どうして明治になって五重塔が建てられたのか

解体修理が終わった本山寺の五重塔 スリムな印象を受けます
本山寺の五重塔は、三豊平野の中にすくっと立ちランドマークタワーの役割を果たしてきました。遍路道を歩いてくると大和の古寺巡礼のように平野のただなかに立ち、古色蒼然として立派に見えます。本堂が鎌倉時代の国宝建築ですから「五重塔も鎌倉時代のものです」と言われても素人の私は「ああそうですか」と応えてしまいそうです。しかし、この塔の建立は明治43年3月(1910)の造営で約百十年前のものです。後で訪れる善通寺の五重塔のと建設期間は重なる部分があります。
建設時期を聞いただけで、多くの疑問点が私には涌いてきます。
同時期に建立された善通寺の五重塔は、難産の末

幕末から明治にかけて建てられた善通寺の五重塔
以前に、このブログに述べたとおり、善通寺の五重塔の建立は、明治維新を挟んで発願から完成まで62年がかかっています。資金不足に見舞われ、工事が度々中断するのです。勧進をしながら資金を集め、建設を再開し、資金がなくなると中断ということが繰り返されます。
例えば1882年(明治15年)に五重上棟が上がって以後は、17年間ストップします。塔の一番上に載せる青銅製の相輪を発注する資金がないのです。そのため相輪がないままの姿で、その間放置されます。勧進等によって資金が集まり、相輪が載せられて完成するのは1902(明治35年)のことです。善通寺という末寺を幾つも持つ大寺でさえ五重塔建立というのは大変な事業でした。
その善通寺の苦労を身近に知りながら、本山寺が三豊に新しく五重塔を建てようとしたのはすごいと思います。
これを勧めた住職さんとは一体何者なのでしょうか?
これを勧めた住職さんとは一体何者なのでしょうか?
私の第1の関心は、そこにありました。五重塔内部を見学して下りてきた時に、参加の質問に答えていた研修者らしき女性に、次のような質問をぶつけてみました。

「善通寺の五重塔建設が難渋するするなかで、建設しようとしたのはどうしてですか?」
すると彼女は次のように応えてくれました。
「住職さんの人柄と熱意による所が多いのではないでしょうか。当時の住職は頼富実毅(よりとみじっき)です。この人について残された資料に当たって見たのですが、この人の存在が五重塔建立に大きな役割を果たしていると思うようになりました。この人なしでは、この五重塔は生まれなかったのかもしれません。」と話してくれます。
この女性が整備委員会委員長の建築家・多田善昭氏の娘さんで、整備委員会の事務局的な役割を担っている方であることを後で知りました。
住職の頼富実毅(よりとみじっき)とは何者なのでしょうか?

境内の中に祀られる頼富実毅像
彼は幕末、ペリーがやって来る7年前の1846(弘化3)年に香川県さぬき市富田南川で生まれます。生まれながら盲目だった実毅は、幼い頃より遍路として四国巡礼を重ねていたようです。そして、四国五十九番伊予国分寺を巡礼後に、突然に目が見えるようになったといいます。その恩に報いるため、仏門に入り堂宇の復興を志すようになります。
11歳で出家し、佐伯旭雅,雲照,竜暢に師事します。後には、大坂に書塾をひらいていた讃岐出身の藤沢南岳の元でも漢学や書を学びます。その後、高野山で本格的な修行を重ね、僧侶としての名声を高めていきます。彼の高野山での業績のひとつは、明治期の高野山大学の創立に尽力を尽くしたことがあげられます。

「当山中興の祖 大僧正実毅像」と刻まれています
高野山時代に五重塔建設の認可を得た頼富実毅
同時に、彼は初志通りに高野山で五重塔を建立する計画を進めます。五重塔の建設というのは、江戸時代以前は自由に寺院が造れるものではありませんでした。皇室の許可を得て、初めて建設が可能になったのです。例えば幕末から工事が始まった善通寺の五重塔は、皇室からの建設許可を得て工事が始まった最後の塔のようです。
明治になってからは、国の認可が必要でした。
頼富実毅は、明治政府との多岐にわたる交渉の末に建設認可を得ていたようです。そのような中で、かれは故郷の讃岐の本山寺住職となるのです。彼は国の五重塔建設認可状を胸に抱きながら三豊の地にやって来ます。そして、五重塔をこの地に建立していくのです。
末寺もない地方の寺院が五重塔を建立するというのは無謀にも思えます。

