金毘羅参拝道 丸亀街道を行く その1 丸亀市内編
大坂などから金比羅舟に乗ってやってきて丸亀港に着いた参拝客は、新堀・福島両堪甫から上陸したようです。この二つの堪甫(港)ができる前までは丸亀港は、水深が浅く小舟に乗り換えなくてはならず、不便でした。そこで文化三年に福島湛浦が、次いで天保四、五年ごろには新堀湛浦が築造されます。
北から丸亀城をながめた図 右(西)が福島湛浦、左(東)新堀湛浦。
新堀浦築造のときに、献灯として12の灯籠を建立することが計画され、当時流行の「金比羅講」による江戸での資金集めが行われます。しかし、実際に建立された灯籠は3基でした。現在、新堀湛浦入口にある「大助灯龍」と呼ばれる大きな青銅灯籠はこの時に建てられたもので、戦時中の金属供出を免かれて唯一つ残ったものです。
新堀湛浦入口にある「大助灯龍」
参拝客は、どのような道筋を筋を通ってこの金毘羅街道のスタート地点になる中府口(番所)にやって来たのでしょうか。
ふたつの港から中府ロヘ向かう道筋に、いまでも残っている道標や金毘羅燈は次の6基です。
① 富屋町と本町(横町)との交差点にあった道標。
② 富屋町南出口の内堀端にあった道案内の燈寵二基。
③ 南条町(上南条町)の道標
④ 同町で、田宮坊太郎墓所を案内した道標
⑤ 同町と農人町の人々によって建立された常夜燈
⑥ 城西町(農人町)の道標
これらの石造物の位置から考えると、通町・富屋町・浜町・楷町・下南条町などを通った後、上南条町から農人町・餌差町を経て中府口にやってきたようです。しかし、そのルートは町場の中ですのでさまざまなルートが考えられ特定はできないようです。
分散するルートがひとつになるのは、南条町四叉路です。
南条町交差点の北側にある常夜灯
市役所前を通る旧国道11号を西進すると、旧国道が南へ曲がる所の交差点が塩飽町交差点です。旧国道11号は、外堀を埋め立てたものなので、ここは外堀の北西コーナーだった所になります。この交差点を西へ進むと多度津方面で、北へ行くと丸亀駅です。塩飽町交差点から南側歩道を50㍍ほど西進すると小さな交差点があり、大きな道標と、説明版とベンチがあります。ここを南北に走る細い道がかつての金毘羅街道です。
市役所前を通る旧国道11号を西進すると、旧国道が南へ曲がる所の交差点が塩飽町交差点です。旧国道11号は、外堀を埋め立てたものなので、ここは外堀の北西コーナーだった所になります。この交差点を西へ進むと多度津方面で、北へ行くと丸亀駅です。塩飽町交差点から南側歩道を50㍍ほど西進すると小さな交差点があり、大きな道標と、説明版とベンチがあります。ここを南北に走る細い道がかつての金毘羅街道です。
ここの説明版には、金毘羅参りの参拝客が、丸亀港へ上陸し通町・富屋町・塩飽町・下南条町などを分散しながらやってきて、再び合流集中した場所がここだと記されています。ここからは金毘羅山へは一本道となり南進します。伊予街道もここで金毘羅街道と合流し、しばらくは一緒に南進していきます。
京極高朗の墓所と玄要寺
南条町交差点から金毘羅街道を南へ進み始めるとすぐ右側に「田宮坊太郎墓所」と右を指差した道しるべがあります。指の差す西へ向かってみましょう。突き当たりに京極高朗の墓所があります。
昔の「やじさん・きたさん」と同じように「何でもみてやろう」精神で寄り道していきましょう。
四ツ目の瓦を葺いた白い土塀の上から神明鳥居が見えます。
石の玉垣をめぐらした中に「従五位京極鳥朗之菜」と記した墓があります。前には二対の燈胤が立っています。藩主の座を養子朗徹に譲り、維新後は、旧藩主は東京にという新政府の方針に従わず、ひとり丸亀の地で晩年を送ります。明治七年、77歳の生涯を終えた六代藩主の墓です。「墓は神道」にという明治政府の方針に従って、鳥居があります。この殿様は、なかなか才人で知れば知るほど面白い人だと思うようになりました。ちなみに、彼以外の藩主の墓は江戸にあります。
隣は幼稚園で子ども達の声が響きますが、幼稚園も含めこのあたり一帯がかつては玄要寺の境内だったのです。京極家から百五十俵を受けていた菩提寺だけあります。
玄要寺境内 京極家菩提寺として広大な境内
