新しいアイデンティティーを求め、改姓申請
香川県史の年表を眺めていて気になることがいくつかあります。
そのひとつに9世紀前後に、豪族達の改姓や本貫地の変更申請が数多く見られことです。少し並べてみると
791 9・18 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 9・20 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 12・10 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 7・10 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 11・11 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる(三代実録)
864 8・6 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 10・27 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
867 8・17 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
86711・20 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)
讃岐の郡司クラスの有力豪族が次々と自分の姓を変えているのです。
古代の「姓」はウジ名やカバネとリンクして、そこには豪族たちと政権との関係が刻まれています。自らの都合で変えることができるののではなく、改めるには必ず天皇の許可が必要です。どうして、自分の慣れ親しんだ姓をかえようとしたのでしょうか?
その背景には、なにがあったのでしょうか?
その背景には、なにがあったのでしょうか?
寒川郡の几直氏(おしあたい)について見てみましょう
寒川郡は、現在の香川県さぬき市にあたります。
この地域は四・五世紀の古墳に、讃岐の他地域とは違ったヤマト王権との強い関係性が見られます。先祖が周防国佐婆郡から讃岐国に移ったという伝承もあり、一族は瀬戸内海各地で展開していたようです。
寒川郡は、瀬戸内海を往来する南岸ルートの拠点の一つで、津田湾を経て各方面へ交通路が伸びています。瀬戸内海各地に存在する一族との交流などもあり、視線は地域の外に向きやすかったのかもしれません。古墳時代以来の王権とのつながりを背景に、都への足がかりを築いていきます。そして几直氏は、讃岐の国造に任命されます。その背景には王権とのパイプやつながりがあったことがうかがえます。
改姓申請を行ったのは、几直千継(おしあたいのちつぐ)です。
彼は、年少の頃に讃岐を出て、都の大学に進み四書五経を学び官僚の道を歩みます。改姓申請を行った時期には、法をつかさざる刑部省の大判事も務めるなど官僚としての栄達の地位にありました。その「立身出世」を背景に「讃岐公」の姓を申請し認められたのです。
ちなみに年少の頃に、都の大学に入りの官僚の道をめざすというのは、後の佐伯家の真魚(空海)が辿った道でもあり、彼は先に歩いた同郷の先輩でもあります。
几直千継が「讃岐公」に改名したのはなぜでしょうか。
「讃岐公」は、出身の「讃岐」、そして国造としてのカバネである「公」を強調するような姓です。千継またはその親世代が讃岐から都に進出し、自らの出自を強調するために申請したものと思えます。
干継の流れを汲む讃岐公氏は、その後も広直、浄直、永直、永成といった次世代が明法博士(現代でいう東京大学法学部の主任教授)を歴任するなど、代々法曹官僚を輩出し、次第に中央貴族としての地位を固めていきます。
9世紀半ばに活躍する讃岐永直(さぬきのながなお)です。
彼は、「几直」から「讃岐公」へ改姓した783年に誕生し、862年に80歳で亡くなります。空海とほぼ同時代を生きた人物です。最終の官位は従五位下でした。
永直は「干継」の系譜を引く法学者の家柄として、駆け出しながら「祖父の七光り」で、律令の公定解釈書である「令義解」編纂に参加します。この編集には、右大臣清原夏野、菅原清公(道真の祖父)、小野篁といった文人政治家が加わり、単なる法律解釈だけでなく、文章表現としても規範となるものを目指します。「令義解」は、833年に完成しますが、この書籍が後世に与えた影響は計り知れないものがあり、何度も書写され現在に伝わります。讃岐永直は、この編集作業を通じて、律令法体系への知識を深かめていきます。同時に、後世に名を残すことになります。
