明治23年 七箇村議会開設と増田穣三

 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人物を浮かび上がらせるという手法をとらざるえない。そんな中で
「まんのう町役場仲南支所に古い議会録が残っており、その中に明治期の七箇村のものがある」
と教えられた。閲覧を申し出ると、閲覧以外に写真撮影の許可もいただくことができた。この「七箇村村会議事録」を資料として、村会設立当時のまんのう町の情勢や行政課題、それに当時の指導者がどう向き合ったのかを見ていきたい。資料は明治23年から明治34年まで、穣三が村長を務めたいた時期も含めての議事録が(1部欠けている年度もあるが)5冊にわたって綴じ込まれている。

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 議事録は明治23年4月7日に始まる。
この年は前年に大日本帝国憲法が施行され,地方行政においても町村制が実施され、各村々に村議会が開設されることになった年でもある。
 ちなみにこの年は、譲三の華道師匠園田如松斉の七回忌でもあり、その顕彰碑が建てられた年であることは述べた。村会議員に選ばれ、同時に未生流の師範の地位を固めた年でもあった。穣三33歳の時である。まんのう町の議会政治の幕開けと、その「議事事始め風景」を見てみよう。
明治23年4月7日 七箇村村会義のメンバー11人は?
  最初に11人の議員の番号と名前が議長により確認される。
議員番号1番の増田傳吾は、増田本家の当主で穣三の叔父に当たる人物で、村長決定までの仮の議長を務めている。8番の増田喜与三郎と記されているのが穣三である。彼は、30代半ばまではこの名前を使っており、後に穣三と改名する。7番の田岡泰は、増田穣三と同年生まれの幼なじみで、未生流華道の園田如松斉の下に共に通った仲でもある。ちなみに、この中には春日の増田一門につながる議員が3名含まれている。
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  最初に「村会運営細則」が議長の進行で1条ずつ審議され、挙手や起立や拍手による賛意表明ではなくひとりひとりを議長が指名し、賛否表明を求め賛成多数を確認後に決して行くという形で進められる。ちなみに成立した「運営細則」は次のような物であった。
第1条 会議の時間は午前10時に始まり、午後4時に終わる。ただし議長意見を以て伸縮することあるべし。
第2条 議員の席順はあらかじめ抽選にてこれを決めておく。
第3条 議場においては議員の姓名を呼ばず、その議員番号をもちうること。
第4条 議案は議員召集の際にあらかじめ伝えること。ただし場合により本条が適応できないこともある
第5条 議長は書記に提出議案等を朗読させる。
    (途中破損)     
第9条 議論饒舌になり無用の説と認められるときには、議長がこれを制すことが出来る。
第11条会議中は議員相互の私語することは禁止。                                                      (以下破損により読み取り不能)
第13条 議員病気又は事故で欠席する場合は、書面を提出すること。ただ、本条の届書は保証人として最寄りの議員の連名が必要である。
第14条 この細則に違反し、正当な理由なくして欠席又は遅刻する者は議論の上2円以下の過怠金を課することができる。
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村長と助役選挙の結果が知事に次のように報告されている。  

七箇村村長及び助役選挙のため4月7日、七箇村大字七箇において村会議を開き、議長に増田伝蔵、立会人に近石植次郎を選任し、村長選挙を実施した。
投票総数は12票
11点 田岡泰
1点  増田穣三
続いて助役投票を行った。開封の結果は次の通り
8点  矢野熊五郎
4点  増田穣三
以上の投票数の多数を比較し田岡泰を村長当選者、矢野龜五郎を助役当選者と決定した。投票終了後に再度投票用紙等を確認し、選挙事務を終了し閉会とした。選挙の結果を記録し議員の面前でこれを朗読後に、2名の議員によって確認しながら清書をした。
以上 署名押印 議長 増田伝吾 近石桂次郎
  増田穣三(当時は喜与三郎)が次点に挙げられている。

