「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女
空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。
これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。
田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)がヒロイン(?) のストーリーを見てみましょう。
三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が地方の豪族層に浸透している様子もうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから当時の讃岐の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」を参考に、広虫女の周辺を見ていくことにしましょう
広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。
ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。
彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。
夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。
三木町始覚寺
始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
始覚寺五重塔の心礎
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里施工前に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。また、この寺から出ている八世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。
夫の小屋県宮手は、始覚寺周辺の井上郷を本拠としていました。
その井上郷の周辺の三木郡の郷名には、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。
その地名の由来は井上・井閑は、『和名抄』ではともに「井乃倍」と読み「水路や水源を拓き管理する集団」
池辺は「伊介乃倍」であり、「池を管理する集団」
氷上は樋上すなわち[水路の上流、取水源]と考えられます。
また、この地域を流れる新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられています。[井]や「樋」で表される水路とは、付け替えられた川のことを示します。川の周辺の伏流水を利用する出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を濯漑用の水路に生まれ変わらせた指導者がいた地域のようです。ここからは、小屋県主氏がこの地区の郡司として、公共事業として「丼の戸」[池の戸]というかたちで労働力を組織化し、低地の開発を進めた姿が浮かび上がってきます。
高利貸しは、貧農救済?
『日本霊異記』の中で、作者は広虫女を次のように非難します
「 多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。」
しかし、当時は「高利貸しとしての私出挙」は、毎年作付ける種籾を利子付きで貸す伝統的な農業経営方式でした。ある意味では、農業経営が十分に行えない貧農を助けるもので、地域支配者としての支援方法でもあり、非難されるものではなかったようです。
寄進のもうひとつのねらいは?
寄進のもうひとつのねらいは?
広虫女の罪をあがなうために
「東大寺へ、牛七〇頭、馬三〇匹、治田二〇町、稲四千束を納めた」
と詳しい記述が出てきます。罰を受け虫女を救うために東大寺へ多くの財を寄進したのです。これが僧侶が説くように「救済」のためだけだったのでしょうか?別の視点で見ると「寄進の目的は、中央とのつながり」作りでもあったのではないでしょうか?
有力寺院への寄進により、自らのステイタスを挙げる地方豪族
東大寺の造立は、国家の威信をかけた一大プロジェクトで国策です。そのため東大寺に対する地方豪族の寄進も盛んで、広虫女が亡くなった七七六年(宝亀七)頃は、大仏は完成したものの周辺建築物の造営期でした。寄進には、開墾制限に対する対応策の一面もあり、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったはずです。
『続日本紀』七七一年(宝亀二)には、同じ讃岐の三野郡の郡司・丸部臣豊球が、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられたことが記されています。寄進によって、地方豪族としての自らの地位を高めるという動きが当時はあったのです。その時流に宮手も乗ったとも考えられるのです。これが郡司としての生き残りにつながります。
以上のように、仏教説話の中に「がいな女」の因果応報の話として取り上げられている広虫女は、当時の地方豪族の妻としては相当なやり手であったということは言えるようです。
参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」
コメント