この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。

恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50

その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の不動明王と四天明王が横一列に並びます。
東方に降三世(ごうさんせ)
南方に軍荼利(ぐんだり)
西方に大威徳(だいいとく)
北方に金剛夜叉(こんごうやしゃ)
の各明王(みょうおう)の豪華キャストたちです。
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根香寺の四天明王たち

 明王は、明(みょう)(真言(しんごん)ダラニ)を唱えながら拝むと、霊力がアップすると言われます。どの明王も、救いがたい愚かな衆生を教化するため、いずれも光焔を負います。忿怒表情ですざましく、幾つもの手が武器を振りかざします。
あらゆる悪魔的な力を打ち破るため、怒髪(どはつ)天をつき、多面(ためん)、多臂(たひ)、多足(たそく)の非人間的な姿で表現されます。
 護摩の炎の中で極彩色の五大明王の目がぎらぎらと輝きます。
忿怒の怒りの表情に、思わずおそれ畏怖を感じます。
鎌倉時代の昔、この山深い根香寺の堂の中で、五大明王を前にして護摩(ごま)をたいて祈祷し、行場を廻る辺路修行を行う修験者たちがいたのです。

  これまで護摩堂の明王たちは、まず不動様が先に作られ、その後で四天明王が安置された考えられてきました。時期的には、不動さまが南北朝頃、四大明王が鎌倉時代とされてきました。「中世に遡る等身の五大尊像」として昭和44年には県の指定有形文化財を受けています。
 台座の構造劣化など寄る年月に明王たちも苦しむようになり、平成十六年より1年に一仏ずつ解体修理が行われました。その結果、不動明王像と四天明王の大威徳明王像から像内墨書や納入文書が見つかりました。
さて、そこには何が書かれていたのでしょうか?
また、そこから何が分かってきたのでしょうか。
真ん中の不動さまから、報告書にそって見ていきましょう。
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不動明王(根香寺)
顔は正面を向き、ほぼ直立して岩座上に立つ。
頭部は巻髪、萍書、左耳前に髪を緩り束ねて垂らす。
正面巻髪の間に、頭飾をあらわす。頭飾は、扇形の線帯に列弁文を重ねた花文で、冠帯はつくらない。
面部は、額に水波相をあらわし、両目は見開いて眼目し、
口をへの字に曲げて左牙を下出、右牙を上出する。
三道相。耳は耳孔をつくらず、耳采環状貫通とする。
左手はやや前方に出しながら垂下し、全指を曲げて祠索(両端に三鈷形と杏葉形の金具を取り付ける)を握り、右手は腎を外に張って曲げ、剣(刀身に樋を刻み、柄を三鈷形とする)を執る。条帛、裳、腰布をつけ、腕・腎・足に釧をつける。
光背 迦楼羅焔光            ’
台座 岩座 枢座 長方形
松平初代藩主頼重が、この不動明王に「霊験あれば示し給え」と祈念したところ、この不動がやおら立ちあがったという伝説が伝わります。それも「ほんまかな」と思えてくるお不動様です。

そして今回の解体修理で像内を開くと・・・・・・
背中や腰の内側には墨書がびっしりと書かれていました。
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根香寺不動明王の像内腰部墨書
何が書かれているのか・・ 
  奉造立等身不動明王
  夙聞大聖明王者大日如来教令輪
  身魔界降伏之忿怒尊也故現
   口口罪垢常念奇口
  覚位霊観夢依宿願集
  口(裏)因模尊鉢等生恵黄口(賞)
  口口平等利益敬白 弘安九年磐二月廿五日奉介御身
  ここには、不動明王が大日如来の化身であること、忿怒の形相の所以など、そのありがたさが書かれています。
そして最終行に弘安九年(1286六)の年号が見えます。
ここからこのお不動さんの制作年が鎌倉時代13世紀末と判明しました。この時期は、香川県の寺院建築で唯一国宝に指定されている本山寺の本堂が建設中だった頃になります。

