近世百姓の生活はどのようなものだったのでしょうか。 

中世は絵画といえば、西洋と同じで仏画や宗教画が中心でした。
庶民の姿が描かれることは殆どありませんでした。しかし、西洋では近世になるとフィレンツェでは大富豪の依頼に基づいて肖像画が描かれ始めます。そして、ネーデルランドのアントワープでは、大商人がパトロンとなり自らの生活を描くことを画家に求めるようになります。
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ブリューゲルの農民の踊り
ヴァン=ダイクらは油絵によってキャンバスに富豪の生活を描き、それらは発注者である中産階級の居間の壁に掲げられたりするようになります。さらに進んでブリューゲルは中世の画家たちが「貧しく猥雑」として見向きもしなかった農民たちを描き始めます。絵画に描かれる対象がぐーんと広がったのです。
 同時期の日本でも、その流れは安土桃山時代を境に大きく転換し、現世の風物や人間を描く世俗画が描かれるようになります。農村もまた描写対象になり、一双の屏風に農村の四季を描く「耕作図屏風」や絵巻物形式の「耕作絵巻」が作られるようになるのです。その中の代表的な作品「豊年万作の図」を眺めていて楽しくなってきましたので紹介したいと思います。

「豊年万作の図」 作者は浮世絵師 歌川貞吉です。

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     「豊年万作の図」原図は3枚続きです。

 「豊年万作の図」は、農業を教える教養画とされ、農業を知らない町方の商人たちの「教養絵巻」の役割も果たしたようです。そういう意味では、今私たちが見ても、近世百姓の稲作農業を知るのに役立つ絵図と言えます。
原図は3枚続きです。右の方から見ていくことにしましょう。

1 右上図 まず、右側は春から夏の農作業が描かれています

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  ①モミ乾し ④苗を運ぶ男 草取りをする女 

画面の上方には富士の雄姿が見えます。富士山は五穀豊穣を司る神の象徴として、江戸の浮世絵農耕図には定番だったそうです。讃岐ならば飯野山や羽床富士などのその地域の富士山が描き込まれたことでしょう。
ここには、稲荷神社と大きな倉が3つ並んでいる庄屋の家が背景に描かれています。この絵図の発注者の館かもしれません。
①作業のスタートは上段右の「もミを日にほす絵」で、赤子連れの夫婦が俵を開け広げるところから始まります。水に漬けておいた種籾を日に干して発芽を促します。
④苗取りの上には、苗を運ぶ半裸体の男がいます。

2 右下図 モミまき 苗取り 代掻き

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②種籾干しの次は、その下の男が[たねをまく(種を蒔く)図」です。
③そして、左の「苗取の図」へとコマが移動します。
⑤飯椀を頭に乗せ、薬缶をもった女性があぜ道を行く姿が大きく描かれます。その先を行く子どもは先導しているのでしょうか。この後、昼食か小休止になるのでしょう。
 絵巻物と同じように、同一場面に異なる時間推移が描かれます。
現在のマンガのコマ割りとは少し違いますので、最初は違和感があるかもしれません。

3 中央下図 代掻き 千羽漕ぎ 俵詰め

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⑥その左に手前の本田では、馬に引かせて代掻き作業が進みます。
 馬の轡に結ばれた手綱を引くのは子どものようです。一人前に馬を誘導しています。子供も大切な働き手だったことが分かります。
⑦代掻きの隣は、千羽漕ぎを使う女性が描かれています。
⑧その上には俵詰め作業です。
⑦⑧は秋の収穫シーズンの最終工程です。
その間の行程はどこに?

