仏教経典100巻の写経プロジェクト行った讃岐出身の豪族
8世紀半ばに、聖武天皇が国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じた頃に、仏教経典「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクトを開始した讃岐出身の豪族がいました。
山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)出身の舎入国足です。当時100巻もの写経は、写経するスタッフ、写経用紙、テキストなどを取りそろえなければならない一大事業でした。それを、地方の一豪族が行おうとしたのはなぜでしょうか?
まずは、経典「喩伽師地論(ゆがしじろん)」について
全100巻からなる経典で、35巻が石山寺と奈良国立博物館に保管されています。
その奥書には[天平十六年歳次甲申三月十五日 讃岐国山田郡舎人国足]とあります巻によって筆跡がちがいますので、舎人国足が発願し、何人かの手によって書写されています。字句の修正方法などから当時の官立写経所ではなく、地方での写経とされます。東大寺周辺で9世紀に訓点が付けられ、12世紀の石山寺一切経事業のなかで石山寺に収蔵されと伝わります。
さて、この「舎入国足」とは、どんな人物なのでしょうか。
「舎人」という姓は、天皇や皇族・貴族の近くに仕えた集団のことで、国足の先祖は大王の宮に出仕していたようです。「舎人」の拠点は、山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)周辺の出身です。殖田郷は高松平野最奥部の春日川とその支流の周囲に開け、三方を山で囲まれた盆地状の地形が広がります。条里型地割が見られますので、狭いながらも安定した耕地経営が古代以来行われてきたようです。中央の平野部に、舎人氏の氏寺と考えられる古代寺院の下司廃寺(げしはいじ)があります。
下司廃寺は、春日川支流の朝倉川南岸、扇状地の先端にありました。
今は清光神社があり、その東側の基壇の上には、祠とともに五つの礎石があり、塔跡と考えられています。出土瓦から七世紀後半頃に創建され、平安時代に屋根のメンテナンスが行われたことも分かっています。瓦以外には、三尊仏の埓仏片が讃岐で唯一出土しています。この活仏は仏堂の荘厳具として使われたようですが、川原寺との強いつながりが指摘されます。
下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な情報が川原寺からもたらされたことが推察されます。中央の河原寺との強い結びつきを、讃岐の地でアピールするために「讃岐の川原寺」としての演出がなされたのではないだろうかと考える研究者もいるようです。どちらにしろ8世紀半ばには、この寺院は鎮座し五重塔は姿を見せていたようです。
この時期に、どうして写経事業が始められたのでしょうか
写経は、当時は個人の精神修養のためではなく、最新の知の体系を広めるための社会事業でした。国足はその事業を自前で組織し、プロデュースしたのです。そのような事業を彼が始めたのは、仏教文化の讃岐への定着が進んだ、という背景があったようです。年表で見ると
660年頃 讃岐で最初の古代寺院 妙音寺が三豊の地で着工。施主は丸部臣
680年頃 多度郡の郡司佐伯氏が三野郡の丸部氏より技術援助を受け氏寺造営
善通寺の瓦を吹いた工人はその後、田村廃寺→川之江 → 土佐と仕事場を移動
700年 この頃までに、讃岐に各豪族の氏寺が29寺建立された。
741年 国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じる
744年 舎入国足が「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクト開始
747年 国分寺造営に関して、郡司の子孫までその職に就くことを条件に郡司 層を積極的に取り込み、ようやく国分寺の本格的造営が動き出した
755年頃 讃岐国分寺の、金堂に瓦が葺かれた。
770年 堂塔全体が完成
774年、空海誕生
8世紀までに白鳳期に讃岐国内では、29の寺院が建立されています。
これは、畿内(大和・河内・摂津・和泉・山城)より西の諸国では最も多い数です。わずか半世紀ほどの間に、驚異的なペースで寺院建設が行われたことになります。
東大寺、国分寺の造営がはじまるこの時期は、白鳳時代の祖父母の世代が氏寺が建立されてから3世代、約半世紀近くが経っています。地方豪族の仏教への対応がワンランク上がる時期だったとも言えます。地方豪族の仏教へ関わりを年表から拾い上げると
747年 伊予国分寺建立に対して、宇和郡の凡直鎌足が仏像造立などのために資材を献上し、その功によって破格の外従五位下に叙されています。(続日本紀)。このことは、国分寺の造営が遅れており、郡司層の有力者と思われる鎌足の協力が必要だったことを示しています。
765年 「 続日本紀」には「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く」とあり、銭を献上することで、官位を得ています。
776年には、前回紹介した「讃岐のがいな女」の一族が、東大寺に土地等を寄進しています。これには、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったようです。
つまりこの時期には寺への寄進を通じて、律令制下における地位を高めるという動きが地方豪族の側に有り、舎人国足の「写経プロジェクト」も時流に乗ったと行為という面があったのかもしれません。
舎人国足の讃岐での地域経営は?
舎人国足が写経事業を進めるためには、当時は貴重であった上質の紙を調達し、筆や墨をそろえ、写経のプロ(写経生)を集める必要があります。そのためには、何よりも財力です。彼の財力の源は、どのあたりにあったのでしょう。
国足の本拠地と考えられる高松市植田町は、阿讃山脈から炭、檀など紙の原料、山菜などの救荒食といった山の資産が得られたでしょう。これらの物資は、春日川を下って海まで運び出すことができたでしょう。また、朝倉川を遡れば阿讃国境の七割越えに至ることができ、山すそ沿いに東西に進み香川郡井原郷や三木郡田中郷に出ることもできます。このように殖田・池田郷は、水上と陸上の交通路が交じわりあう場所です。この地の生産基盤とネットワークが国足の事業を可能にしたのでしょうか。
参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」
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