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しかし、村長に当選したのは幼なじみの田岡泰であった。

増田穣三の幼なじみの田岡泰について 知事への選挙結果報告書には、田岡泰の自筆履歴書が添えられている。これを見ながらその人となりを見ていこう。
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田岡 泰 七箇村初代村長                                            
安政5年(1858) 9月8日 ~ 大正15年(1926)10月10日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、明治元年から明治4年まで三野郡上麻村の森啓吾に従って漢学を学び、
明治5年から明治7年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治8年から1 年間県立成章学校(後の香川師範学校)に入学して普通学を修め、
明治10年から1年間大阪の藤沢南岳に師事して儒学を修めて帰郷した。(20歳?)
明治12年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視
明治13年高篠学校の教員を勤め、
明治18年~明治21年まで那珂、多度併合会議員に選ばれた。
明治22年3月には榎井村養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講。
 明治19年1月居村窮民為救助白米を施与したことにつき賞せられる。賞状は別途の通り
 罰 刑罰なし 以上の通り相違なし。
 香川県那珂郡七箇村大字七箇村 平民 田岡泰
この履歴書に加えて、仲南町誌には以下の内容が加えられている
明治23年4月1 日から明治31年まで七箇村の初代村長に選ばれた。
明治31年4月25日から明治32年3月7日まで県会議員、
明治32年9月30日から明治36年9月29日まで郡会議員を勤めた。この間、七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治33年10月には、営業前の西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(県道4号線)の基をつくった。
後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。

春日のお寺の墓地で、田岡泰の墓を見つけた。

この墓に漢文で刻まれた碑文も村長就任時の履歴書がベースになっているようだ。この履歴書からは、興味深いことがいくつか分かる。
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まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅生まれの幼なじみになる。
同じ春日に、生まれた二人の生き方は、この後、互いに交わりながら人生の糸を紡いでいく。 
田岡泰の墓碑には、穣三の碑文にはなかった次のような教育歴が載せられている。
上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) → 高松の黒木茂矩(皇漢学) → 香川師範学校(普通学) → 大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  彼も幼年期には、馬背峠を越え佐文を抜けて上麻までの道のりを勉学のために通っていたことになる。続いて高松在住でまんのう町出身の黒木茂矩について皇漢学を学び、その上で師範教育を受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、隣村財田村の大久保諶之丞を見習ったような経歴もある。
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田岡泰の墓碑

 地域にとっては、近代教育を受けた頼りになる若きリーダーとして地歩を固めていった。明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で、初めての村会議員選出が行われる。選出された議員の中に33歳の田岡泰と増田穣三がいる。そして、議員互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
なぜ初代村長は増田穣三でなく田岡泰だったのか。
 当時の増田穣三は「お花の先生」「浄瑠璃の太夫」「書道家」というに風流人としての「粋さ」を身につけた「増田家分家の若旦那」という印象を周囲からもたれていたのではないかと書いた。対して田岡泰は「師範学校出身の先生」「養蚕技術の導入者」として頼りになる村のリーダーというイメージがあったのではないか。行き過ぎた推論かもしれないが、こんな人物評が田岡泰を初代村長に推した背景ではないだろうか。 

 助役に就任するのが矢野龜五郎

 亀五郎は、増田穣三よりも20歳年上で、明治維新後の七箇・塩入村戸長となり、その後22年間村政の舵取り役を務めている。そして、次世代の若きリーダーとして田岡泰・増田穣三を育成し、明治23年に新役場が開かれると、田岡泰を村長に据えて自分は助役に就任。さらに4年後には、助役も退き増田穣三にバトンタッチ。次世代への引継ぎを円滑に行って勇退している。彼も春日出身である。春日の七箇村での優位性指導性と共に人脈の豊富さを感じさせる。春日の若きリーダーによって「村の明治維新」は、姿を整えられていく。
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   なお、亀五郎の養子である晃は、戦後に多度津国民学校校長依願退職後に、増田一良の後を受けて第10代七箇村村長に就いている。

参考文献 仲南町史
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