瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

まんのう町図書館の郷土史講座で、以下の通りお話しすることになりました。
テーマ 西嶋八兵衛と満濃池
日時 6月28日(日) 10:30~12:00
場所 まんのう町図書館
定員 20名(要予約)
詳しくは、こちらを御覧下さい。
https://tono202.livedoor.blog/archives/34613262.html#:~:text=%E6%9C%8804%E6%97%A5-,%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%86%E7%94%BA%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E9%83%B7%E5%9C%9F%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E3%80%80%E8%A5%BF%E5%B6%8B%E5%85%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%A8%E6%BA%80%E6%BF%83%E6%B1%A0,-%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%82%82%E3%81%BEまんのう町図

飯山町三谷寺 なぜこんなに多くの建物が建っているの

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三谷寺入口
初めてこの寺を訪ねたときにはいくつかの驚きがありました。
まず額坂線から鉄門に入り、仁王門から境内に至までの長さです。それは雲辺寺の徳島県側からの参道を思い出させるような道のりでした。「かつての寺域は広いぞ」と予感しました。

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三谷寺山門
そして階段を登り中門を抜けて境内に入ったとき、その広がりと本堂の背後のいくつかのお堂の数に驚かされました。驚きは、疑問に転化します。
なぜ、ここにこれだけの伽藍をもった寺院があるの? 
この寺院に興味を持ちだしたのはそれからです。いくつかの資料を読む中で、おぼろげながら分かりかけてきたことを私なりに書き留めておきたいと思います。テキストは「飯山町史186P 三谷寺の隆盛」です。
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三谷寺境内への階段 正面が中門
この寺は、真言宗御室派に属し、宝珠山世尊院と号し、本尊を十一面観世音菩薩としています。地元の人たちは世尊院と呼んでいるようです。

世尊院三谷寺 飯山町
         世尊院三谷寺 讃岐国名勝図会(1854年)
寺の歴史を知るためにはまずは定石通り、由緒書を見てみましょう。
この寺の由来は「西三谷寺縁起」として、香川叢書第一巻に次のように記されています。
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夫れ宝珠山西三谷寺に、開基行基菩薩、皇王の聖武の賜を受けて、教法を揚す。
先に王幾において四十九箇の霊区を営み、後に諸国において幾許の精舎を建つ。中就くに讃州鵜足県東坂元の郷宝珠山は、彼の師の開基する処なり。通れば天平のころ、天下庖癈疾甚だ起て、四民倶に之を愁う。翁(かたじけなく)も聖武帝宣旨を下して、当寺其の懇祈を致す。ここにより甚だ効験を得たり。これより以降八葉山施無畏寺の号、世に声(な)る。
然る後、吾が弘法大師、当寺の境内において、弥勒の宝堂を建て、四十九院を営む。是れ即ち上生経の説、四十九重微妙の宝宮。文。兜率天七宝台の摩尼殿というべきや、
 又、奥の院巌中には薬師の像を安んじ、大師作。護摩山上には不動の梵焼供を修め、宝珠巌下には無償の珍宝を埋む。これいうところの三谷の権輿にして、一山不朽の標幟深いかな。爰に以って寺を弥勒院と称す。
また、皇王が十六代四条院の国母、操璧(草壁)門院の勅願処として、鎌倉の二位の尼公楼門を修建し、梵宇を修理す。この時、弥勒院を転じて浄興院新長谷寺と号す。其の後、後宇多・後嵯峨・亀山の三帝相続いて伽藍の俎壊を補い、又、この代の間、浄興院を異にして、影向山無量寿院と改む。其れ斯の如くの名藍勝地、知らざるべからず、あおがざるべからず。
 近日、天正年中、土佐の長曽我部宮内の少輔元親、乱を企て、坊舎仏閣を臓く焼尽せしむ。比しがたし、安禄山が反逆にも過ぎたり。爾と雖も本尊の霊十一面。今に新たに、擁護の神、古より益々。冥に前の国主生駒一正公に託して、寺院不朽の米穀を寄附せしむ。惜かな、星霜年古、伽藍又亡敗す。悲しいかな、寺跡草生い、仏塔辣 に覆り。(後略)
 
