本堂の毘沙門天立像はどこから来たの?

県立ミュージアム調査研究報告第4号(2012年)は、根来寺の総合調査報告です。仏像については、本尊の秘仏千手観音像(重要文化財)と仁王門の仁王像をのぞく、本堂三件、大師堂五件、五大堂四件の調査が行われています。
さて、専門家が書く仏像の調査報告書というものはどんなものだと思いますか?
この調査の中で一番古いとされた本堂の毘沙門天立像についての報告書を、写真と見比べながら見てみましょう。  
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本堂の毘沙門天立像

兜をかぶる。頭頂に宝珠をおく。
顔はやや左方に向き、目は眼目して見開き、口を閉じる。
上半身に大袖、鰭袖の衣をまとい、下半身に裳、袴を着け、沓をはく。
頚当、胸甲、龍手、脛当、全身に表甲を着る。
胸甲は、二重線帯で縁取りの楕円形、
背面にまわる表甲から太めの帯がのびて胸甲と連結する。
表甲は、背面の背と腰から、正面の大腿部を包み込む。
表甲は、正面中央にて右椎し、その上に前楯を重ね、甲締具でしめる。
表甲の下縁は、直線的に背面に連なる。
なお、背面には獣皮をかけない。
腰帯に帯喰(巻髪、髭あり、上下牙、歯をみせる)をつけ、
前楯上部は円形、下端は長方形なだらかに垂下し、翻転なし。
腰帯は捻りながら腰をまわり、天衣をまわしかける。
左手は屈暫し宝塔をささげ、右手は高く挙げて三叉戟を執る。
左足に重心をおいて、身体は穏やかな動きをとり邪鬼を踏まえて立つ。 
邪鬼は開口する。                         光背 火焔付輪光、柄付台座 長方形振座、岩、邪鬼
この文章だけを読むと、素人には何のことか分かりません。
しかし、写真と見比べながらひとつひとつの部位を確認していくと、専門家が仏像を見るポイントがどこにあるのかはなんとなく分かってくるような気もします。
あくまで気持ちだけですが・・・。、
仏像を頭から足先まで各部位や着衣、形体などを単文でコンパクトに記していきます。ある意味「機械的」です。
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この毘沙門天立像はもともとは「四天王像のうちの多聞天像」?

 この報告書では、本堂の毘沙門天立像はもともとは「四天王像の多聞天像」ではなかったのかと指摘します。多聞天像は、兜をかぶり、左手で宝塔を捧げ、口を閉じているスタイルが平安時代中期に定着します。また、うごきがが穏やかで、各部の彫りも浅く、裳裾にボリュームをもつ姿も、平安時代中期の和様化か進められた四天王像に通じるようです。
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 また、眉間の瘤、瘤の左右から上方へ皺を刻むという表現方法も、東寺講堂像や六波羅蜜寺像の多聞天と同じ表現です。ただ腹部が絞られて肉感が押さえられて少々スマートな感じや、着甲の表甲、下甲の正面合わせ目の作り方に甘さが出てきているので、時代はやや下がり十世紀末以降とします。 つまり、この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人だったと多聞天ではないかとその「出自」を推測します。  

ここで、私が疑問に思ったのがこの寺の由緒書や(『南海通記』)の記述です

そこには天正十三年(1585)の長宗我部軍の侵入により、ほとんどの堂宇および仏像、寺宝が焼失したと書かれています。その2年後の天正十五年に生駒氏が讃岐国に入り、生駒一正により慶長年間に寺領寄進と復興が行われます。「根香寺記」「略縁起」「由来」「翁嘔夜話」等)。
 そして、本格的な復興が行われるのは、水戸からやってきた松平頼重の時代です。頼重は、当時真言宗であった根香寺を天台宗に帰宗させ、京都聖護院宮の末寺とし、寺内各堂宇の新造や道具類の寄進など再興に力を注いだとされます(「根香寺記」「略縁起」)。
 しかし、享保三年(1718))に再び大火災に見舞われ、堂宇や生駒氏領知宛行状、縁起等を失ったといいます。その後、宝暦期になってから五代藩主頼恭による大規模な再建が行われたことが寺伝来棟札などから分かります。現在の根香寺の原型は、この時に作られたようです。
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 解体修復以前の毘沙門天立像
さて、天正と享保の2度の大火を経て、仏像は残ったのでしょうか?
特に享保の大火は一番に持ち出すべき、生駒氏の領知宛行状や寺の縁起まで失っています。本尊やその他の仏像類は況んやです。
全てが焼け落ちたと言われるのに「毘沙門天立像」があるのはどうしてでしょうか
  この像以外にも先日紹介した開祖智証大師(円珍)像も、その像底に元徳三年(1232)の年号が入っています。これも焼けずに残ったと考えるのは不自然です。
私の郷土史の師匠の言葉によると「仏さんがもともとからそこに座っていたとおもたらいかん。
仏さんは、後からやってくることもある。」
というのです。
つまり本殿の創建時からいた仏と、あとからやってきた「伝来仏」の2つがあるのです。
四国霊場などには近世以後の寺の隆盛とともに、周辺の廃寺となった寺から幾つもの仏が集まってきて、そのためのお堂が建てられるということが起きてきます。仏もお金のあるところに集まってくるのでしょうか? 仏像が「歩く」とすれば ・・
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 讃岐国分寺から根香寺へ移されたと伝えられる如来形立像

根香寺の毘沙門天立像は、どこからやってきたのでしょうか。

『下笠居村史』(昭和三十一年)には、この仏像は「祖師堂安置」と書かれています。しかし、今は本堂に安置されています。
この寺の住職が書いた「青峰山根香寺記」には「大師開基時 安多聞天像 今所存像是也」とあり、智証大師がこの寺を開いた時に「多聞天像」を安置した。それが現在の「毘沙門天」だと記します。
毘沙門天像は根香寺創建期以来のものとしますが、もともとは多聞天像だったというのです。
それに対して、増田休意編の「三代物語」明和五年(一七六八)には、天正十三年(1585)の兵火により本尊千手観音像及び諸仏像、経巻、什物や曼荼羅とともに灰煌に帰し、わずかに残るのは法華経と弘法大師の袈裟のみだった。そこで本尊千手を根香と白峯の間にある吉水寺から移した」と記され、さらに、この毘沙門天も「吉水寺四天王之一也」と記しています。
  この記述と、先ほど見てきた「この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人」だったという説は補完しあいます。
ちなみに吉水寺は根香寺近くにあった寺で、根香寺、白峯寺などと同じ霊木で彫った仏像が安置されていたと伝えられます。江戸時代には廃寺となっていたようですが、先日紹介した「根香寺古図」にも縁の深い寺として創建時の景観の中に描かれています。
以上から次のような推論ができます。
①根香寺の本尊千手観音(重文)と毘沙門天立像は、吉水寺にもともとはあった。
②中世末までに吉水寺や根香寺も衰退した。
②江戸時代になって松平頼重によって、寺内各堂宇の新造されその際に、吉水寺の仏像類が根香寺に移された。
しかし、これに対しては次のような疑問が投げかけられることが予想されます
① 天正十三年の兵火で根香寺は焼け落ち全てを失ったというのに、近くにある吉水寺は難を逃れたというのか?
② 松平頼重の復興事業の中で吉水寺から仏像が移されたのなら享保三年(1718)の再度の大火災では、どうして焼失しなかったのか? 


   根香寺の毘沙門天立像は何者なのでしょうか?
 謎の多い仏です。
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