五重塔建設を可能にしたものは何だったのでしょうか?
それは「人の輪(和)」であったようです。まず、本山寺の檀家集団でした。新しく高野山からやってきた住職の人柄や深い知識に強い信頼感を抱いていったようです。そして住職の五重塔建立という「初志」に理解を示し、全面的な協力を行って行くようになります。
今回の平成の改修も、その費用は4億円と言われます。この五重塔は国宝でも重文でもないので国や県からの補助はありません。これを、地方の一寺院が負担するというのは並大抵で出来ることではありません。それをやり遂げたという背景には明治の建立の時と同じく、檀家集団の理解と協力なしでは考えられないことです。

本山寺の「般若の風」と地域や檀家との結びつき
この寺では、大般若経六百巻が村回りをしていました。大船若緑六百巻を全部読むことはできませんから「転読」します。「転読」というのは、六角経蔵、あるいは八角経蔵をぐるぐる回すことです。チベットでもお経を回す信仰があります。お経を一巻一巻広げて転がして、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくのがかつての日本の転読でした。折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだとされて、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくことが行われていました。
本山寺では、戦前まではお経を担いで村を回る「般若の風」が行われていました。
これも村を回ってお経を読むのですから広い意味では「転読」です。しかし、全てのお経を持って行くのは大変なので、住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。そういう村の家々との関係や檀家との関係を大切にしてきた伝統が、この寺にはあります。そして、今でも住職さんは檀家との関係を非常に大切にしていると周りの人たちはいいます。
これも村を回ってお経を読むのですから広い意味では「転読」です。しかし、全てのお経を持って行くのは大変なので、住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。そういう村の家々との関係や檀家との関係を大切にしてきた伝統が、この寺にはあります。そして、今でも住職さんは檀家との関係を非常に大切にしていると周りの人たちはいいます。

本山寺本堂の縁台に置かれた木材と瓦建設費は、どのように集められたのでしょうか?
江戸時代以後に盛んに行われていた「講」システムが活用されていたことが分かってきました。整備委員会では将来の国の重文指定に備えて、建物だけでなく五重塔建立に関する文書類の保存・整理も平行して行ってきました。その結果、寄付金を「講」という形で西日本全域に呼び掛けていることが分かる文書類が出てきたのです。資金を提供した「講」の責任者の子孫を訪ねて島根や鳥取方面にも出向いて確認したといいます。
丸亀港の太助燈籠が江戸の商人たちの「講」で建設されたのは、よく知られています。その後、幕末から建設の進む金毘羅山の旭社や善通寺の五重塔も「講」システムを使って、全国の信者に喜捨を呼び掛けています。そのシステムが、本山寺でも使われたようです。

本山寺五重塔
しかし、このシステムが機能するためには、いくつかの条件が必要です。例えば「知名度」です。金比羅さんや善通寺は、全国的な知名度という条件をクリアするかもしれません。しかし、「本山寺」はどうでしょう。「四国霊場」という枕詞が付けば少しは、上がるかもしれませんがクリアという訳にはいかないのではないでしょうか。
これに関して、住職の頼富実毅自身が山陰などにも足を運び、各地の講で法話を行い、資金集めに尽力したことが残された文書からも分かってきました。彼は、当時は権(ごんの)大僧という立場でしたが遠方に出向くことも厭わなかったようです。
このような尽力の結果、善通寺の五重塔が明治維新の混乱を挟んで62年の歳月を経て難産の末に完成したのに対して、本山寺は14年で完成するのです。
どんな棟梁が腕を振るったのですか
頼富実毅住職は高野山の人脈を通じて、小豆島の宮大工の棟梁を紹介されたようです。 整備委員会委員長の建築家・多田善昭氏は、宮大工・平間美能介の子孫を訪れた際のことを次のように記しています。
本山寺五重塔解体・保存修理を進めていく中、当時の住職 頼富実毅住職と平間美能介・勝範棟梁との想像を越えた情熱と斬新さを感じていました。
長田住職とともに、曾孫さん夫婦とお子さんたちを訪ねました。福岡市中央区渡辺通にて桜もち、おはぎ、きな粉もちなどを手作りされている「平間まんじゅう店」の店舗やお座敷には、かつての大工棟梁の作品も大切に飾られていました。
百年以上大切に資料を保管されていたこと、偶然にも工事の事を知り、またすぐに連絡をくださったこと … よいご縁が重なっていきます。
… 今回、五重塔含む社寺建築物や洋風建築物の図面を見せて頂いたことで、良いものをつくる前向きで挑戦的な強い意志を改めて感じました。謎の多かった木部接合の工夫に関しても、納得できる部分がありました。
平間美能介棟梁は、この五重塔の建設の後は大阪を中心に活躍するのですが、残した建物の多くは大型の洋風建築部であったといいます。宮大工としての技量を活かしながら、それを様式建築に活かしていく才能と開拓心を持っていたようです。

