琴平に3番目に乗り入れた琴電(コトデン)
第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は3番目に乗り入れてきた琴電(コトデン)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック
1899 讃岐鉄道が丸亀ー琴平間で開業
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923 8月 5日 琴参(コトサン)善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1929 3月15日 琴電(コトデン)が、琴平町へ乗り入れ開始
1929 4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930 4月 7日 琴平急行電鉄(コトキュウ)坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線が小歩危でつながり、高松・高知間が全通。
1944 1月 琴平急行が不要不急線として営業休止。
宇高連絡船の就航が、琴電誕生のきっかけに
明治末に高松と岡山県の宇野港を結ぶ宇高航路が開設されると、高松は四国の玄関口として、人が集まるようになります。それまでの大阪から丸亀や多度津の港に上陸して金比羅さんを目指すという流れから、大阪から鉄道で岡山を経由して宇高連絡線で四国の玄関口高松へ入るという流れが主流になります。それが、高松から門前町琴平を直接結ぶ鉄道建設の気運につながります。

1920年代の高松港と連絡船
地元主導による会社設立
大正9年(1920)に県内の有力者大西虎之介や、四国水力発電の社長景山甚右衛門らが中心となって電気鉄道の免許を得ます。しかし、その後の戦後恐慌や関東大震災による経済の混乱で資本が集まりません。実際に会社を設立したのは大正13年(1924)7月になってからでした。当時の『香川新報』は
「資本金五百萬円の琴高電鉄具体化す。其の内四百萬円は発起人が引き受け(後略)」
と長らく棚上げとなっていた琴高電鉄(後の琴電)の着工の目処が着いたことを報じています。設立時の発起人を見てみると、
大西虎之介・景山甚右衛門・鎌田勝太郎らが名前を通ね、創立準備委員も大西虎之介、井上耕作、蓮井藤吉、細渓宗一、細渓宗次郎、加藤謙吉、鎌田勝太郎、景山甚右衛門、竹内秀輔、武田謙、中村実、中村新太郎、中村健一、熊田長造、福沢桃介、合田房太郎、安達賢、寒川桓貞、木村淳、三輪繁太郎、瀬尾等、広瀬小三郎
であり、地元主導がうかがえます。そして、資本金500万円の内の8割に当たる400万円をこの発起人が出資することになります。先行する3つの電車会社と、資本力が違うし経営も安定します。
この設立発起人の中に福沢桃介の名前が見えます。彼は福沢諭吉の娘婿で「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門が四国水力電気の再スタートの際に「三顧の礼」をとって形だけではあるが社長として迎え入れた経緯があります。ここでも「名前を貸した」程度で、その他の人たちは地元の有力者です。この辺りが「外部資本」が中心となった琴参(コトサン)との違うところでしょうか。
「讃岐の阪急電鉄」をめざした琴電
「讃岐の阪急電鉄」をめざした琴電
琴平電鉄は、先行する高松電気軌道、東讃電気軌道が軌道線であったのに対して、当初から本格的な高速電気鉄道として着工されます。
先行する讃岐の3つの電気軌道電車と比べると、設備が一つ上のランクで立派な設備をもち「讃岐の阪急」といわれたようです。
例えば、軌間は広軌(1435mm)を採用し、架線電圧は当時の地方鉄道としては珍しく1500Vを採用しています。架線柱はボオル結構式四角鉄柱が採用され、銀色に輝く架線柱の連なる様子は人目を惹きました。畑田変電所には1500V用としては、我が国初のドイツ・シーメンス社製の600kW水銀整流器が2台設置されました。鉄橋は日本橋梁製のプレートガーダー橋、各駅のプラットホームはコンクリート造でした。
各駅の建築に際しては、社長の大西虎之助が自分の目で阪急、南海、阪神を視察しています。そして、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅を参考にして、当時としては讃岐では今まで見たことのないような都会的なセンスの駅舎が姿を現します。

車両は全て新品で、汽車製造会社製の1000形及び日本車輛製の3000形を各5両、さらに、昭和3年(1928)には加藤車輛製の5000形を購入しています。当時としては最新鋭の半鋼製ボギー車で、機器類も制御器、パンタグラフは米国・ウエスチングハウス社、ブレーキはスイス・クノール社、モーターはドイツ・アルゲマイネ社製というように舶来品を多数装備しています。当時の地方私鉄電車としては、ランクが相当高い車両で、乗客が履物を脱いで乗車したという話もも残っています。そして、高松~琴平間を当時の省線(国鉄)よりも40分も短い1時間前後で走り「高速鉄道」「立派な設備」というイメージを利用者に植え付けるのに貢献しました。琴平電鉄は「讃岐の阪急」をめざしたのです。

