中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?
県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗です。
次が真言宗で、この二つで8割以上を占めています。四国の他県の真宗比率を見てみると、阿波では13%、伊予ではわずか9%、土佐では24%です。阿波では、中世に阿波を支配していた三好氏が禅宗を保護したからです。伊予では臨済宗が多のですが、これは伊予の河野氏が禅宗に帰依し、保護したためのようです。それぞれの県に「背景」と「歴史」があるようです。それでは、讃岐に真宗が多いのはなぜでしょう?問題を過去に遡って考えるというのが歴史的な考え方です。それに従うことにしましょう。


いつごろどのようなルートで讃岐へ、真宗が入ってきたのか?
讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された高松の法蔵院とされます。ここへ入ってきて、そこから周辺へ広かったのではないか、という推測ができます。しかし、残念ながら裏付ける資料がありません。


讃岐への真宗伝来を伝えるのは、三木郡の常光寺に残る文書です。
史料①『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕
当寺草創之濫腸者、足利三代之将軍義満公御治世之時、泉洲大鳥之領主生駒左京太夫光治之次男政治郎光忠と申者、発心仕候而、法名浄泉と相改口口口引寵り、仏心宗二而罷在候、其後京都仏口口口常光寺と号ヲ与へ給候、爰二又浄泉坊同詠之者二秀善坊卜申者在之候是も仏光寺門下と相成、安楽寺卜号ヲ給候、
然二仏光寺了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、応安元年四国之地江渡り、秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
この文書は江戸時代に書かれたものですが、比較的信憑性が高いとされています。要約すると
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依していった。
ちなみに仏光寺というお寺は、そこにいた経豪上人が蓮如上人に仕えて、蓮如の一字をもらって蓮教と名を改めます。そして後に、興正寺というお寺に発展していきます。現在は京都の西本願寺の南に隣接してあります。


ここが真宗の讃岐伝播のひとつのポイントのようです。
真宗といえば、すぐに本願寺を連想しますが、讃岐に真宗を伝えたのは「仏光寺(興正寺) → 秀善坊」なのです。興正寺によって讃岐に真宗が伝わってくるのですが直接ではありません。興正寺(仏国寺)の伝播は、まず阿波に入ります。

阿波の美馬市郡里寺町に安楽寺というお寺があります。
安楽寺はもともと浄土宗の寺院でしたが、真宗に改宗していきます。安楽寺を拠点にして阿波と讃岐へと広がっていくのです。
安楽寺について資料を見てみましょう。
史料②は篠原長政書状とありますが、これは安楽寺が焼かれ讃岐ヘー時的に「亡命」した時に出されたものです。この時に、財田駅の北側に宝光寺が創建されますが、私は「仏難を避け亡命政権」と考えています。

この寺が後には、三豊方面への「真宗布教前線基地」になります。しばらくして、もとの美馬へ帰ることになります。阿波守護代の三好氏の許可状とともに、この長政の添状が「亡命政権」に届いたためです。

この寺が後には、三豊方面への「真宗布教前線基地」になります。しばらくして、もとの美馬へ帰ることになります。阿波守護代の三好氏の許可状とともに、この長政の添状が「亡命政権」に届いたためです。
史料②篠原長政書状〔安楽寺文書〕
就興正寺殿ヨリ被仰子細、従子熊殿以折紙被仰候、早々還住候て、如先々御堪忍可然候、諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候、則承可申届候、於今度山科二御懇之儀共、不及是非候、堅申合候間、急度御帰寺肝要候、恐々謹言
永正十七年十二月十八日 篠原大和守
長政(花押)
郡里 安楽寺
①「興正寺殿ヨリ被仰子細」とあります。先ほど紹介したように、安楽寺の本寺である興正寺が和解に向けて働いたことが分かります。
②財田への「亡命」の背景には「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」という、賦役や課役をめぐる対立があったことが分かります。さらに「念仏一向衆」への宗教的な迫害があったのかもしれません。
④要は、相談なしの新しい課役などは行わないことを約束して「阿波にもどってこい」と云っている内容です。安楽寺側の勝利に終わったようです。
この領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後
急速に末寺を増やしていきます。安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。

安楽寺は阿波にありながら、なぜ讃岐に布教拡大できたのか。
讃岐と阿波との国境の阿讃山脈を越えて讃岐へと伝わります。
現在は三頭トンネルができて早くいけるようになりましたが、これは安楽寺と中讃を結ぶルートに当たります。三頭越のルートで伝わったのです。讃岐へ下りていくと土器川の上流に当たります。これを下れば丸亀平野です。国境を越えるといえば大変なように考えますが、当時はこれが「国道」で街道には人が行き交っていました。
安楽寺の末寺はほとんど中讃地域で、それも山に近い所に多いのはその「地理的な要因」がありそうです。
真宗寺院の分布は、高松周辺と丸亀周辺にかたまっています。
これは比較的新しくできた寺院が多いようです。一方、農村部に沢山の寺院があります。この農村部にある寺院の多くが安楽寺の末寺です。そして、山沿いのお寺の方が古いようです。これは山から平野に向けて真宗の「教線拡大」が進んだことを示しています。ここからも、讃岐の真宗の伝播は、一つには興正寺から安楽寺を経て広がっていったということが分かります。
これは比較的新しくできた寺院が多いようです。一方、農村部に沢山の寺院があります。この農村部にある寺院の多くが安楽寺の末寺です。そして、山沿いのお寺の方が古いようです。これは山から平野に向けて真宗の「教線拡大」が進んだことを示しています。ここからも、讃岐の真宗の伝播は、一つには興正寺から安楽寺を経て広がっていったということが分かります。

ところで、吉野川の南側には安楽寺の末寺は見当たりません。
どうしてでしょうか。
わたしは、吉野側の南側は高越山や箸蔵寺に代表される山岳密教の修験者達のテリトリーで、山伏等による民衆教導がしっかり根付いていた世界だったからだと思っています。そこには新参の真宗がは入り込む余地はなかったのでしょう。そのためにも阿讃の山脈を越えた讃岐が安楽寺の「新天地」とされたと思います。そして財田への「亡命」時代に布教のための「下調べと現地実習」も終わっています。こうして、阿讃の山々を越えての安楽寺出身の若き僧侶達の布教活動が展開されていきます。それは、戦国時代の混乱期でもありました。
参考文献 橋詰 茂讃岐における真宗の展開
参考記事
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