   寺伝では、開基智証大師によって彫られたと伝わります。
しかし、前回も述べたとおりこの不動が創建時からここにあったは思えません。根香寺は、戦国末期と江戸時代前期に2度の大火にあって伽藍が焼け落ち、寺宝も失っています。智証大師像や毘沙門天さまと同じく、後からやってきた仏様と考えるのが自然です。
それでは、どこからやってきたのでしょか。
このお不動さんの由来を示す資料は、今のところないようです。
次に四天明王を見てみましょう。 まずはメンバー紹介から始めましょう。
降三世(ごうさんせ)明王像です
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      根香寺の降三世明王像
四面、八腎。顔は正面、左右両脇、後に各一面。
各面単髪、地髪マバラ彫り、皆、左右こめかみの髪際は炎髪。各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。馨の根元にも山型飾(背面を除き、紐二条を結ぶ)を付す。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。上歯上牙で下唇をかむ。
三道相。耳は耳孔をつくり、耳采環状貫通。鼻孔をつくる。
左右第一手は屈腎して、胸前で左手を上にして手首を交叉して甲を重ね、第五指を絡めて第二指を立て他は曲げ、降三世印とする。
第二、三、四手は、第一手の後方の上中下の位置で屈腎し、各持物をとる。
左第二手は三鈷杵、第三手持物(弓)は亡失、
第四手は龍索、右第二手は五鈷鈴、
第三手が箭、第四手は剣を持つ。条帛をかけ、裳(右柾)をつける。裳の前裾は、大腿部を巻きこんで、左右脹脛を通って外へ翻る。腰布を巻いて正面で結ぶ。
左足は伸ばして大自在天の右胸を、右足は膝を軽く曲げて鳥摩妃の左手を踏んで立つ。左足の第一指を反らす。胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
天座 岩座上に大自在天と烏摩妃を配する。大自在天は頭を左方へ向けて岩上に仰向けに横臥し合掌する。顔を正面に向けて目を見開き眉をしかめ、口を軽く開く。地髪は平彫、単馨を結う。条帛をかけ、裳、腰布をつけ、正面で結ぶ。 
烏摩妃は頭を右方へ向けて、右手を岩上について上体をささえて横臥し、左手は体側に沿わせる。
右足を大自在天の右足の上にのせる。
頭飾をつけ、地髪はマバラ彫り、髪を肩上でゆるく持ち上げ単馨を結う。髪髪をU字に垂らす。大袖の衣に鰭袖の衣を重ね、腰紐を結ぶ。
光背 輪光・火焔付 台座 岩座枢座 長方形
 降三世明王は、顔が3つ、手が8本で、足下に大自在天(だいじざいてん)とその妃の烏摩(うま)を踏んでいます。これは、欲望にうずく世界、物質にとらわれる世界、意識にこだわる世界の煩悩を降伏(ごうぷく)する明王と信じられています。この三世界の主である二天をも降伏することから降三世の名がついているといいます。

軍荼利(ぐんだり)明王像

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 一面、八腎。単馨、地髪マバラ彫り。
天冠台をつけ、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
その根元に山型飾を付し紐二条がめぐる。
左右こめかみ髪際、耳後及び後頭部は天冠台上から炎髪をあらわす。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。
上歯をみせ、牙を上出す。
三道相。鼻孔、耳孔をつくり、耳采環状貫通。
第一手は左右とも第一、五指をおって掌を内に向け、
胸前で左手を上に交叉する。
ほか三手は、第一手の後方の上中下段に配される。
左第二手は輪宝、第三手は三叉鉾、第四手は
右第二手は三鈷杵をとり、第三手は掌を前に第二指を上に立て、他の指は第一指を内に握り、第四手は掌を前に向けてひろげる。条帛をかけ、裳をつけて、その正背面に獣皮(各頭付、正面虎、背面豹)を重ね、腰布をまわして正面に花結びをみせる。
裳裾の翻る様は降三世に同じ。
獣皮正面では頭を下に向けた二匹の蛇が交叉する。
左足は伸ばし、右足は膝を曲げて軽く上げ、いずれも第一指を反らして蓮華座を踏む。
胸飾をつけ、頚元に二匹の蛇を絡ませ、各手に腎釧をつけ、
各手と足首に蛇が巻きつく     
光背 輪光・火焔付台座 岩座柾座 長方形
 軍荼利明王は、すざましいお顔に目が3つ、手が8本。
12匹の蛇が、脚・首・手に巻きついています。
軍荼利(甘露をたたえた瓶)の甘露で種々の障害を除いてくださるといいます。五大明王から私がすがる仏を選べと言われたら迷わずこの方を選びます。 

金剛夜叉明王像 

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三面、六腎。各単馨、地髪マバラ彫、
左右こめかみ上髪際と後頭部、耳後より炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾、愕の根元に山型飾と紐二条を結ぶ。
本面は天眼と四目、左右脇面は天眼と二目、天眼のほかは皆瞑目。各面とも開口し、上歯牙と舌をのぞかせる。
三道相。本面は耳孔をあけ、三面とも耳采環状貫通。
鼻孔をつくる。
第一手左は腹前に屈腎して五鈷鈴を、
右は胸前に屈腎して逆手に五鈷杵をとる。
第二・二手は、第一手の後方上下に配して屈腎し持物をとる。
左第二手は輪宝、第三手は、右第二手は三鈷剣、第三手は箭をにぎる。条帛をかけて、裳(右粁)をつけ、腰布を巻いて正面で結ぶ。
裳裾の左右に翻える様は降三世に同じ。
左足を伸ばし、右膝を曲げて、前傾姿勢をとり、各蓮華を踏んで立つ。胸飾、腎・腕・足に釧をつける。
光背 鳶光・火焔付 台座 蓮華座岩座枢座

