丸亀駅裏に「新町」ができるまでのお話

「丸亀駅近くの線路の北側は明治の末ごろまでは海であった。福島町はそこに浮かぶ中洲だった」と聞きました。本当でしょうか?
丸亀城絵図56
 『讃岐国丸亀絵図』(正保年間(1644年)
上の絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
丸亀の海岸線17世紀
この絵図で注目したいのは海に面した北側(下側)です。海際には砂州が広がり、その南側を汐入川が西から東に流れています。現在の丸亀駅は海の中です。その北に広がる塩屋町は、近世以後の開拓で陸地化されたようです。江戸時代には、丸亀駅の北側には旧四条川がもたらす堆積物で塩屋の方から突き出た洲浜が続いていたことが絵地図からも分かります。この洲浜を中須賀と呼び、浅瀬を挟んで浜町と向かい合っていました。ここは誰も人の住まない砂嘴(さし)の先端でした。1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入ってきます。その2年後には、現在の丸亀城天守が石垣の上に姿を見せます。

中須賀に最初に家を建てたのは塩飽大工たち?

1 讃岐国丸亀絵図部分図

「福嶋町由来書」には、京極藩の支配が固まっていく中で大工十六人が、この中須賀に家を建てることを願い出て、許可され移り住んだことが記されています。最初に家を建て住み着いたのは、塩飽の大工達のようです。当時の丸亀は、京極氏の移封に伴う建築ラッシュで、塩飽大工が仕事を求めて丸亀城下に数多く入っていました。彼らが島に近いこの地に「進出・移住」しようとしたのでしょう。その後、この中須賀へ移住する者が相次ぎ人口も急速に増えます。
二年後には天満宮を、さらに弁天財をここへ移し中須賀の氏神としました。その後も中須賀へ移住するは増え続けますが、海を隔てて不便なので1691(元禄四)年に長さ約二八・八㍍の橋が初めて架けられます。
当時の二代藩主京極高豊は、この橋を福島橋と名づけました。
同時に中須賀といっていたこの中洲は福島町と改められたのです。橋ができて便利になっため、そして湊に近いという利便さ、
さらに庶民の町としての生活のしやすさなどから、
この中洲は最初に十六戸が移住してから約十年後の元禄六年には、家や人が百倍にもなったようです。
当時の福島町の景観は?
 このころの絵地図からは、福島の南岸と北岸には松林が東西に続いているのが見えます。南岸の松林は、現在の弁天通の南側に沿って東西に続き、松林の西には弁財天の祠があり、東には天満宮が見えます。その後、天満宮と弁財天を1力所に合わせ祀ります。
丸亀新堀1

これが現在の厳島神宮天満宮(福島町)です。後には、ここで日照りの年には雨乞いの祈願もするようになり信仰の中心になっていきます。
イメージ 1
厳島神宮天満宮(福島町)

金比羅詣での湊として繁栄する福島町

Ã\¤§Ã\‚からの玄関Ã\£ã¨ãªã£ã¦ã„た丸亀の湊
丸亀湊の賑わい(右が福島湛甫、左が太助燈寵のある新堀湛甫)
時代とともに金比羅参詣の客が増えて「金比羅船船 追い風に吹かれてしゅらしゅしゅしゅ」の通り、福島町は繁栄していきます。
1806(文化三)年には、北側に船の停泊所が築かれます。
福島湛甫といわれ、東西111㍍・南北91㍍・東側にある入口32㍍、深さ3㍍の大きさで、太助燈寵のある東側の新堀湛甫より27年も前のことです。つまり、新堀湛甫が作られるまでは、金比羅詣での参拝者は、福島湛甫に上陸し福島の町を抜けて福島橋を渡り、金比羅への道を歩み始めたのです。
両宮橋の架橋
 こうして、福島が栄えるにつれ、多くなった通行人を福島橋一つでは賄いきれなくなります。そこで、その西に簡単な橋を架けることになりました。この橋は福島の天満宮と浜町の船玉神社との間に架けられたので両宮橋と人々は呼びました。現在でいえば、新町にある松田書店のあたりから南へ架けられていたようです。福島町には弁天筋、大井戸筋、榎木町、暗夜小路、材木町などの幾筋もの町筋が並ぶようになります。
丸亀新堀1
福島湊と福島町の街並み その向こうに福島橋が見える
確かに福島町は近世まで中洲であったようです。それが金比羅詣での盛況ぶりに合わせるかのように発展してきた町だったのです。それでは福島町と丸亀駅の間にあった「海」は、どんな状態だったのでしょうか?

2丸亀地形図

現在の丸亀駅のすぐ北は満潮時の深さは2,5㍍ほどでの海浜で、西汐入川が西から東へ流れ海に注いでいました。旧藩時代には、福島町弁財天社と浜町との間は藩の船隠しで、御召船泰平丸、住吉丸、御台所船浪行丸、先進丸。出来丸、幸善丸、白駒丸、その他漕船、小遣舟などの船体を繋留した所でした。南の浜町側には船の倉庫が十以上もあり、その関係の役所や長屋・小屋などが建ち並んでいました。ここが船手浜之町ですが、人々は俗に「船頭町」と呼んだようです。
丸亀城下葛1828年

それでは、福島町が陸続きになったのはいつなのでしょうか?
 それは明治の鉄道建設と関係があります。
1889(明治二十二)年、琴平まで讃岐鉄道が開通した時の丸亀駅は始発駅で、現在地よりは250㍍ほど西にありました。それから8年後に鉄道が高松まで延長されます。その際に、駅は現在地へ移りそこにあった「船手浜之町」の跡は消えます。しかし「船頭町」と呼ばれていた町の名は、その後も長く残ります。
丸亀地図 明治
 20世紀を迎え日露戦争に勝利すると、本格的な近代化の波が瀬戸の港にも押し寄せます。こうしたなかで、丸亀史は市は1909(明治41)年から西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手します。その手順は以下の通りです。
1 浜町銀座通りの鉄道線路までの丸亀港の浚渫、
2 西汐入川河口の埋め立てと福島湛甫の西側一帯の埋め立て(広島方面行き三洋汽船発着場の西)
3 現在の流路への西汐入川の附け替え
 先ず港の浚渫によって出てくる土砂で西汐入川河口と福島湛甫の西側を埋め立てます。同時に、駅の方へ流れていた西汐入川を藤井建材店の所から流れを北へ変え、現在の流路にする工事でした。
この西汐入川の附け替えと埋め立てによって、水によって隔てられていた福島町は陸続きとなりました。

丸亀古城図1802年
また埋め立てられた海(河口?)には、新町もできました
新町は名の通り埋め立てによって1912(大正元)年に新しくできた町なのです。この結果、西汐入川河口に架けられていた福島橋と両宮橋は不要となりました。福島橋の石造欄干は東汐入川の渡場の欄干に使われていましたが、これも今では、その一部が資料館に保存されているそうです。この欄干が福島町(島)と丸亀城下を結ぶ架け橋だった時代があったのです。今から百年前以上のことになります。
参考文献 丸亀の歴史散歩