本山寺 その起源を奥の院  興隆寺石塔群を見ながら考える
 
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五重の塔から見る本山寺本堂

  本山寺の改修が終わったばかりの五重の塔に登って、鎌倉時代の国宝の本堂を見ながら、この寺の起源について私なりに考えました。その視点は宗教史家の五来重の次の勧めです。
「四国霊場に行かれたら、まず奥の院を訪ねてください。そうすると、そのお寺の本質がよくわかると同時に、四国遍路とはいったいどういうものかが分かります」
この言葉に導かれて、本山寺の奥の院に行ってみましょう。しかし、本山寺には、妙音寺宝積院と興隆寺跡の2つの奥の院があるようです。妙音寺については
「讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは丸部臣氏?」
でも述べましたので、今回は興隆寺跡を訪ねてみましょう。
「西讃府誌」には興隆寺と記され、本尊は薬師如来が安置されていたとされています。
やってきたのは、興隆寺の谷の入口にある延寿寺です。
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延寿寺

七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られています。
確かに、眼下には古代に忌部氏が開いたという笠田の美田が広がります。

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         延寿寺から見る笠田方面
ここは明治6年(1873)6月26日、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言が発せられた所でもあるようです。その直後に、下高野村の矢野文治がこの寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。矢野文治は、金倉川の処刑場で打首となっています。農民たちを一揆に駆り立てたのは明治政府の「重い地租・義務教育・徴兵制度(血税」などの新政策と戸長への不満が重なったものと言われます。彼らへの黙祷もこめて御参りします。
歴史のある大きなお寺ですが無住の気配でした。

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このお寺から西国参りのお地蔵さんに導かれて車道を登って行くと、石塔が残る廃寺跡に導いてくれます。 

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興隆寺跡の入口

西讃府誌に記載されている興隆寺は, 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在していしています。
 
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興隆寺の石塔群
 石塔群は何百年もの歴史を経てきたとは,とても思えないほど状態が良いのです。こんなに状態のいい石塔がこんなに多く並んでいるのを見るのははじめてです。
どうして、保存状態がいいのでしょうか?
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興隆寺跡の石塔群
それは凝灰岩の岩壁を掘り窪め、そのひさしの下に置かれてきたため、原形に近い状態です。
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興隆寺跡の石塔群

約20m下の下段に下りてみましょう。

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          興隆寺跡の石塔群(下段)
  上段に比べて、下段はひさしがありません。そのためここは風化が進んでいます。上段よりは見劣りがするかなと思いながら、中央部分を見ると・・・そこにいたのは不動明王です。

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           興隆寺跡の不動明王
顔を真っ赤にした忿怒の形相のお不動様が、ど真ん中に鎮座します。それを囲むように左右に五輪塔約30基が並んでいます。

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興隆寺跡にある石塔群

興隆寺跡にある石塔群は108基あり
、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。ひとつひとつをじっくりと眺めていると、それぞれの石塔が各時代の風格をただよわせ、中世における石塔様式の流れが少しは私にも分かってくるような気もします。

高瀬町柞原寺の石塔
 
これらの石造宝塔の特徴は、讃岐形宝塔とは一味違った三豊形宝塔の流れを汲んでいるとされます。ここにある石塔の祖型的なものが高瀬高校の隣にある柞原寺にある石塔です。凝灰岩製宝塔の塔身部に方形の開口部(納入穴)があり、遺骨や遺髪などを納めたと考えられます。しかし、今は地蔵菩薩がその中に祀られています。興隆寺跡にある宝塔も柞原寺の影響をうけているというのです。  

興隆寺跡に多くの石塔が並んでいるのはどうしてでしょうか

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 本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる
です。もともとは、これは奥の院興隆寺のご詠歌であったことが考えられます。「手向にぞなる」と詠んでいるところをみると、おそらく奥の院は、弥谷寺と同じように亡くなった人の供養の寺の性格もあったのかもしれません。そこから鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔をあげたと考える研究者もいます。
  一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
12世紀 妙音寺本堂の本尊  本尊の木造阿弥陀如来坐像
12世紀~15世紀 興隆寺跡にある石塔群が継続的に造立
1300年 本山寺本堂建立(国宝)  
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天霧城主の香川氏の墓石とされる五輪塔群(弥谷寺)

三豊地区で五輪塔が数多く並ぶのは弥谷寺です。弥谷寺の石造物については、次のような時代区分がされていることは以前にお話ししました。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地に天霧石の五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所に石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

弥谷寺に阿弥陀三尊の磨崖仏が姿を現すのは鎌倉時代のことです。
阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯は「九品の浄土」と呼ばれ、阿弥陀信仰の聖地でした。そのような環境を作り上げたのは、修験者や高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引し、その中の富者を、高野山へと誘ったようです。同じような動きが七宝山周辺でも行われていたようです。
弥谷寺 穴薬師
穴薬師堂の石造物(弥谷寺 Ⅱ期の地蔵物とされる)