 金剛夜叉明王は顔が3つで、その中の中心の顔には目が5つあります。手は6本。金剛杵(しょ)の威力をもつ夜叉の意味で、人の心の汚れた欲心を食い尽くし、真実の悟りにいたらせるといいます。この明王の名前がつけられた有名な「戯曲」がありますね。

大威徳明王像

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六面、六腎、六足。各面単馨、地髪平彫り、左右こめかみの髪際と両耳後から、頭上面はさらに後頭部に炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
頭上面の馨根元に山型飾を付す。
各面ともに天眼をあらわし、両目は瞑目。
本面は開口(上歯牙・下牙)、左脇面開口(上歯牙・下牙)、右脇面閉口(上歯牙)。頭上正面開口(工歯牙・下牙)、左は開口(上下歯・上牙)、右は閉口(上歯牙)。
いずれも三道相をつくる。
本面と両脇面は耳采環状貫通、頭上面は耳采不貫とする。
耳孔はつくらない。左右第一手は胸前にて、各第三指を伸ばして相合わせ、他の指は組み合わせて掌を合わせる。
第二、三手は屈腎して、第一手の後方で上下に配し持物をとる。左第二手は三叉鉾、第三手は輪宝、右第二手は三鈷剣、第三手は如意棒をとる。
条帛をかけ、裳(右任)をつけ、腰布を巻いて、結び目を正面にみせる。裳裾は各膝頭を包みながら覆い、一部は左右足の前方に垂れ、後方では左右足裏から翻る。
左第一足を珈し、他は垂下して水牛の背にまたがる。
胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
牛座 正面を向いて、鱒る。光背 輪光・火焔付
台座 枢座 長方形
大威徳明王は、水牛に乗っているので間違うことはありません。
一切の悪毒龍を調伏する大威徳のある明王です。六面・六臂(ぴ)・六足で水牛にのっていて、農耕の仏ともいわれ農民たちの信仰を集めました。
そして、「お宝」は、この大威徳明王像から発見されました。
この像内の背部からは貼付けた文書、牛座からは墨書と納入文書二種が出てきたのです。それを見ていくことにしましょう。
大威徳明王像一、像内背部貼付文書
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五大尊四鉢ノ内大威徳明王施主 
  松平讃岐守様也 
  昨者京七條大佛師 
  左京法眼康知弟子佐々木内近作之也
  康知(開山従定朝廿四世運慶より十九代孫也
  天和参歳抄三月拾日
  将運綱儀公  大佛師内近

  帝 今上皇帝
  右之御取次木食専心坊様也
  大威徳明王座像弐尺弐寸五分
  うしあり
ここから、四天明王は高松藩初代藩主松平頼重が護摩堂本尊として京都の仏師に作らせたことが明らかとなりました。その取り次ぎをおこなったのが「木食専心」であったとも記されています

 そのうち最後の大威徳像は天和三年(1683)に、京都七条大仏師康知の弟子である佐々木内匠の作であること、他の三像は大仏師久七の作でことが分かりました。そして仏師の住所も「綾小路烏丸東入丁大仏師久七」と分かります。この明王たちの「誕生地」を訪ねることも出来ます。

 ちなみに大仏師久七の作品としては、

万治三年(1660)の金剛峯寺真然大徳坐像と、寛文十三年(1672)長野県千曲市長雲寺の愛染明王坐像が確認できるようです。
長雲寺 | ちくま検定
    長雲寺の愛染明王坐像(長野県千曲市)
近世京都の仏師には全国のお寺から注文が入っていたことが分かります。長雲寺愛染明王像と根香寺降三世像を比べて、専門家は次のように指摘します。
顔の表現には相通じるものが感じられる。開口と閉口という差、また十年という制作時期の差があるが、頬骨を高くしてこめかみを引き締めた面相のバランス、目を瞑らして眉間につくる瘤、こめかみから立ち上がる炎髪と髪際の処理などの表現には、同一作者ゆえの傾向がみてとれるだろう。
根香寺の四大明王像は、東寺講堂の明王像に似ていると言われてきました。
東寺像と比較すると、手勢、持物に違いはありますが、動きや姿勢はほぼ同じです。東密の四大明王像をモデルにしているようです。それも、大仏師久七が東寺の「お抱え仏師」であったことが分かると「なるほどな・・」と合点がいきます。 
しかし、専門家は「降三世明王像は、東寺像と異なる様相」があると指摘します。
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根香寺の像は、体の色が群青色ではなく、右は黄、左は緑、背面は紅色と塗り分けて「派手」です。
降三世の四面の色を明記した経典としては
「金剛頂喩伽降三世成就極深密門」(不空訳)があります。そこには「降三世喩伽、二羽印営心、慧手持五鈷、努腎如下擬、次箭剣直執、定上五鈷鈎、次弓次執索、皆直引腎持四面正青色。右黄左緑色後紅、咸忿怒」と記されています。
体の色については「四面正青色。右黄左緑色後紅」とあり根香寺の降三世さんの方が「原典に忠実」です。他にも東寺像では、右足が烏摩妃の乳房を踏むのに対して、根香寺像は、烏摩妃が左手(掌を上に向けている)で受けていることがわかります。つまり、この像に関しては全て東寺像を「コピー」した訳ではないようです。
なぜ降三世は、独自色が強いのでしょうか?
専門家は、それを大威徳の次の墨書銘に求めます。
讃州右京大夫様/護摩堂之御本尊也」とあり、この四大明王の造立は、高松藩主初代松平頼重が護摩堂の本尊として発注した物であることが分かります。

