ヤマト朝廷の認可がないと作れなかったようです。ある時期の中央貴族・寺院の保護支援を受けたものだけが取り組めるものだったのです。同時に、彼らは白村江の敗北の後の「祖国防衛」意識の高まりの中で、屋島や城山の山城建設工事を担い、東から伸びてくる南海道工事、それを起点とする条里制工事を行います。まさにヤマト政権の課す大規模工事を担う者が生き延び、郡司などになり得たのです。
 一方で彼らは、低地・湿地などの土地開発を進めます。讃岐の古代集落は、小規模で長期継続しない傾向があるようです。その背景には、農民達の生産性や自立性の低くさが挙げられます。その結果、支配者層に依存することが多かったのでしょう。広虫女や宮手は、積極的に経済活動に関与し、時として厳しい手段を用いつつ、地域経営を行わざるを得なかったのかもしれません。

夫・小屋県の氏寺が三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。
この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。三木町HPには次のように記します。
始覚寺全景 塔の下に心礎
現在の始覚寺 石塔の土台石に五重塔心礎が使われている
白鳳時代から平安時代まで続いたと考えられる始覚寺は,現在の始覚寺とその南西部一帯が寺域であったと思われる。この始覚寺跡地は北方へ高くなった南向き斜面で,ここから三木町の平地部のほぼ全景を見ることができる。まさに聖地としては最高の場所といえる。

始覚寺の礎石2
塔の心礎
 現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石(幅171cm,奥行き125cm,高さ55cmの花崗岩,中央部に直径80cmと38cmの二重の穴がある)が残っている。白鳳時代から奈良時代に建立された寺院の跡は,県下に約30か所あるといわれるが,その中でも礎石をもつ数少ない遺跡の1つである

始覚寺の礎石3

中央に径37.4cm深さ8.2cmの孔を穿つ。但し掘り込み穴はごく浅く不明確である。
 知識寺式心礎とされる。心礎は明治時代の開墾で抜取り、一時は庭石に転用されていたと伝える。
 始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。

始覚寺(三木寺)2
始覚寺寺域想定図
回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里制施工前の早い時期に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。また、この寺から出ている8世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。

夫の小屋県宮手が本拠としていたのが、始覚寺周辺の井上郷のようです。
 三木郡中央部の郷名には、井上郷の他にも、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。その語源を研究者は次のように指摘します。

井上・井閑は 「井乃倍」で、「水路や水源を拓き管理する集団(部民)」
池辺は   「伊介乃倍」は「池を管理する集団」
氷上は   「樋上(ひかみ)」で、「水路の上流、取水源」

 新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられた人工水路で、「井」や「樋」で表される水路と付け替えられた川のことを示すようです。また、出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を、長い年月をかけながら灌漑用の水路に生まれ変わらせることで姿を見せるようになった風景なのです。 

南海道 三木町農学部周辺

               南海道(赤)に併せて施行された吉田川周辺の条里制
確かに、三木郡の中央部には、碁盤の目のように整然とした条里型地割が広がっています。そこは低地と、扇状地や丘陵などの二つの地形面が見えます。その中で低地にあった農学部遺跡では、弥生時代以後に発展しません。低地(湿地)の開発は、当時の人力や技術では開発が難しかったようです。丘陵地域中心に開発が進められたことが
、始覚寺や下司廃寺や古代遺跡の分布から見えて来ます。ここでは小屋県主氏のような有力者が、郡司として労働力を組織し「井の戸」「池の戸」の低地開発を進めていったことを押さえておきます。
宮手をは、罰を受けた妻の虫女を救うために寺へ多くの財を東大寺に寄進した日本霊異記は伝えます。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

しかし、東大寺への寄進の目的は、それだけだったのでしょうか? 『続日本紀』765年の「天平神護」には次のように記します。

「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く。」

ここには讃岐の日置(叱)登乙虫が銭百万両を国家に奉納する代償として、外従五位下の爵位を得ています。銭を献上することで、官位を得ています。771年(宝亀二)には、三野郡の丸部臣豊球は、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられています。この時期になると、郡司などの地方役人の経済基盤が掘り崩されてうまみがなくなります。そのため空海の実家の佐伯直氏などの本家も本貫を京に移し、中央貴族化をめざす動きが現れることは以前にお話ししました。その兆しが見え始めているのかもしれません。
古代国家が姿を現す頃の讃岐

 ちなみに東大寺の造立は743年(天平一五)の大仏建立の詔に始まります。
これは国家の威信をかけたプロジェクトで、地方豪族の寄進も盛んに行われています。広虫女が亡くなった776年(宝亀7)頃は、大仏は完成したもののまだ本殿などは出来ておらず資金募集がされていた頃です。ここで寄付することが、自分の一族に有利になると考えたのかもしれません。また寄進には、開墾制限に対する対策としての一面もありました。自ら開発した土地の管理権を守るという目的です。いわゆる寄進系荘園のはしりです。このようなことを総合的に考えながら
宮手は、三木郡の運営を行っていたと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献