本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか
文化財協会の研修で改修が終わったばかりの本山寺の五重塔と善通寺の五重塔を見に行くことになりました。明治以後に作られた讃岐の五重塔を実際に見て、登って内部まで身近に観察し、ふたつの塔を比較しようとする企画です。しかも、案内してくれるのは改修工事を進めた設計事務所の責任者の方です。ホイホイと付いていくことにしました。
また、本山寺には香川県では2つしかない国宝建築物の本堂と重文の仁王門、さらに登録文化財に指定されている建物が境内には並びます。それらも新たな目で見てみましょう。

まずやってきたのは、本山寺。迎えてくれるのは仁王門です。
近世の大形化した仁王門に見慣れていると小さく感じるかもしれません。見所はと聞かれると
「いろいろな様式が取り入れられ、瀬戸内の寺院らしい折衷様式の仁王門」
と言うことになるようです。詳しく見てみましょう。

柱は円柱で前列・中列・後列にそれぞれ四本づつ合わせて十二本の使われています。まん中の柱が本柱で、前後別の柱は控柱で八本あり入脚門と呼ばれます。控柱には天竺様式の粽があります。切妻造、本瓦葦、軒は二重繁垂木、組物は和様三ツ斗です。
肘木の両端には禅宗様式の象鼻に似た絵様繰形があります。
木鼻の上には天竺様(大仏様式ともいう)の特色である皿斗が見られます。和様、唐様や天竺様の手法を多く取り入れて、それを大胆奇抜に組合せていています。
「宮大工の腕が存分に発揮されている」とも言えますが、私には良い意味で「遊んでいる」とも思えます。
その「折衷感=ごちゃ混ぜ感」が全国的にも類例がなく貴重だと言われているようです。

なぜ、全国でも珍しい折衷様式の門や本堂がここに建てられたのでしょうか?
ある宮大工は、次のように瀬戸の寺を勧めます
国宝、重要文化財というと、まず頭に浮かぶのが奈良、京都ですが「鎌倉、室町時代」という中世の建築を見るのなら、瀬戸内をお奨めします。
兵庫県小野市の浄土寺浄土堂から始まって、山陽道の福山の明王院・尾道の浄土寺などの中世のいいお寺がいくつもあります。播磨の浄土寺浄土堂は、東大寺大仏殿を再建した重源が残した数少ない天竺様の建物です。尾道の浄土寺の本堂は東大寺大工が奈良からやってきて造っています。
尾道の浄土寺本堂に残っていた棟札には、大工藤原友国、藤原国貞という名前が残っていて、藤原という立派な姓まである東大寺大工のようです。この二人が奈良から呼ばれて、はるばる尾道までやってきて、浄土寺本堂を建てたのです。

その仕事ぶりを専門家は次のように評します。
東大寺の真似をしないで、自由な発想で仕事をしている。東大寺を真似したようなところはまったくない。やればできたはずなのに、していない」というのです。しかも、和様の中に天竺様を取り入れた折衷様にして、実によく整った姿の本堂を造っています。この本堂と、その隣にある阿弥陀堂の軒反りは「中世建築を代表するほどの美しい」と言われます。
二人の大工は、なぜ、東大寺の真似をしなかったのでしょうか。
現在の宮大工の一人は次のよう推理します
奈良からはるかに離れた尾道の地に来たことで、普段の枠を離れて仕事をできたからではないか。格式が高く、何かと規制も厳しかった奈良から離れて、尾道にやって来たことが規制から離れて、自由な発想で仕事をできたのではないか
職人にとって一番幸せなのは、思う存分に仕事ができることでしょう。しきたりや決め事から離れて、思う存分に瀬戸内海の港町で仕事をしたのではないでしょうか。それが新しい折衷様式を生み出す原動力になったのかもしれません。

仁王門の中には木造金剛力士立像(県指定重要文化財 平成9年5月23日)指定がにらみを効かせています。
本山寺の本堂についても見ておきましょう。

「桁行五間に梁間五間の規模で、屋根は本瓦葺きの一重寄棟造。正面に三間の向拝がつけられた中世密教本堂の典型」
もともと、この本堂は正応年間京極近江守氏信の寄進にと伝えられてきました。しかし、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に
「為二世恙地成就同観房正安二年三月七日」(1300年)
という墨書銘が発見され、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)に建てられた事が分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝指定がされました。

その際に、墨書銘より「末清および国重」という二人の宮大工によって建てられた事が分かりました。その後の研究で、この二人は奈良の宮大工で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。
ちなみに、本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。最初、私は尾道の浄土寺の動きが先行し、本山寺が影響を受けたのだろうと考えていました。しかし、それは逆なのです。可能性としては、本山寺の方が浄土寺に影響を与えたと考えるべきなのです。その意味でもこの本堂は「折衷様遺構の最古」と言えるようです。

今は海は人々を隔てるものと写ります。しかし、当時の瀬戸内海は、人々を隔てる物ではなく人と物を結びつけるものだったのです。三豊と福山・尾道は廻船を通じて海でつながっていました。仁尾の港と尾道の数多くの船が行き来していたことが資料からも明らかになっています。
ここからは私の想像ですが、今までにない不思議な形をした本堂が讃岐の本山寺に現れたという噂は、尾道にも伝わっていたかもしれません。それを聞いて、浄土寺の住職や奈良きた棟梁がこの三豊の地まで見学に訪れる。そして「うちも本山寺のように折衷でやってください。おまかせします」なんて言ったかも・・・・
そんなストーリを考えると楽しくなります。

そのような流れの中で、この寺の本堂・仁王門を考えて見たときに「瀬戸内海式の和唐折衷様式」というのは納得のいく話です。
本堂の外陣で住職から次のような話を伺いました
昭和の解体修理の時は「建設当時の姿にもどす」というのが原則でした。そのため内陣に置かれていたいろいろな付属品などは取り払いすっきりしました。
当時の住職が、修理終了間際に「外陣の畳はいつ入るのですか」と問うと、「鎌倉時代の寺院には畳はありません」と言われたそうです。その後、寺のお金で畳は用意したということです。
外陣が当時の真言のお寺さんとしては広いようで、そこに鎌倉時代の「仏教の庶民化」という流れが出ているそうです。

時間が来てしまいました。
今日はここまでです。
五重塔については、また次回に
参考文献 松浦昭次 宮大工と歩く千年の古寺

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