整備委員会委員長・多田善昭氏のスライドより
こうして、こんもりした本山寺の境内の森の中に五重塔が姿を見せるようになります。五重塔は、明治29年(1896年)の着工から14年の年月をかけて完成します。
塔が立ち上がっていく様子を見ておきましょう
明治二十九年 八月に着手、
三十一年十一月第一層、
三十三年 九月第二層、
三十六年二月第三層、
四十三年三月第四層、第五層が落成。
明治36(1904)年からは、一時的な中断もあったようです。それは日露戦争が勃発したからです。戦争遂行と戦後の混乱のために中断期が生まれたようです。しかし、日露戦争後は戦勝碑が各村々に建てられていくように、五重塔の建立についても追い風となったようです。時運も塔建立に一役買いました。
落慶法要には5万人が集まり、塔の歓声を祝ったといいます。
三豊に初めて姿を見せた五重塔は多くの人に「誇り」を抱かせると共に、陸のランドマークタワーとしての役割を果たすようになります。総工費は十万百十一円二十二銭七厘。棟梁は、前述したように平間美能介勝範と多田寅市です。
本山寺五重塔 江戸と明治の建築技術の共存

この五重塔の建立年代は明治です。そのため江戸時代から引き継ぐものと、明治の近代的な要素の二面性が見られると専門家は指摘します。
懸垂構法の心柱、各階に床を張り参拝者を登らせる仕組み、装飾的な組物などは、いずれも江戸後期に生み出されたものです。
一方、木部接合の工夫として尾垂木はボルトで固定されていることが分かりました。旧軍施設などの洋風建築にも生かされた、いかにも明治建築らしい技といえます。

また、五重の小屋組から賞で吊られた心柱は、地面まで伸びず二重の床で止まっています。そして心柱の底には大量の「経石」がでいっぱい入った「重量箱」が取り付けられていました。「経石」は参拝者や「講」のメンバーが祈りを込めてお経の一文字を書き、寺に納めた小石です。塔建設に喜捨した信者のものだと思われます。これも今までにない「明治の工法」です。
また、雨戸瓦の葺き方には、三豊地域の特色がみられ「地方色」と言えます。

さてこの五重塔を見上げて私が感じるのは「スリムで華奢な印象」「エンピツやロケットのように細い」「ミニスカートをはいた細身の女性」という印象です。実際に、登って見ると狭いのです。善通寺に比べると1/4の平面面積になるそうです。
どうして細身の五重塔が建てられたのでしょうか

一般的に五重塔は、飛鳥時代から江戸時代にかけて新しいものほど、細身になっていくことが知られています。それには倒れにくくする建築技術が必要です。上重の屋根を大きくして細長く建てることことが大工の技量の見せ所でもあったようです。江戸時代以降の新しい塔は、法隆寺五重塔など古い塔に見られるどっしりとしたものよりも「細いスリムな塔」を棟梁たちはめざしていたようです。
昭和に入ると古今集よりも万葉集の益荒男ぶりがもてはやされるようなります。五重塔もどっしりと安定感のある法隆寺や醍醐寺など古い五重塔を手本にして建立される傾向が強くなります。昭和になるとヒョロ高い不安定な見た目の五重塔は、建てられなくなります。

塔にもデザインの「流行」があるようです。そういう意味では、この本山寺五重塔は「スリム型の最終形体」と言えるのかもしれません。最後の例として非常に貴重といえます。

礎石から相輪先端までの高さは31・5メートル。
和様を基調とした本瓦ぶきで、江戸期までの伝統に忠実な建築法が随所に見られるほか、獅子鼻や龍頭といった装飾が細かに施されていて、平成26年1月に市文化財に指定されています。

善通寺の五重塔は明治期のものですが、重文指定になっています。改修の終わったこの塔についても、近いうちに重文指定がされることが確実視されています。そのためにも下手な改修はできないという気合いが関係者にはあったようです。
建築家や大学教授、寺関係者でつくられた整備委員会は「歴史的、文化的な価値を損なうことなく、次の百年に残せる保存法を検討していく」ことを基本原則として、改修にとりくんできたようです。それは地域の宝、地域のシンボルを残し、活かす方策にもつながる道なのでしょう。

おつきあいいただき、ありがとうございました。

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