雨瀧山城 説明看板

雨瀧城の主である安富氏については、守護細川氏のもとで東讃の守護代を務めていたことは、以前にお話ししました。文献史料から指摘されているのは、次の二点のようです。
①讃岐守護代家安富氏が讃岐に所領を与えられたこと
②安富氏が寒川郡七郷へ侵攻して雨瀧山・昼寝山押領をしたこと
政治的経過はある程度は分かるのですが、それを雨瀧山城と結びつけて論じたものは、あまりないようです。雨瀧山城を縄張研究の視点から城郭遺構を見直し、築城者までもを探ろうとする論文に出会いましたので紹介します。テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。今回は、雨瀧城の範囲と遺構を縄張図で見ていきます。

雨瀧山 遺構図全体
雨瀧城全体遺構図

 尾根上に残る遺構は、次の3つに分けられるようです。
1 寒川方面主尾根NW遺構群
2 火山方面主尾根E遺構群
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群
 雨瀧山山塊の背骨ラインを形成する尾根は、東から2の火山遺構群を経て、本丸のある雨瀧山山頂を通って、北西に伸びる寒川尾根遺構群から津田川(富田川)へ落ちていきます。津田川(富田川)へ落ちる尾根裾部付近には、造田の春日神社や「河川港」と見られる「船井」が残っています。

雨瀧山 遺構図全体2

ここからは、古代荘園時代から尾根筋が雨瀧山頂部と河川港などをつなぐ通路として利用していたことがうかがえます。中世の雨瀧山城を拠点とした勢力は、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部を本拠地とはせずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたようです。この城の築城者が何者か、また築城の意図がなんであったのかを解く糸口があると研究者は指摘します。交通の大動脈である瀬戸内海の入江でなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳がある内陸部平野を拠点とした意図はなんっだのでしょうか?  それについては、後に考えるとして、まずは遺構を見ながら雨瀧山城の範囲を確定しておきましょう。

まず津田川に落ち込んでいく西方尾根 寒川方面主尾根NW遺構群を見ていくことにします。

雨瀧山城 寒川方面遺構図
雨瀧城 寒川方面尾根上の遺構群

尾根に取り付いた攻め手を待ち受けているのは、狭い「一本橋(NWー4遺構)」です。尾根上の幅が約3m程の馬背状地形を、両側から空堀構築のように削り取り、その一部(幅約60㎝)を掘り残して、一本橋状(長さ約18m)に加工した痕跡があります。これを「一本橋=いっぽんばし」遺構と呼ぶようです。
   一本橋遺構とは、何なのでしょうか。
尾根上を攻撃してくる敵は、 一人ずつ一列縦隊で侵攻して来るのではなく、数人の集団で押し寄せてきます。一本橋装置は、一人ずつしか渡れません。隊列を崩して一列になる必要があります。そこを飛び道具で狙い撃つというしかけです。この遺構は、単に堀切と一本橋(土橋状)で、敵を遮断するというよりも、ここに敵を招き入れて迎撃することで、打撃を与えることを目的にしていると研究者は指摘します。そのために、橋を長くしているのです。単なる「土橋」ではなくて「一本橋」と呼ぶ由縁のようです。

雨瀧山城 寒川方面遺構図拡大
寒川方面尾根遺構図 拡大版
 空間地形NWー3遺構
一本橋を渡った所の空地(NWー3)は、「一本橋」の附属空間だと研究者は指摘します。この地点は、自然地形上のピーク地点で一本橋よりも、一段高い位置にあります。一本橋を敵兵が乗り越えてきた時には、坂を駆け上ってこの空間に飛び込んで来ます。それをここで待ち構える守備兵が周りから迎撃します。そのための陣地空間です。
ここに一本橋と陣地空間を配置したのは、偶然ではなく縄張り上の工夫と研究者は評価します。一本橋効果をより高めるために工夫された陣地割と云えます。 次のNWー2遺構は、堀切状遺構です。
その下の斜面にあるのが竪堀NWー5・6遺構です。
「馬の背」尾根上の「展望所」の下になります。このふたつの遺構は、NW1遺構方向に向けて、敵が尾根側面へ回り込むのを防ぐ竪堀のようです。竪堀NW5の東側面は、わざわざ土塁状に構築していて、城内側が優位になるように斜面上にしています。軍事的視点からも、ここが竪堀構築位置としては、最良地点だと研究者は評価します。
 堀切NW1遺構 西主尾根防禦の基幹となる堀切です。
 攻城側・城内守備側双方の接近戦が行われる所で、攻防戦の勝敗を左右する所です。守備側にとっては最後の遮断線であり、攻城側にとっても城郭主要部攻撃への拠点(西主尾根)の確保となり、双方ともに譲れない拠点になります。
以上、寒川方面の尾根上の遺構群を見てきましたが、主尾根防禦の構築物群に、「一本橋」・「陣地小空間」・「堀切」・の配列が確認できます。一定の「縄 張り技法」に基づく築城があったことがここからは分かります。
雨瀧山城 火山方面遺構図
            雨滝城 火山方面主尾根E遺構群(上図参照)
雨瀧山より火山に続く尾根は長く、何処までが雨瀧山系の尾根なのかよく分かりませんが、一般的にには柴谷峠辺りまでとされます。ただ尾根筋を、火山から雨瀧山へ向かって下っていくと、柴谷トンネルの上辺りの鞍部が、火山尾根の終点とも見えます。
この方面の防衛をどのように考えるか、または防禦物群の構築があったのかが、雨瀧山城の範囲を何処までとするかのポイントになります。
 一本橋(E5)遺構
火山に続く尾根筋がの傾斜地形の途中にも、「一本橋E5」があります。これは寒川方面主尾根にのNW4遺構と同じものです。ただこちらの遺構は、NW4よりもさらに規模が大きく、また弧状に湾曲させた形なので、さらに防禦機能を強化した「一本橋」に仕上がっているようです。この地点は、火山側へ登る傾斜地形上にあり、高低の逆転地で、防衛的には弱点地になります。その弱点を補完するための工夫として、一本橋を直線としないで、湾曲させる事で橋の上を走り抜けにくくして、守備側に射撃チャンスを確保しようとしたものと研究者は指摘します。そして「一本橋」があるこの地点を、雨瀧山城の東方面の城域をしめす遺構とします。ここから東に雨瀧山城は展開していたことになります。