琴平に伸びてきた琴電の線路は、6年前に南に延びた省線(鉄道省の鉄道=国鉄)の土讃線と終着駅手間でクロスします。このために、土讃線は金倉川から新琴平駅までは高く土盛りされ土讃線の下を琴電が通るように事前に設計されていたようです。
琴電の開通
琴電の開通
大正15年(1926)12月21日に栗林公園~滝宮間が開業
昭和 2年(1927)3月15日には滝宮~琴平間、
4月22日には栗林公園~高松間が開業
琴平全線(31㎞)が開通します。
駅は高松、栗林公園、太田、仏生山、一宮、円座、岡本、挿頭丘、畑田、陶、滝宮、羽床、栗熊、岡田、羽間、榎井、琴平の17ヵ所。全区間の運賃は65銭でした。

琴電琴平駅
「コトデン」が、琴平町へ乗り入れたのは昭和2年(1927)3月15日の春の日でした。沿線の駅舎は、阪急などの駅舎を参考にしたと前述しましたが、終着駅の琴平駅だけは別格でした。この駅だけは、地元の高松工芸高校建築科の建築家に、門前町にふさわしい駅舎を依頼しました。それが、金倉川と高灯籠の間のスペースに姿を見せたのです。この地は、金倉川の洪水で護岸が流された所を整備して確保した所です。

この写真は、修学旅行で琴平に宿泊した小学生達を宿の主人が琴電琴平駅のホームまで見送りに来ているシーンだそうです。壺井栄の「二十四の瞳」の中にも、遠足で小豆島の子ども達が金比羅宮に参拝するシーンがあったような記憶があります(?)
多角化経営を目指す琴電の手法は?
多角化経営を目指す琴電の手法は?

しかし、琴電の経営は厳しかったようです。沿線は内陸部の田園地帯で人口が少なかったことや、昭和初期の金融恐慌なども重なり、開業後は業績不調が続きます。このため会社は沿線の祭事等の開催に合わせて運賃割引を行ったり、女給仕が生ビールや洋食を販売する納涼電車を走らせたり、挿頭丘と滝宮に開設した納涼余興場を売り出し、乗客を増やそうとあの手この手の営業活動を行います。
また、阪急の商売に習って、岡本駅の隣に遊園地を作ったり、郊外駅周辺での住宅団地の造成など沿線開発にも取り組みました。
また琴平電鉄は、電力会社として配電事業の認可を受けており、沿線周辺への電力供給を行えました。そのため、鉄道沿線に沿って事業を営んでいた岡田電燈株式会社を買収し、会社収益の大きな支えとします。

戦時下に、電車会社3社を統合し、高松琴電気鉄道が誕生
日中戦争が勃発し、戦時体制が色濃くなった昭和13年(1938)8月、鉄道・バス会社の整理統合をはかるため陸上交通事業調整法が成立します。金刀比羅宮の門前町琴平は、4つの鉄道が集中し鉄道過密状にあったため「交通事業調整委員会」での審議の結果、この法律の適用地域に指定されます。
その結果、政策的に鉄道会社の統合が促進されます。
まず、配電統制令によって鉄道に先行して各社の電力部門が統合され、四国配電株式会社(後の四国電力)が発足し、各社はやむなくドル箱だった電力事業を失います。電力事業を分離した四国水力は解散し、鉄道部門はバス会社と統合し讃岐電鉄となります。
昭和18年(1943)11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合し、高松琴電気鉄道が誕生します。社長には琴平電鉄の社長であった大西虎之介が就任しました。

高松空襲と琴電
昭和20年(1945)7月4日未明、高松空襲により高松市内線全線と、市外線の栗林公園前~瓦町間は壊滅的な被害を受けます。琴平線の車両は避難して無事でしたが、長尾・志度線の車両は20形、30形、50形、散水車100形など6両が全焼します。本社の社屋は焼失を免れますが、琴電高松(瓦町)駅舎が半壊、今橋駅舎、出晴駅舎は全焼し、今橋の変電所と車庫も焼夷弾で被災します。

色々な会社の電車が琴電にやって来るようになった背景は?
終戦後、復興の動きが増すにつれ電車の利用者は急激に増加します。しかし、車両は戦災などで不足してました。しかも、物資不足で車両を増備したくてもメーカーの生産能力は低下しています。絶対的に車両が不足している上に、新車両を購入できる目処もなかったのです。そこで運輸省が音頭をとって、新車を優先的に都市部の大手電鉄へ割り当てます。その代わりに、新車の割り当てを受けた大手私鉄は地方私鉄に中古の代替車両を提供する仕組みが作られます。
琴電でも新車のモハ63系電車の割り当てを受けた東武鉄道から昭和22年(1947)に3両の電車の供出を受けます。これを皮切りに、東急と山陽電鉄、さらには国鉄からも車両提供を受けています。
しかし、終戦直後の混雑はあまりにも激しかったため、供出車だけでは足りずに国鉄から戦災で焼けた貨車を6両を購入し「客車に改造」して走らせました。貨車を電車に改造したこの車両11000形には一般客から「乗客を貨物扱いしている」という批判もあったようですが、「歩くよりは、電車に乗れた方がいい」という声の方が当時は強かったようです。

この貨車改造車の1000形は昭和23年(1948)8月から約3年7ヵ月間使用されました。この時期を「戦後の混乱期」と呼ぶのも頷けます。
参考文献 森 貴知「琴電100年のあゆみ」JTBパブリッシング

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