意訳変換しておくと
 宝珠山西三谷寺は、聖武天皇の賜を受けて、行基菩薩が開いた寺院である。勅命によって、全国を四十九ケの霊区に分け、その後に諸国に精舎を建立した。讃州鵜足県東坂元の郷宝珠山は、この時に行基が開基した。天平のころに、庖癈(天然痘)が大流行し、四民は苦しんだ。聖武天皇は宣旨を下して、当寺に祈願を命じた。その時に大きな効能があったので、以降は八葉山施無畏寺の号は、世間に知られるようになった。
 その後、弘法大師が当寺の境内に、弥勒菩薩の宝堂を建て、四十九院の伽藍を調えた。これが上生経の説、四十九重微妙の宝宮。文。兜率天七宝台の摩尼殿と云われるものである。さらに奥の院の巌中には、大師自作の薬師如来像を安置し、護摩山上には不動の梵焼供を修め、宝珠巌下には無多くの珍宝を埋めた。このような三谷の隆盛は、一山不朽のごとく思えた。ここに至って、寺を弥勒院と称すようになった。
 また、16代四条院の国母、操璧(草壁)門院の勅願処となって、鎌倉の二位の尼公楼門を修建し、梵宇を修理した。この時に、弥勒院から浄興院新長谷寺と号すようになった。その後、後宇多・後嵯峨・亀山の三帝が続いて伽藍整備を行った。この代の間に、浄興院から影向山無量寿院と改めた。こうして、当時は名勝地として、知らぬ者がないほどになった。
天正年間になって、土佐の長曽我部元親が、侵攻して当寺の坊舎仏閣をみな焼尽した。これは唐の安禄山の反乱とも云えるものであったが、前藩主の生駒一正公の時に、本尊の霊十一面を新たに安置し、古よりの神々も次第に復活させた。そして、寺院経営のための寺領も寄附された。ところが星霜年古して、伽藍は次第に放置され、悲しいかな、寺跡草生い、仏塔は辣に覆われている。(後略)

要約しておくと
①聖武天皇の賜を受けて、行基菩薩が開いた寺院
②天平年間に、庖癈(天然痘)大流行の時に、祈祷効能を示し世間に知られるようになった。
③弘法大師が弥勒菩薩の宝堂を建て、四十九院の伽藍を調えた。
④弘法大師は、奥の院の巌中に大師自作の薬師如来像、護摩山上には不動の梵焼供を修め修験者の拠点として繁栄した。
⑤北条政子の修復援助を受け、諸国長谷寺のひとつとして存続、
⑦寺名が弥勒院に改名され、さらに、弥勒院から浄興院新長谷寺へと改名
⑧後宇多・後嵯峨・亀山の三帝が続いて伽藍整備が行われ、浄興院から影向山無量寿院と改めた。
⑨天正年間になって、土佐の長曽我部元親が、侵攻して当寺の坊舎仏閣をみな焼尽した。
⑨前藩主の生駒一正公の時に復興され、寺領も寄附された。
⑩以後は寺勢が衰え、伽藍は次第に放置され、寺跡草生い、仏塔は辣に覆われている。

この縁起は、寛政十年(1798)に三谷寺が焼失し、仁王門・鐘楼堂だけが残っていたのを、11世法純によって諸堂が再興された時に書かれたもののようです。

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三谷寺
  最初に開祖として天平年間に行基が出てきて、次に空海が発展させたと説かれます。
私の郷土史の師匠は「行基開祖、空海発展」という由緒書きは後世の作り話が大半。系図作成のように、寺の由緒書きを頼まれた連歌師なんかが使う手口。つまり、資料がない、書くことがないのでこう書かざるえんのや。これは、古今東西一緒。西洋の教会も中国のお寺も同じや」だそうです。
 
