根香寺の縁起について、霊場会のHPには次のように紹介されています。
空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとします。その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。
その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市(一)之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。
すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという
ここには
①空海が修行の地として花蔵院を建立し、
②その後に円珍によって観音霊場として千手院が建立され、
③この両者を併せて根来寺と呼ばれるようになった
と云います。ここには「空海創建=円珍中興説」が記されています。ところが江戸時代後期に、当時の住職によって書かれた「青峰山根香寺略縁起」には、次のように書かれています。
当山は西は松山に続き、北は海門に望み香川阿野両郡の分域なり、閻閻東南に折乾坤日夜に浮ふの絶境なるを以、吾租智澄大師はしめて結界したまひ、七體千手の中千眼千手の聖像を以安置したまひ、更に山内鎮護のため不動明王を彫剋して安置す、
ここには空海は、登場しません。円珍が開祖で不動明王を作って安置したとされ「円珍単独創建説」記されています。つまり江戸時代に根香寺は「空海創建=円珍中興説」から「円珍単独創建説」に立場を変えたようです。そこにはなにがあったのでしょうか。歴史的に見ていくことにします。
智証大師座像(根来寺蔵) 頭は、円珍のトレードマークの卵形
この寺の歴史は、資料的にどのくらいまでさかのぼれるの?
讃州 根香寺
奉造之 智澄大師御影一林
大願主 阿闇梨道忍
佛 師 上野法橋政覚
彩 色 大輔法橋隆心
元徳三年 八月十八日
「根香寺」の名を記録上確認できるのは、この智証大師像の像底銘にある元徳三年(1233)が最も古いようです。ここには
①阿闇梨道忍が当寺へ奉献したこと、②制作仏師は上野法橋政覚、
③彩色は大輔法橋隆心
であることが記されています。円珍を開基とするこの寺の立場が、鎌倉時代まで遡って確認できる史料となります。
②次に古い文書は、根香寺に両界曼荼羅が奉納された時の願文(「束草集」所収)で、正平十二年(1357)です。
③そして、応永十九年(1411)に京都北野経王堂で行われた一切経写経事業に根香寺住侶長宗が参加している記録です。
これらの資料から根香寺は、少なくとも鎌倉時代末期頃までには一定の活動を行う寺として成立していたことが分かります。
寺の規模は、九十九院の子院を従え、寺領平石千貫を有したと由緒書は記します。江戸期の地誌によれば香西等に名残を示す地名があったらしく、かなりの規模を有した寺院であったと考えられます。
この寺を考える上で手がかりになるのが「根香寺古図」です。
この寺を考える上で手がかりになるのが「根香寺古図」です。
この絵図は根来寺縁起を絵図化して描いたもので、江戸時代末の作とされています。ここに描かれている物語を、絵解きしていきましょう。物語のスタートは①一ノ瀬神社から始まります。讃岐の山岳信仰の聖地巡礼中の円珍(智証大師)の登場です。
①「右下 対面する二人」は、青峯山の鎮守である市之瀬明神の赤い鳥居の前にやって来た智証大師は老翁に出会います。老翁は市瀬(一ノ瀬)明神の化身している姿です。円珍は、老翁に導かれて蓮華谷の山上に向かいます。
②二人は「左上 枯れ木」に移動します。
ここには枯木を囲んで立つ二人と、本堂の前に立つ二人の姿が描かれます。ここにあった枯木は、不思議な光と香気を放つ霊木でした。老翁は、この霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう円珍に告げます。円珍は、その教え通りに千手観音像を彫り本尊とし、ここに「千手院」を建てて安置します。
ここには枯木を囲んで立つ二人と、本堂の前に立つ二人の姿が描かれます。ここにあった枯木は、不思議な光と香気を放つ霊木でした。老翁は、この霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう円珍に告げます。円珍は、その教え通りに千手観音像を彫り本尊とし、ここに「千手院」を建てて安置します。
ここからは山岳仏教の行場として開かれる以前に、地元の神が存在したことが分かります。そして、その神が仏教寺院建立に協力したことが語られるのです。
③「本堂の下方に束帯姿の人物」は、平安の時代に菅原道真が遊覧したという景勝地、天神馬場を書き込んだものとされます。絵図ですから、時空を超えていろいろな「人と物」が書き込まれます。
ここで研究者が注目するのは、「滝と行者」です。
根香寺からは架空の大きな滝が流れ落ちています。その滝の横を行者道が続きます。その道を大きな荷物を背負った修験者が上っていきます。ここからは根香寺と修験道の関わりが見えてきます。この絵が書かれた江戸末期は、根香寺は醍醐寺と共に修験道の拠点である聖護院門跡の末寺でした。滝や行者の姿が描き込まれているのは、山岳信仰、修験道の行場としての根香寺の姿を示していると研究者は考えています。
生島湾には塩田が描かれています。
享保年間に作られた旧塩屋塩田と、天明八年に開かれた生島塩田です。この寺の創建時にはなかった江戸時代の景観です。さらにこの絵図には月や雪山、雁など濠湘八景を思わせる物が描き込まれています。この地域の地誌「香西雑記」(寛政八年)は、この地の美を八景になぞらえて愛でています。それがこの絵の中に描かれている可能性もあると専門家は指摘します。
以上見てきたように、江戸後期に寺の縁起を説明するために書かれた絵図には、いろいろなものが描き込まれています。その中で、当時のこの寺の指導者たちは、自分たちのルーツが「修験道」にあることを意識していたと思えます。
寺に残る仏像や画から推察できることは?
不動明王二童子
この寺の絵画作品のうち、制作年代が中世のものと考えられのは、七件あるようです。そのうち3点までが不動明王です。これもこの寺の性格を表しています。不動明王は修験者の守護神で、肌身離さず修験者が身につけていた明王です。
室町時代の「不動明王像」は、滋賀・園城寺(三井寺)にある墨画の「不動明王像」(重要文化財)に様式が似ており、同寺の長吏を務めた行尊の筆と伝えられるなど三井寺とこの寺とのつながりをうかがわせるものです。天保四年(1833)の記録には、根香寺が天台宗三井寺派であったことが記されています。
以上から根来寺は、辺路修行の行場から発展したことが窺えます。
そして、宇多津・坂出の海岸線の行場である城山や聖通寺、沙弥島、本島が真言山岳密教の拠点醍醐寺の開祖である理源大師の伝説に彩られているのに対して、この青峯周辺は天台宗三井寺の智証大師の伝説によって彩られているように私には思えます。
根香寺の不動明王二童子について
剣と索絹を持って岩座に立つ不動明王の両脇に、金剛棒を持つ制旺迦と、衿掲羅の二童子が描かれています。痛みがひどくよく分かりませんが、不動明王は天地眼に左上と右下の牙を出しているようです。頭のてっぺんに蓮華を載せて、髪はカールして左肩に辨髪をたらしています。衣は鳳凰や雲などの文様が描かれています。
二童子の制旺迦は、朱の濃淡をつけながら体が塗られています。、目や口は墨で、力強いく描かれています。それに対して衿翔羅は、体が白色で塗られ、墨の細筆で目鼻や髪を繊細に描かれています。下の方には波らしきものわずかに見え、三尊が海上の岩座に立っていることが分かります。根香寺にもう一幅伝わる「不動明王二童子像」と同箱に収められていて、箱書にある「智証大師筆」の画像が本図にあたるとされています。
参考文献
香川県立ミュージアム 調査報告書第4号 根来寺総合調査報告
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