そこで五大明王像の経緯を見ていきましょう 

まず根香寺に現存する史料から始めます。
 根香寺の近世期の縁起には「青峰山根香寺略縁起」及び「讃岐国根香寺記」があります。前者は五世俊海が、後者は第六世受潤が延享三年(一七四六)に著した物です。この両縁起には寺の創立由緒を智証大師とする意図が強くあると言われます。
例えば
「不動明王像も本尊千手観音像とともに智証大師の作である」
とします。前回に見てきたようにこれは歴史的事実ではありません。
今、見ておきたいのは近世期の根香寺の動向です。
「慶長年中には讃岐国主であった生駒一正により本尊千手観音像と不動明王像を拝顔して敬信し、二尊のために堂于を建て替えた」

意訳変換しておくと 
慶長年間に讃岐藩主の生駒一正が、本尊と不動明王を奉納し、この二尊のために金堂を立て替えた。

これは
松平頼重が施主となって護摩堂本尊として造立したという銘記の内容と一致します。この寺の中興の祖とされる龍海については元文六年(1742)「浄行院龍海和尚伝」があり、それにも四大明王像は頼重の造立であると伝えます。ただし五大尊は「祈祷所本尊」であり、二代頼常によって根香寺へ移されたとします。
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また天保四年(一八三三)の「青峰山根香寺由緒等書上控」に、
不動明王は「智護大師之真作、殊二霊威新故、御下屋敷江御勧請(延宝年中)三間二五間之護摩堂御建立有之、御安置候而」と記されています。
根香寺にあった不動明王が、頼重の下屋敷に建てられた護摩堂に安置されたことが分かります。
さらに「由緒等書上控」は次のように記します。
仏工「法橋治部」に命じて降三世など四大明王を造らせて五大尊とし、龍海と了尊の2人に預けた」
「国家安全御武運長久」のため、長日の護摩供、正、五、九月は百座の護摩修行を仰せ付けられた」
「頼重没後の元禄年中に、二代頼常が五大尊を根香寺へ移した
 下屋敷とは、頼重が居住した宮脇の下屋敷で、「龍海伝」の「祈祷所」とは、この下屋敷にあった護摩堂を指すと研究者は考えています。そうだとすると頼重自らが下屋敷に護摩堂を建立し、根香寺から移した不動明王像に、京都の仏師に依頼した四大明王を加えて五大尊として祀り、国家鎮護のために護摩法をさせたということになります。隠居後にもかかわらず頼重は、自分が祈祷するための環境を、日常寝起きする下屋敷内に整えたということです。つまりプライベートな祈祷環境を整えたのです。彼は、そこで日常的に祈祷を行っていたのかもしれません。頼重の信仰世界が少し見えてきたような気もします。 どちらにしても、これは金毘羅大権現保護や仏生山建立などの寺院保護や再興の域を超えています。頼重が根香寺のお不動さまに強く惹かれたことは事実のようです。
下屋敷に五大堂を建て祀ることを進言した宗教的指南役は?
そのプラン全体を考えたのは誰か。
牛座内の納入文書等には「此御本尊御取次木食専心様」とあります。頼重の宗教的ブレーンはここに出てくる「木食専心」のようです。しかし、この人物については何も分かりません。降三世像を東寺講堂像のモデルからグレードアップし、四面の色、持物を「原典」通りにしたのは、五大尊の「霊力アップ策」で、木食専心のアイデアだったのかもしれません。
 どちらにしろ江戸時代を通じて、密教系の加持祈祷・護摩が頼重に見られるように支配層の上層部の信仰心を捉えていたことが分かります。根香寺の四大明王は、鎌倉時代の不動明王に祈りを捧げるようになた頼重が京都の仏師に作らせ下屋敷に安置したものなのです。

参考史料
香川県立ミュージアム 調査研究報告第4号 根香寺の彫刻調査
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