京極家の菩提寺にその殿様の墓が建つのは当たり前なのですが、その後の歴史の中で境内は狭められていきます。墓の前をまっすぐ南に進むと東西に走る道にでます。この道もかつては堀でした。ここは戦後しばらくは堀の水面の上には両側から大木の枝が垂れ下がり、昼でも暗く恐ろしい所であったといいます。今は、その西の先のマンションのそばに大きな樟があり、その根元に二つの祠に地蔵さん達が祀られています。雰囲気のある北向地蔵堂だけがその雰囲気を伝えます。ここまで導いていただいたことに感謝して御参りします。
丸亀市南条町の常夜灯
かつて外堀であった道を東に返し、金毘羅街道に引き返します。金毘羅街道との合流点の道の真ん中に「常夜燈」と刻まれた立派な金比羅燈寵が残ります。北面には「農人町・南条町講中」、南面には(明和元年(1764)……」とありますから250年以上も前のものです。ちなみに、この灯籠も、もともとは南側に東西に伸びていた堀に架かる橋の袂にあったことになります。
ここから少し南に進み「若松やスポーツ店」の交差点を右折して西に進みます。そして、すぐに左カーブします。このあたりは中府筋で、道の両側とも中府町五丁目となっていますが、古くは餌差町と呼ばれていた所です。餌差町というのは鷹の餌を調える鷹匠(役人)が住んでいたからだといいます。
中府口番所のあった所 城下と城外の境
中府番所跡を南から望む 右斜めに伸びるのが金毘羅街道
さらに南進すると変則の五叉路に出ます。ここが中府口番所のあった所で、その西に住む宮本家では、この門の開閉を明治の初めごろまでしていたといいます。城下から城外への出口にあたるところで、木戸もあったようです。番所跡を一歩出たところに、街道の起点道標があります。そこには次のように刻まれています。
南面「是れ従り金毘羅町口紅百四十丁」北面「明和四(1767)年亥九月吉日」東面「奉政道案内立石」石高「京大坂口仲間中」
この下に油屋清右衛門外五人の名が見えます。
金比羅町口まで140丁とあります。これと同じ丁石が琴平町の北神苑にもあります。ここからは、金毘羅丸亀街道が140丁であることが分かります。そして、一丁毎に丁石が立っていたと言われています。現存残っている丁石は約23ですが、街道沿いの元の場所に立っているのはごくわずで、後世に動かされているものが多いようです。
中府の鳥居です。
中府口番所から約300㍍、次の丁石あたりまでくると大きな鳥居が道を跨いで迎えてくれます。これが中府の鳥居です。明神造りで高さは二十二尺(約六・七㍍)あり、人家のほとんどなかった当時は、街道の遠くから見えたことでしょう。両方の柱の間は十五尺余(約四・五㍍)あり、もとは柱の周囲に石の玉垣がありましたが「交通障害」ということで取り除かれました。
丸亀中府の鳥居(明治4年建立)
扁額には「金刀比羅宮」とあり、明治4年に奉納されたものであることがわかります。この大鳥居の建立に中心的に関わっているのは、次の人達です。
大阪府堺の河内屋仁平、同船頭中山口県赤関の菊屋半七青森県野辺地の野村治三郎塩飽広島の尾上吉五郎、岡幸蔵、西上清蔵、藤七
ここからは、北前船で結ばれた青森野辺地や・長州赤関・塩飽・堺の豪商たちのネットワークが建立のきっかけとなっていることが研究者の調査から分かっています。ちなみに、この人達は、この鳥居と同時に、琴平横瀬の鳥居も寄進しています。
丸亀県・丸亀とある人々は熊岡正義、篠田直幹、林保徳、松屋大蔵、米井宗治、大黒屋清太夫、斉田俵蔵、山内太兵衛、大喜多百蔵。助松屋卯兵衛、藤田定吉、大喜多甚蔵、糸川幸蔵、松田半治、横沢半三、
また道標は明和四年(1767)に京大坂の商人が奉献した道案内立石で、
「従是金毘羅町口江百五拾丁」
と彫られています。中府番所の道標は140丁でした。距離が増えていることになります。どうしてでしょうか? この道標は、丸亀湊付近にあったものが移されたようです。大鳥居のすぐ南側、街道の左右にある民家の庭には、昭和63年まで立派なな一対の燈寵がありました。現在は、どちらも福島町のみなと寿一童公園北口に移されています。道標は、動かされている場合もあることを押さえておきます。
中府の大鳥居をくぐって南へ向かいます。
