雨瀧城の居館や屋敷地群は、どこにあったのでしょうか。
雨瀧山の南側の奥宮内を最有力候補と研究者は考えています。その居館跡を今回は見ておきましょう。 テキストは、池田誠 讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。
雨瀧山の南側の奥宮内を最有力候補と研究者は考えています。その居館跡を今回は見ておきましょう。 テキストは、池田誠 讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。
奥宮内は、富田神社の鎮座する奥まった谷に位置します。
奥宮が居館跡だったすると、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部に居館を置かずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたことになります。古代にも、交通の大動脈である瀬戸内海の入江である津田湾ではなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳を内陸部平野の富田に築いた古代首長がいました。津田川流域のこの平野は、戦略的な魅力があるのかもしれません。
奥宮内は、東側のげじょう谷の尾根筋と、てのく谷の尾根筋に挟まれた谷筋です。
ここには、宮内谷扇状地が形成されて、その先端に中池が築かれています。中池について、研究者は次のように考えています。もともとは、ここに土塁が築かれて、堀となっていた。それが後世にため池堤防に「転用」された。つまり、中池の堤防は、谷筋防衛のために遮断された大土塁であった云うのです。これを裏付けるように、平成6年のため池改修時の調査では、池の内部底土層の堆積が南北幅が5m程でしかなく、東西に細長い水堀であったことが確認できています。
奥宮内は、南に傾斜した扇状地上の地形の上に屋敷地跡が残ります。
全体は次の3地区に分けられます。
① 西尾根下の小さな谷地形(おおぜっこ)② 東尾根下の小さな谷間(いずみだに)③ この小さな谷地形が合流した小扇状地(中池・小池・さくらんぽ)地区
各地区の機能は、次のようになります。
①②のおおぜっこ・いずみだに両地区は、飲料水の確保と畑地として利用していた空間地③の中池・小池・さくらんぼ地区は、屋敷地や倉庫地
雨瀧城 奧宮内の居館跡
中池に面したL字形平地は、館の「表」として公的機能を持つ守護代所の建物等があったところで、地図上のA・B・Cは領主の表での屋敷部分で、A・Bは領主の奥の居館部分の建物があったところと研究者は推測します。
さらに、屋敷地周辺について、次のように推察します。
・上部のさくらんぼ地区は、厩屋等の建物があったところ・中池の堤防が西尾根に接するところと、尾根との間に残る小空地が虎口で、城門のあった可能性・虎口の背後地のⅠA屋敷地に接するところは、枡形機能を果たす空間地・居館内を警護する家人は、小池の西側と東側尾根先端部の高台曲輪に駐屯
以上のように、ここには居館全域の監視・防衛に最適な地点であったことが想定できます。
もう一度、「げじょうだに」(=下城谷か?)周辺を見ておきましょう。
① 大堀
城山の稜線より一気に下る「げじょう谷」が、緩傾斜した谷地形あたりの「のぶはん」地区を通過して、さらに宮内地区と森清地区の境「ゴイ」・「ミイケ」・「タナカ」・「スナゴ」・「テサキ」を通り、津田川へ流入する谷間地形が広がります。この南北を貫流する谷筋を、城郭遺構の防衛線の「大堀」と研究者は考えています。
特に谷地形の西側縁(宮内地区)は、湿地及び泥田地形であったようです。日葡辞書には「sunago=砂、または砂をまきちらしたように」から、このあたりは河川敷のようであったらしく、それが「タナカ」・「ミイケ」の地名からもうかがえます。
② 奥宮内の居館推定地の東側の「のぶはん」とは、何でしょうか?「のぶ」と「はん」に分けて考えると、「のぶ」=伸ぶ・延ぶ=のびる=空間的に長くひろがるとの意味になります。日葡辞書でも「nobu=せいたけがのぶる」で、地形の状況を示す言葉の意味になるようです。稜線より一気に下る「げじょう谷」と、暖傾斜状谷地形の「のぶはん」の谷内部より稜線を見上げると、天空に向かって一直線の「げじょう谷」空間が走り、「空間的に長くひろがる」の言葉の意味どおりの地形となると研究者は考えているようです。
③ 首切り地蔵尾根
「のぶはん」東壁の尾根は、東側面に自然地形を壁面状に加工したようすが見られます。城郭防禦の遮断線としての尾根ラインを構築したようです。中段付近には、堀切と「首切り地蔵」のある曲輪等が二段構築されています。今はこの堀切りは、柴谷峠に抜ける山道が通過していますが、往時も道として使用していたと考えられ、曲輪の存在は堀切道を通過する敵にたいして、防衛拠点としての機能を持つところと研究者は考えているようです。
以上見てきた通り、奧宮内は、雨瀧山の南の谷の奧に南面して配置されていたと推測されています。
このレイアウトは、津田方面の海上交易よりも南方に広がる内陸盆地に主眼を置いたかのように思えます。これ対して、西讃守護代の香川氏が多度津の現桃陵公園付近に居館を置き、その背後に天霧城を築いています。香西氏も内陸から次第に海際に進出して、勝賀城を築いています。そこには、交易湊を確保して瀬戸内海交易に参加していこうとする意欲がうかがえます。それに対して、海に背を向けて居館を置いた安富氏のねらいはどこにあったのでしょうか。考えられるとすれば、阿波三好氏への備えを主眼として作られた城なのかも知れません。
また、安富氏は古髙松港(屋島)・志度・引田に加えて小豆島の各港の管理権を握っていた節もあります。そのための経済的な機能を各湊にあり、政治的な居館を津田湊に置く必要がなかったのかもしれません。この辺りが今の私には、よく分からないところです。
このレイアウトは、津田方面の海上交易よりも南方に広がる内陸盆地に主眼を置いたかのように思えます。これ対して、西讃守護代の香川氏が多度津の現桃陵公園付近に居館を置き、その背後に天霧城を築いています。香西氏も内陸から次第に海際に進出して、勝賀城を築いています。そこには、交易湊を確保して瀬戸内海交易に参加していこうとする意欲がうかがえます。それに対して、海に背を向けて居館を置いた安富氏のねらいはどこにあったのでしょうか。考えられるとすれば、阿波三好氏への備えを主眼として作られた城なのかも知れません。
また、安富氏は古髙松港(屋島)・志度・引田に加えて小豆島の各港の管理権を握っていた節もあります。そのための経済的な機能を各湊にあり、政治的な居館を津田湊に置く必要がなかったのかもしれません。この辺りが今の私には、よく分からないところです。
雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。その権利を安富氏は持っていたようです。
守護細川氏が在京であったために、讃岐の守護代たちも京都に詰めていたことは、以前にお話ししました。雨瀧山城の居館には安富氏の守護代事務所からさまざまな行政的な文書が届けられ、在郷武士たちの管理センターとして機能していました。津田湊を経て、京都と交易路も確保されていたのです。安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていました。
しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。
安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えるようになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして安富氏を配下に繰り入れ、東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小
豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、小豆島は瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。その目の前にあったのが、この城になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田誠 讃岐雨瀧山城の構造と城域 香川県文化財協会会報平成7年度
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