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三谷寺境内
私が注目するのは、③④⑤の次の部分です。
「空海(弘法大師)が弥勒堂を建立し、真言密教の修行道場として隆盛」
「護摩山上には不動の梵焼供を修め」
 ここからこの地が不動明王を祭り、護摩を焚く「山伏寺」の性格を持っていたことが分かります。今でもこの寺の奥の院として岩屋薬師の行場があり、ミニ三十三観音等霊場巡りで結ばれています。
三谷寺
三谷寺周辺

 周辺地図を見ても「護摩岳」「宝珠山」「三谷寺奥の院」という行場を示す地名が残っています。また、西北の黒岩天満宮や地蔵堂周辺には「石切場跡」が残っています。石工技術と修験者は、切り離せない関係にあることは以前にお話ししました。「石切場や石造物制作現場」があったところには、多くの石工職人たちがいて、その多くが修験者(衆徒)であったと研究者は考えています。そういう視点で、この寺を見ると、金山から五色台にかけては、中世の石切場が点在しています。それが石造物として周辺ばかりでなく、瀬戸内海を通じて広範囲に提供されていることが弥谷寺などからは分かってきました。同じような動きが三谷寺周辺にも見えて来ます。

 以上から中世の三谷寺は、修験者の拠点となる寺院で、勧進僧達がいくつもの院房を周辺に構えていたこと、彼らの勧進・交易活動で財政基盤が調えられ、伽藍整備が行われたと私は考えています。寺名が変化していくのも、院主たちによる連合経営だったので、各院坊の勢力関係によって、寺号(呼名)が変化していくのは、中世山岳寺院ではよくあることです。
三谷寺をもう少し広い範囲で見ておきましょう。
 三谷寺の背後は城山に続きます。城山周辺の中世修験の行場ルートを、次のように私は考えています。
本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 城山 → 金山 → 八十場 
これが坂出中辺路(坂出修験道ルート)で、そのルート上に三谷寺は位置します。ここでは三谷寺が、中世山岳寺院として修験者たちの拠点寺院となっていたという仮説を提示しておきます。
しかし、これについては次のような疑問が出てきます。
①本島・沙弥島・聖通寺は、醍醐寺の聖宝(理源大師)を重んじますが、城山の三谷寺には、聖宝は登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか。
②中世に勢力を拡大していく五色台の白峰寺との関係。どうも白峰寺と三谷寺の修験者たちは、競合関係にあり、白峰寺に勢力を奪われていった気配がします。それが、中世末から近世への三谷寺の衰退と関わっているのではないかと、私は推測します。

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三谷寺大師堂
 城山周辺からは色濃く修験者(山伏)の匂いを感じます
大胆に仮説を立てるなら近世以前は、聖通寺も三谷寺も山伏寺だったのではないかと思うようになりました。ついでに加えると、後の金毘羅さんに「変身」していく小松尾寺の別当金光院にも同じ匂いを感じますし、嶋田寺もそうです。ここに共通することは、高野山で学んだ修験者が住職となっていることが共通します。
  少し筆が走りすぎたようです。
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       三谷寺 地蔵堂 
次に、三谷寺の創建を考古学的に見てみましょう。

 三谷寺からは平安時代後期の瓦窯跡が見つかっています。現在は築石のために見ることはできませんが、坂出市郷土資料館の資料によると窯跡は三基あり、東から1号窯、2号窯、3号窯と名づけられています。この内、1号窯の瓦は均正蓮花文軒平瓦で平安時代後期ころのものされ、創建時の三谷寺の瓦を焼いたものと考えられています。これ以前の白鳳や天平の瓦は境内からは見つかっていません。つまり、この寺の創建は平安後期と考えるのが妥当のようです。