街道の左右に家が建ち並んでいますが、かつてはこの辺りは「三軒家」と呼ばれていました。昔この付近には、家が三軒しかなかったということでしょう。中府口の番所の外は、人家も疎らな光景が広がっていたのです。
街道の左右に家が建ち並んでいますが、かつてはこの辺りは「三軒家」と呼ばれていました。昔この付近には、家が三軒しかなかったということでしょう。中府口の番所の外は、人家も疎らな光景が広がっていたのです。
その時には、ここから金毘羅宮の鎮座する象頭山も見えたのかもしれません。その後、金毘羅参詣客の往来が盛んになるにつれて人家も増え、現在のように人家が並ぶ街道沿いの街並みに変わっていったのでしょう。
金毘羅街道と伊予街道の分岐点
⑦が中津番所跡の140丁道標で、金毘羅街道の起点
金毘羅街道と伊予街道の分岐点
大鳥居から400m程南進すると、ドラッグストア前の変形十字路(三つ角)にでます。ここが、伊予街道との分岐点になります。左(東)へ続く道が金毘羅街道、右(南西)へ進むと伊予街道です。ちなみに、明治初期までは南へ直進する道はなく、行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。
この交差点から金毘羅までの道は、『金毘羅参詣名所区会 巻之二』に、次のように記されています。
「(前略)象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとしく路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり.(後略)・・・」
ここからは丸亀平野の条里制に沿った平坦で歩きやすい道が続きます。金毘羅街道は、三ツ角から丸戸にむけて東へ進みはじめます。丸戸交差点県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。
なぜ、丸亀港から一直線に南下して、ここに至らなかったのでしょうか?
それは古地図を見れば分かるのですが、この少し北までは丸亀城の外堀がありました。この付近は外堀の南西のコーナー近くになります。そのため、この交差点から北には道はありませんでした。明治30年頃に、外堀を埋めてここから北(左)へ向かう道ができます。これが現在の「丸亀停車場線(県道204号)」で、残りの外堀は武道館や外堀緑道公園と姿を変えています。
つまり、丸亀金毘羅街道が、この付近で東に向かうのは丸亀城の外堀の西側を迂回していたためのようです。その迂回が丸戸交差点で終わり、ここからは、街道は再びまっすぐ南へと伸びていくのです。しかし、このあたりは旧街道沿いに県道(丸亀停車場線)が拡張整備されたため、昔の姿はまったく残りません。
丸戸交差点から丸亀市の産土神である山北八幡宮を東に眺めながら
南に進むと杵原町西村の理容店の北で、道は二つに別れます。左側(東側)の広い道は、昭和48年頃に整備された県道で、街道は、右側(西側)です。こんぴら街道二十丁とあるので中府から2㎞あまりきたことになります。
⑨の柞原の常夜灯
この分岐点には、金毘羅大権現へ奉献のため建立された常夜燈がポツンと残っています。台石には「右 こんひら道」などと刻まれています。かつては現在地より少し北の街道沿いにあったようですが、県道整備に際にここに移されたそうです。この常夜灯に以下のような文字が刻まれています。
ここからは、この燈籠が文久三年(1863)4月吉日に、丸亀商人の金比羅講によって建立されたことが分かります。丸亀商人たちがいくつもの金比羅講を組織していたようです。
今回はこのあたりで終わりとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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今回はこのあたりで終わりとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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