讃岐永直には、こんなエピソードが伝わっています。
律令の刑法上の法運営をめぐって難問が発生し、中国まで使者を派遣して解釈を求めようとします。その時に明法博士の讃岐永直に問うと、簡単に解釈してしまい、使者の派遣が中止となったというのです。時の文徳天皇(在位850~858年)から「律令の宗師」と称され、都の人々が認める「大学者」になります。彼は郷土の誇りとなり、その後は永直を目標とし、讃岐国から多くの後進が続くことになります。
9世紀後半には讃岐公香川郡出身の秦公直宗・直本の兄弟が「祖業を継ぐ」かのように、讃岐永直が築いた法曹官僚の地位を讃岐出身者が独占しながら連綿と継いでいきます。それは、まるで家業と職が結合する中世の官司請負制のようです。
秦公氏は、八八三年(元慶七)に惟宗朝臣氏に改姓します。
惟宗直本が、若きころに編纂したのが「令集解」という律令注釈書です。
これは、讃岐の大先輩の讃岐永直をはじめとする歴代の明法博士による律令注釈を集大成したものです。しかし、編纂者の直本は自分の解釈を記していません。そこには、駆け出しの若手法曹官僚として、先輩の諸説を謙虚に学ばうという姿勢が感じられます。
この編纂には、膨大な集成作業が必要だったはずです。どうして、これが若い直本にできたのでしょうか。専門家は、「讃岐出身の法曹官僚たちによる知のネットワーク」が形成されていたことで、「令集解」の集成作業は可能となったと考えているようです。
律令国家の完成から150年あまりたった平安時代の半ばには、当初は国家から再教育される立場にあった讃岐の豪族たちは、今度は逆に、習得したスキルをもって国家運営や実務の担い手として、時の政府の中でその存在感を増していった様子がわかります。
最初の疑問に帰りましょう。8世紀終わり頃の延喜年間には、改姓の動きが目立つのはどうしてか?
というのがスタートでした
住居地名や伝統的な職名など複数を組み合わせたそれまでの氏姓から、中央の貴族として通用するような氏姓に替えるための申請、認可の記事が『続日本紀』などに数多く見られます。
讃岐国では、
国造の系譜をひく凡直氏が讃岐公氏に、
綾氏が「公」から「朝臣」に、
佐婆部首(さばべのおびと)氏が岡田臣氏に、
韓鉄師首(からかねのもちびと)氏が坂本臣氏に改姓しています。
続く九世紀の前半には讃岐公氏が讃岐朝臣氏、
そして和気朝臣氏への改姓や、佐伯連氏の改姓と
都への本貫地の移籍記事が続きます。
ここには讃岐公が法律家一門として、中央貴族化していくことと共通する背景があります。
空海を出した多度郡の佐伯家や円珍を輩出した因支首(いなぎ)氏が和気氏と改名申請を行うのも同じような背景があったからでしょう。
こうした変動に対し、国家は氏姓を正そうと『新撰姓氏録』の編纂をおこない、各氏族らは自らの出自について新たな先祖の系譜を作成します。
讃岐から都に出て行った豪族たちは、自らが拠って立つ位置を、国家が作り出す系譜に継ぎ足すだけでなく、地域がもつ伝統的な名族の名称継承や、新しく入った地域の地名を負うことで明確にしたのです。それは、自分が地域代表であるという自己主張であったのかもしれません。
円珍の一族の「因岐から和気」の改姓も、
「因支の両字を以てするは、義理憑ること無し」と「因支首という姓は、筋として意味がない」
と云っています。大化前後には地方豪族としての権威をあらわしていた因支首という姓が、平安初期のころには、たよりにならないばかりか、かえってじゃまになってきたという政治的、社会的事情があったようです。
どちらにしろ彼らの軸足は出身の本貫地よりも、京へと移り中央貴族として生きていく道を選択した分岐点であったことを後の歴史は教えてくれます。
一方で、地域に根差していく豪族もいました。
先日紹介した三野郡の豪族・丸部氏です。
『続日本後紀』嘉祥元年(八四八)十月一日条には、従四位上の位階をもっだ丸部臣明麻呂が都での勤めを終えて帰国し三野郡司に任命され、その職を父親に譲ったとの記事があります。都へ向かい、都に定着するのではなく、自らの出身地に根を張っていく豪族たちもいたのです。
ちなみに、丸部氏は以前に紹介したように、讃岐で最初に氏寺妙音寺を建立し、国家プロジェクトとしての藤原京造営の宮瓦の製造工場を三野町に誘致した氏族です。
讃岐の豪族たちは、様々な方法をとって時代を生き抜いていったようです。
参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」
コメント