少し視点を変えて、グーグル地図で七宝山全体を眺めながら考えて見ましょう。
「高屋ç\žç¤¾ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ

南北に延びる七宝山の南端の山が稲積山です
この山は神が天上から降り立った甘南備山で、山頂には高室神社の奥社が鎮座します。かつて、私が山登りのトレーニングのゲレンデとしてザックに砂を入れて登っていた時代は訪れる人もあまりいませんでした。背後から車道でついて「天空の鳥居からながめる有明海」の絶景がSNSで評判になってからは、新たな人気スポットになっているようです。確かに、ここから西から有明海、そして財田川に沿っての三豊平野は、稲作が西から伝わったルートを目で見れる絶景ポイントです。その稲積山からさらに南に伸びる半島の先、かつては島だった琴弾山の麓に、四国霊場観音寺はあります。ここは、神仏分離の行われる明治以前までは、琴弾八幡神社の神宮寺でした。

①七宝山地図

七宝山は、その名の通り弘法大師が七つの宝を埋めたという伝説があります。そして「不動の滝」は弘法大師修行の際、この岩に不動明王の像を刻んだことに由来していると伝わります。  弘法大師が修行したかどうか別にして、このあたりが修験者の行場であったことはうかがえます。
  四国霊場観音寺から高室山を経て不動の滝、そして石塔群が残る興隆寺にかけては行場が点在しています。中世は、行者たちによって辺路修行が行われた場所と考えられます。その行者たちが行供養で祈祷する石塔が興隆寺の石塔群ではないかと私は考えています。
さらにイメージを広げて想像するなら、こんなストリーも考えられます。
 燧などを越えて修験者が有明浜に降り立ちます。仏像のかたちをした石が辺賂の海で拾われ、その石をまつったところが奥の院となます。これを拝む人には、仏様が海のかなたからやってきて福を授けてくださる。そこにお堂ができます。 さらに、辺路修行で訪れた修験者や禅宗の旅僧がしばらくそこに留まってお守りをします。
  四国遍路の寺の中には、明治までは次の人が来て半年なり一年なりお守りをするというように、旅僧が交代でお守りをしていた寺がたくさんあります。
こうして、辺路修行の拠点となった寺院は信者を増やし、土地の有力者を庇護者に加えながら中世には大きなお堂をもつ寺院へと成長していきます。そして、海から上がった石をまつったところや、行場は奥の院と呼ばれるようになります。
 本山寺の奥の院も、七宝山の辺路修行の拠点や地元有力者の祖先崇拝熱の高まりで寺勢を拡大したのでしょう。そして、中世の商業活動の活発化と共に、街道から離れ地理的にも参詣に不便だということで、財田川と二宮川が合流し、伊予街道が走る街道筋に、13世紀末にお寺を移したのではないかというのが私の推測です。
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興隆寺跡から本山寺に移された五輪塔
本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院本尊であった仏を、馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く 事情反映されているのでしょう。
 馬頭観音を本尊とする寺は、四国では珍しく四国霊場の中では本山寺だけだそうです。牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。
馬頭観音はもともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られるようになります。
権化が牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神薬師如来垂迹スサノオ本地
牛頭天王は、京都東山祇園播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。
「馬頭観音」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(
ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院です。 龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが現在の本堂が建立された時期に起こっていたのではないかと私は考えています。

 長宗我部侵攻時に兵火を免れたのはどうして?

 もうひとつの疑問点が「天正の兵火」と言われる土佐の長宗我部軍の侵攻の際に、なぜこの寺が兵火に会わなかったのかということです。讃岐の近世資料を見てると「長宗我部軍の侵攻によって焼かれた」と書かれた由緒書きを持つ神社仏閣の多さに驚き、最近はあきれるようになってきました。しかし、この本山寺は兵火にあっていません。だから国宝の本堂が残っているのです。
それならなぜ本山寺は兵火に会わなかったのでしょう。言い伝えでは
「住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れた。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。その後、「長法寺から「本山寺」と名を改めた」と伝えられます。
これは、江戸時代に作られた「伝説」です。
 長宗我部郡の侵攻の際に焼き討ちに遭っていないのがはっきりしているのは、三豊では本山寺、中讃では小松尾寺金光院(現金刀比羅宮)です。小松尾寺は長宗我部占領下に会って、その占領政策に協力し、寺の指導者にも元親側近の修験者が就任しています。
 三豊における占領拠点はどこにあったのか?  
この質問に対して、それは「本山寺」であったと言える状況証拠はいくつかあります。しかし、この話はまたいつか・・