4 中央上図 田植え 草取り 踏み車

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この間の夏の行程は中央奥に描かれています。
⑦苗代で苗が育ち、本田の代かきが終ると、いよいよ田植えです。
 横一列に並んだ早乙たちの田植え姿が遠望できます。その上には高く鶴?か鷺が舞っています。稲がもっとも水を必要とするのは、苗の育つ田植えの時期と穂に実が付く彫刻み期です。だから、田植えはちょうど雨の多い梅雨に合わせて行われました。
⑧田植え後は田の草取りと田水の調節に作業の中心は移りますが中心的な作業となります。④の苗運びの半裸の農夫の向こうで、水田に入って農婦が腰をまげているのは草をとっているようです。除草は、一番草、二番草、三番草と何回もやらなければなりません。
⑨ 田植え作業の左には、踏み車による田への水取り作業も描かれています。これもも暑い夏に向かっての野良仕事でした。

一番左の絵図には、稲の実りから収穫が描かれています。

 刈り取られた稲は農家の庭先で脱穀作業に掛けられます。詳細に農具が描かれています。
「稲をこく図」では千歯扱き、
「もミをうつ図」では唐棹、
「もミをする図」では石臼。
図がかすれて見えにくのですが「ミにてふく図」では箕が使われています。
しかし、籾殻と玄米を選別する「唐箕」は見あたりません。
「3 中央下」で見たように俵詰めされた玄米を蔵に納め、春から続いた米作りが終わるのです。

ちなみに最終段階の「御上納米拵え」は、千羽漕ぎは女性が担当していたことが分かります。脱穀作業も明らかに女性がリードしています。これは、稲刈りが男ないしは男女共同であったことと対照的です。どうも西国・東国を問わず、この仕事は女性が上手だったようです。同時に、男尊女卑が強まる明治以後よりも女性の役割が大きかったことがうかがえます。
 「豊年万作の図」は蔵入れの図で終了します。
こうしてみるとこの絵図が「農作業の絵解き図」であったことがよく分かります。
 江戸時代のお寺のお坊さんが、文字が読めない庶民に「地獄絵図曼荼羅」を示しながら地獄のイメージを植え付けたように、この絵図でコメ作りの概要を知ることが出来たようです。そういう意味ではよくできた「教材」と言えます。

この絵図を当時の文字資料と突き合わせってみましょう。

絵図の書かれた加佐郡西部(現京都府)の山八川流域村々の事例を見てみましょう。ここには同時期の各村から大庄屋(上野家)宛に提出された報告書が残っています。例えば「豊年万作の図」の第一場面だった種籾関係の記事を探すと、
三月二二日に「種そろへ(種揃え)、池へ付く(浸く)」
とあります。種籾の池への浸種は、発芽を促すためのもので、田植え予定日(5月の夏至)から逆算して53日前までに行うのが決まりで、それが3月22日になります。
 三週間ほどの浸種の後、 日に干して苗代への種蒔きとなります。こちらは田植えから30日前の4月22日前後になります。そして、5月12日から田植えが始まります。田誉え初日のあらましは次のようです。ちなみに、文中の暦は旧暦ですので一月ほど遅くなります。
5月11日 (男は)前日に胆き聯した田を彰で均す。女は植付けをする。植えた傍へ柴肥(しばごえ)をどっさりと入れる。植え始めの日を「さひらき(早開き)」といい、苗二把を洗い、神酒とともに明神に御供えする。
「豊年万作の図」でもそうでした、田植えは女性の役目でした。
肥料として柴肥(低木の若葉)を大量に投入することにも注目しておきましょう。これが草刈り場の入会権の問題として、後々重要なポイントになります。

 当日の作業終了後、豊作を祈願して苗二把と神酒を氏神社の熊野神社に奉納します。田植えはこの日から一週間、早稲・中稲・晩稲の順に進められます。田植えの終了日は、田の神が昇天する「さのぼり」と呼ばれ、苗三把と神酒を明神に奉納します。田植え後の中心作業の草取りは、6月に始まり7月25日の盆の頃まで続きます。農作業が神事と結びついているのもポイントです。

 これも「豊年万作の図」には描かれていませんが、主に女性の行う「下木刈り」も大切な農作業でした。村山に生える柴や草の刈り取りで、7月5日に始まり20日間ほど続けます。これらを腐らせて作った肥料は、二毛作の麦作り用の肥料として使われました。すでにこの時点から、秋の麦作りの下準備が行われているのです。

一枚の絵図から色々なことに合点がいくようになります。
同時に新たな疑問も沸き出してきます。
私にとっては下草刈りの意味がそうでした。
それは、また別の機会に・・

参考文献 水本邦彦 「村 百姓達の近世」 岩波新書