香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?
多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。
多度津資料館
全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなか、明治20(1887)年5月24日に次のような「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。
『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地
讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地
同国同郡同処寄留
・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地
同国同郡同処寄留
・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
・大久保諶之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也
合計金 15万円也
(「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
松井政行氏は、この出資者たちを次の3グループに分類します。
①大坂の資産家グループ
②多度津の「多度津七福人」グループ③先年に大久保諶之丞よって組織された「四国新道グループ」
そして、設立申請までの動きを、次のように指摘します。
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
③そこで四国新道建設を実現させた地元の資産家を引き入れた
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。
この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。
この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車の車夫たちでした。
鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか
明治28年8月10日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)には、次のような背景が書かれています
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保諶之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。
その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした。
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした。
この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで
「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」
とあります。香川県全体では何千台もの人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
旧琴平駅前風景 日露戦争の戦勝報告の金比羅参りの将軍を待つ車夫達
地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」というような歌も流行ったようです。
後世に書かれた評伝の中には、工事現場の陣頭指揮にあたった景山甚右衛門が、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝えるもののあります。しかし、これも俗説のようです。当時の甚右衛門の足取りを記録で見ると、彼は名東県の県議として松山に長期滞在しています。当時の地元での不穏な空気を察して、工事中には多度津に帰っていないことが分かります。どちらにしても景山甚右衛門は、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。このあたりも実務的な手腕がうかがえます。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産機関車はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった
動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が
「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」
と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
ところが・・??
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。 もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。
導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車
開通式典での大久保諶之丞の祝辞は?
明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保諶之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。
当時は愛媛県の県会議員だった大久保諶之丞 この後、四国新道開通に尽力
開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・
開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。
白銀の讃岐路の鉄路を客車を押して進む豆機関車 遠くに讃岐富士
ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。
汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。
多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車
開業当時の讃岐鉄道は、
社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車3両、客車31両、貨車11両でスタートします。客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員20人の小さなもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)
開業当時の多度津駅
桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。
料亭「花びし」の背後に描かれた多度津駅
花びしの絵図には、桜川を隔てて初代の多度津駅が描かれています。これを見ると初代の多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設されていたことが分かります。
旧土讃線
ホームは、行き止まり構造の頭端式で、丸亀行きと琴平行きの二つの線路が並走して東に伸びて、旧水産高校のあたりで二つに分かれていました。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流します。一方、琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていきます。 初代の多度津駅は、予讃線が西に伸ばす際に、現在地に移転します。一方、初代の琴平駅も現在地ではありませんでした。神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。当時の運行時刻表によると
琴平-善通寺は10分、善通寺-多度津は15分、多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。
高松延長後の駅長達
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
上等のお客さまはそのままご乗車を。
中等のお客様は降りてお歩きを。
下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。
約130年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?
【参考資料】
「国鉄多度津工場 100 年史」
松井政行 「讃岐鉄道と明治の近代化」 講演会資料
「国鉄多度津工場 100 年史」
松井政行 「讃岐鉄道と明治の近代化」 講演会資料
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