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 三谷寺
その後、北条政子による修復の援助を受け、諸国長谷寺のひとつとして存続したのち、天正ごろ、長宗我部氏の兵火にあって荒廃したと記されています。これに対して飯山町誌は、もうひとつ別の由緒を紹介します。
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三谷寺 多宝塔
それは法然の高弟長西(ちょうさい、元暦元年(1184年) - (1266年2月12日))が讃岐に建立した西三谷寺が、この寺だったのではないかという仮説です。
『本朝高僧伝』覚明の項には、次のように記されています。 
長西、覚明と号し讃岐の人。九歳にして京に上りて業を菅家に聯(なら)う。十九にして世を厭う、源空(法然)を大谷寺に拝して、薙髪従事して六時称号す。時に空公七十。空の帰寂に及び乃ち諸寺に遊で、広く教乗を問う。出雲路の住心大徳に謁して、台教を聴く。泉涌寺俊菖律師にまみえ、止観及び戒範を受く、深草の道元禅師に参り、教外の旨を探る。又、同門衆に依って念仏の法義周遍習串す。後、故郷に還り、西三谷寺を開て浄土の法を弘む。又、京師に上て、城北の九品寺を閥て日夜専修す。都下の絡自憧々として門にそう。(中略)
 釈覚心、惧舎を反覆し、釈論を玩索す。長西の嘱を受けて、西三谷寺に居し、浄土の義を説く。弟子西学兼承有り。
意訳変換しておくと
 長西は覚明と号し、讃岐の人である。九歳で京に上って菅家で学問を習ったが、十九の時に出家した。大谷寺の源空(法然)を師として、髪削ぎ、南無阿弥陀仏を唱える。法然が70歳で亡くなると、諸寺に出かけて、広く知識を得ようとした。出雲路の住心大徳からは、台教を学んだ。泉涌寺俊菖律師からは、止観や戒範を授かった。深草の道元禅師からは、教外の旨を探った。また、同門衆に対しては念仏の法義について述べた。その後、故郷讃岐に還り、西三谷寺を開いて浄土の教えを拡げた。その後再び京に上って、城北の九品寺で日夜専修した。都下の人々は、絡自憧々として門にそう。(中略)
  釈覚心は、師の長西から教えを受けて、その命で、西三谷寺に留まり、浄土の教えを説いた。それを弟子西学が受け継いだ。

ここには「西三谷寺」という寺が出てきます。これは山田郡三谷(現高松市三谷町)に対しての呼称で、江戸期には山田郡にも三谷寺があったので、混同を避けるために「西三谷寺」が使われたと飯山町史は指摘します。
 どちらにしても法然門下の長生は、浄土宗九品流の派祖になった高僧です。
この長西が西三谷に一寺を建立したというのです。それを信じるならば、「法然 → 長西 → 釈覚心 →西学」という浄土宗の流れをひく寺院が三谷寺であったことになります。浄土宗の教えを説く念仏聖(高野聖)たちが、中世には各地で念仏信仰を拡げ、各郷村に信者を増やしたことは以前にお話ししました。そのような念仏聖の拠点でもあったことになります。このことと最初に述べた「修験者の行場としての三谷寺」という性格は、なんら矛盾するものではありません。
 このような念仏聖の活動を背景に、法然の讃岐流配に伴ういろいろな説が生まれてくると私は考えています。これをまとめておくと
①三谷寺は、平安末に遡る山岳寺院で、多くの修験者や聖の活動拠点であった。
②それが高野聖が念仏聖化することで、三谷寺も阿弥陀信仰の拠点寺院となった。
 