雨瀧山城 火山方面遺構図拡大図
 雨滝城 火山方面主尾根E遺構群 拡大図
 空間地形E4遺構も、寒川方面主尾根で見られたNW3の遺構と同じ効果を狙った空間地形のようです。続くE3遺構も、小規模な「一本橋」遺構のようです。
 曲輪E2遺構 ここで城山から東へ続く尾根筋が、火山山系と分けられることになります。雨瀧山系の尾根筋を分ける象徴的なピーク地点とも云えます。頂上面は、曲輪としても十分な空間地形がありますが、現在は高圧線鉄塔が建っていて頂上地形状況はよく分かりません。位置や尾根筋上に孤立するピークの高さから、火山方面主尾根防衛の指揮所的機能を持つ曲輪であったと研究者は考えています。
以上からは、寒川方面の尾根防衛と同じように、こちらも「一本橋」で防衛する縄張り構造が見られ、縄張りに統一性があることがうかがえます。
雨瀧山城 東尾根
雨瀧山 東尾根筋柴谷峠方面遺構図
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群(上図)
富田地区と津田地区を結ぶ柴谷峠道は、今はトンネルで結ばれていますが、かつてはトンネル上に旧道があり、掘割地形となった峠に出ました。中世には、ここには城郭遺構である堀切があったはずです。当時ここは、城山尾根と火山尾根を遮断する大堀切だったと研究者は考えています。
雨瀧山城 津田浦方面尾根
雨滝城  津田浦方面泉聖天尾根NE遺構群(上図参照)
雨瀧山稜線SE4の小空地の北壁下から泉聖天が建っている元古墳に向けて伸びる尾根筋の間には、遺構は確認されていないないようです。しかし、元古墳のピークは、縄張りから考えると津田方面の戦闘指揮所としての曲輪があったと研究者は推測します。
① 屋敷地NE1遺構     岡
尾根先端裾部の東方向に下ったところに、通称「岡」と言われる屋敷地があります。この屋敷地周辺は、古代より開けたところで、屋敷地の南東側向かいに呉羽信仰の祭祀場があり、東下の海岸崖にも古墳とされる祭祀遺構が確認されています。この辺り一帯を、御座田と呼ぶので、古代からの集落地があったようです。この地区内で、屋敷地として一枚の広さと方形地形を見せる通称「岡」を特別な場所と見て、雨瀧山城に関連する屋敷地と研究者は考えています。
② 屋敷地NE2遺構  御殿
泉聖天が祀られている祠から東北方向に下ったところに、「御殿」と呼ばれる屋敷地があります。、ここは「岡」の地形と比べても、 一枚の広さや形状が狭く、周辺地形も手狭なので、屋敷地としての研究者の評価は少々劣るようです。
 地元の伝承では、ここに御殿があったとの説が有力なようです。
城門がここより移転して、現に火打山霊芝寺の門として残っているという研究者もいます。(『安富氏居館の謎』筑後正治)
 しかし、現在の寺門が雨瀧山城に関連する遺物かどうかは分かりません。調査結果からは、雨瀧山城の城門であるとする積極的な意見は見当たらないようです。むしろ江戸期に、藩主の別荘(御殿)を領地内の各地に設置していますが、そのひとつという意見の方が有力なようです。
③ 曲輪NE3遺構 ここは往時古代遺跡の前方後円墳でした。
今は、そこに泉聖天が建てられ、遺構調査はできないようです。先に述べたように、ここが戦闘指揮所として適所で、曲輪としての好地のようです。
 以上からは、この尾根筋を遮断する堀切は、構築時期に疑問が残り城郭遺構と判断できないと研究者は考えています。

 雨瀧山城の城郭プランがどの範囲まで及んでいるのかを見ました。
以上の防禦遺構から、雨瀧山城の範囲は、東西両尾根上の「一本橋」までと研究者は判断します。そして、津田方面では等利寺谷及び泉聖天古墳までとします。
 研究者が改めて注目するのは、「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構です。これは「ひとつのパターン」を繰り返して使用しています。現在では、パターン化は当たり前の工法ですが、中世ではそうではなかったようです。中世城郭での縄張りは、その場の地形にあった防禦構築物を、その場その場限りのものとして作っていくのが一般的です。ところが、雨瀧山城では、「あるパターン」の防禦構築物を繰り返して用いられています。また畿内などの他地域で使用されている「同一形状」の防禦施設が採用されています。そして、全体としても縄張りに「統一性」が見られます。
 ここからは、雨瀧山城の縄張りは、その場その場限りの発想ではなく、築城時以前に「縄張図面」があったこと。その構想とは、細川系築城技法を持つ者による縄張りだと研究者は指摘します。しかし、主郭部分には、織豊政権的な要素もあるようです。それは、また後に見ることにします。次回は、この城の主が生活した屋敷跡を見ていきたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度
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