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三谷寺
 
 中世に隆盛を極めた三谷寺が、どうして衰退したのでしょうか?
縁起には天正年間のこととして、次のように記します。

「土佐の長曽我部元親、乱を企て坊舎仏閣を臓く焼尽せしむ。比しがたし、安禄山が反逆にも過ぎたり。」

戦国末期の土佐勢力の被害を中国唐王朝の安禄山の乱に例えます。長宗我部元親を悪者に仕立てるのは、江戸時代後半以後の讃岐の歴史叙述パターンです。つまり、「天正年間までは寺社は平穏 長宗我部の兵乱で焼き討ち・荒廃」という形式です。これは「信長の比叡山焼き討ち」への仏教勢力の怨嗟と同じパターンです。
 それは、さておき三谷寺のその後の動きを、飯山町誌は次のように3段階に分けています。
〈衰微期〉 松平氏による寺領の召し上げ、堂塔の破壊、無住時代など、寺が衰微した時期で、ほぼ十七世紀代がこれにあたる。
〈再興期〉 中興八世住職寂巌、十世住職法如の努力による堂塔の修復、松平氏から寺領70石余の寄附、不動院、極楽寺の再興など、昔日の面影を取り戻した時期で、ほぼ18世紀代がこれにあたる。
〈興隆期〉 久米寺の再興、随喜心院の室兼帯など、再興期を経て、寺が興隆した時期で、幕末までの19世紀代がこれにあたる。
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それでは、いつだれが、どのようにして三谷寺を復興したのでしょうか?
 八世住職寂巌が大内郡引田浦の積善坊よりやってくるのは元禄四年(1691)のことです。寂巌は住職にあること24年で隠居しますが、その後も没するまで、半世紀の間三谷寺の復興に邁進します。延享元年(1744)に十世住職となった法如も約50年間、そのほとんどを住職として寺の再興に努めます。つまり寂巌、法如の百年の間に、諸堂の修復が行われ、寺は現在の伽藍の基礎を築いたのです。 

寺の再興は、寺の経済力と結びついています。

まず記録から寺領の拡大を探ってみましょう。
 寂巌が住職になった時、山門内に四反四畝の土地がありましたが、確定した寺領ではありませんでした。そのため寂巌は粘り強く高松藩に働きかけて寺領への認可を勝ち取ります。寂巌はまた、当時の有力寺院が行っていたようように自力での新田開発に努めます。開発した田地は藩の検地を受け、寺領として寄附してもらうことを繰り返しています。
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三谷寺
法如も寂巌の方針に従い、山林の自力開発に努めたようで、宝暦七年(1757)五町二反九畝の新開地が検地を受け、高五七石八升三合が藩の寄附を受けて寺領となっています。
  この寺の「由来帳」には
「寛政十午年火災ニテ焼失スル」
とした書き込みが何カ所かにあります。この時期に伽藍の大半が焼け落ちたようです。しかし当時、寺は経済的に安定していました。
 例えば
天明二年(一七八二)「銀札六十貫目」(金一〇〇〇両)
寛政五年(一七九三)「銀札四十貫目」
を「郷中救方」として藩に差し上げています。
安永八年(一七九七)には不動院
寛政二年(一七九〇)には極楽寺
を再興しています。更に多くの山林を所有していました。また、有能な住職が長きに渡って信者を指導しており、信頼感も得ていました。さらに西日本一帯の修験道の人たちの支援を求める理源大師講等を組織して、広く資金を集める人脈もありました。このような経済的な豊かさが短期間の再建を可能にしたと考えられます。三谷寺は以前にも増した規模で復興するのです。どちらにしても真言系修験者のお寺なのです。
  
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それが今に伝わる三谷寺の伽藍です。
しかし、月日は過ぎ建物郡に痛みが多く見られます。一つの寺と檀家では、維持が難しい規模の建物の数のようにも思えます。この伽藍群が讃岐の宝として、次の世代に伝わっていって欲しいと願わずにはいられません。

参考文献 飯山町誌190P

コメント

 コメント一覧 (1)

    • 1. かもね
    • 2022年08月08日 00:40
    • 香川叢書で縁起確認しました。
      長宗我部が乱を企て焼失とありますがここを進軍したのは香川氏と伊予そして羽床で混成してた西衆なんですよね
      本当に長宗我部の乱で焼かれたというのならば焼いたのは近隣の同国人ということになるのですがそのあたりは触れずにただ長宗我部が焼いたとするのが香川県のお寺の伝え方なんですよね
    • 0
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