寒川郡長尾郷周辺
長尾荘は、寒川郡長尾郷を荘域とする荘園です。まずは、長尾・造田の立荘文書から見ていきましょう。『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
院庁下す、讃岐国在庁官人等。
早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事
東は限る、石田並に神崎郷等の堺
南は限る、阿波の堺
西は限る 井戸郷の堺
北は限る 志度庄の堺
意訳変換しておくと
早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の指示通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである東は限る、石田並神崎郷等の境。南は限る、阿波国の境。西は限る 井戸郷の境
北は限る 志度庄の境
「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、「寒河郡内長尾・造太(造田)両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となります。造田は、同じ時に最勝四天王院領となったので、いわば双子の荘園と言えそうです。
長尾荘は平安時代後期に皇室領荘園になり、南北朝期以降は醍醐寺宝院の支配下に入ります。三宝院には、長尾荘についての比較的豊富な史料が残っていて、支配の様子や讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくる荘園のようです。今回は、長尾荘について、その成立から三宝院の寺領になるまでを、追いかけて見ようと思います。テキストは、「山崎ゆり 醍醐寺領讃岐国長尾荘 香川史学16号(1986年)」です。
醍醐寺三宝院の支配に入る以前の長尾荘について、見ておきましょう。三宝院支配以前の長尾荘について記した文書は、次の二通だけのようです。
①長尾荘の初見文書でもある正応元(1288)年8月3日付の関東御教書②喜元4(1306)年6月12日付の昭慶門院御領日録案
①の関東御教書では、前武蔵守(北条宣時)と相模守(北条貞時)が、越後守(北条兼時)と越後右近大夫将監(北条盛房)両名に、「二位家法華堂領讃岐同長尾庄」を下知状を守りよろしく沙汰するようにと申しつけたものです。この文書により、長尾荘か鎌倉後期の正応年間(1288)年頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領であったことが分かります。
②の昭慶円院御領同録案からは、長尾荘が興善院の所領であり、長尾庄を含む17ケ庄は「別当惟方卿以下寄付」によるものであることが分かります。興善院は鳥羽天皇の御願寺である安楽寿寺の末寺で、民部卿藤原顕頼の建立寄進になります。荘園寄進者の「別当惟方卿」は藤原惟方のことで、藤原顕頼の息子で、12世紀中頃の人物のようです。したがって、長尾荘は寄進者はよく分かりませんが、平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末になっても興善院領として伝領されていたことが分かります。
以上の二つの文書からは、
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末期に至っても皇室に伝領されていること②一方で、鎌倉後期には二位家法華堂の所領ともなっていたこと
そして南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として醍醐寺三宝院の支配を受けることになるようです。どうして鎌倉の法華寺の所領を、京都の醍醐寺三宝院が管理するようになったかについては、後ほど見ることにします。ここでは、文書には「二位家法華堂領」長尾荘として記載されてること。正確には「鎌倉二位家・右大臣家両法華堂領」長尾荘になること。つまり、長尾荘は二位家と北条政子と右大臣家(源実朝)のそれぞれの法華堂の共通した所領だったことを押さえておきます。長尾荘は、北条政子を供養するための法華堂の寺領だった時もあるようです。そして、幕府はこれを保護するように命じています。
では北条政子や源実朝の法華堂はいつ、どこに建立されたのでしょうか。
実朝の法華堂について、吾妻鏡に承久三(1221)年2月27日条に、次のように記します。
「今朝、於法華堂、修故右大臣第二年追善、二品沙汰也」
ここからは、政子が実朝の3年目の追善供養を法華堂で行ったことが分かります。
政子の法華堂については、吾妻鏡の嘉禄二(1226)年4月4日条に、次のように記されています。
②「如法経御奉納、右人将家、右府将軍、二品、三ケ之法華堂各一部也」
ここからは四代将軍頼経が頼朝、実朝、政子のそれぞれの法華堂に、如法経を奉納したことが分かります。
実朝は承久九(1219)年、拝賀の儀を行った際、甥の公暁に殺され、その遺体は勝長寿院の境内に葬られます。一方、政子は嘉禄元(1225)年に亡くなりますが、その一周忌は同じ勝長寿院で行われているのでので、やはり政子も勝長寿院の境内に葬られたと研究者は考えています。


源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡
勝長寿院は頼朝が父義朝の恩に報いるために鎌倉の地に建立した寺で、義朝の首が葬られており、義朝の基所となった寺でもありました。そして、のちには実朝、政子も葬られ、源氏の菩提寺となった寺です。
以上から実朝の法華堂は遅くとも承久三年(1221)までに、政子の法華寺は嘉禄二(1226)までに、それぞれの墓所のある勝長寿院の境内に建立されたと研究者は考えています。

平安末頃に興善院に寄進された長尾荘が、鎌倉の勝長寿院の境内に建立された法華堂の所領となったのは、どんな事情があったのでしょうか。
それを解くために、興善院の所領がどのように伝領されていったかを見ておきましょう。
①鳥羽上皇より女八条院に譲られ、鳥羽上皇没後は後白河天皇の管領下に入った。②八条院から後鳥羽天皇女春華門院へ、③次いで順徳天皇に伝わり後鳥羽上皇が管領④承久の乱で一時幕府に没収されたが、すぐに後高倉院に返還⑤その後、その女安嘉門院の所領となり⑥亀山上皇女昭慶門院の所領となって亀山上皇の管領に帰し、
⑦南北朝期まで大覚寺統の所領として伝領
なかなか出入りがあって複雑ですが、基本的に長尾庄は皇室領で皇室関係者の所領になっていたことが分かります。その中で注目したいのは④の承久の乱で幕府に没収されていることです。この時に、長尾荘は実朝の法華堂に寄進されたことが分かります。幕府はある一定の権利を留保した上で皇室に長尾荘を返還したと研究者は考えています。
以上を要約すると次のようになります
①長尾荘は平安末期頃に、興善寺に寄進されて皇室領荘園となった②しかし承久の乱で幕府に没収された。③幕府によりその「領家職」が右大臣家法華堂に寄進され、上位の所有権である「本家職」が再び皇室に返還された
ここに本家を皇室(興善院)、領家を右大臣家法華堂(のちには二位家。右大臣家両法華堂)とする長尾荘が成立し、南北朝期になるようです。
南北朝期に入ると、興善院領を含む大覚寺統の所領は、後醍醐天皇の建武の新政の失敗により室町幕府に没収されてしまい、多くの荘園は散逸してしまいます。しかし、長尾荘は二位家・右大臣家法華堂領として醍醐寺三宝院の管領下に入って存続します。その背景には、ある人物の存在があったようです。
三宝院門跡の賢俊
長尾荘が三宝院の管領下に入ったのは、三宝院門跡の賢俊が貞和三(1347)年に鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたためのようです。
賢俊は、建武三年(1336)二月に尊氏が九州に敗走する途中に、「勅使」として北朝の光厳上皇の院宣をもたらしたした僧侶です。これによって、尊氏は「朝敵」となることを免れます。当時の尊氏は、後醍醐天皇への叛旗を正当化するために北朝の承認を欲しがっていました。その証しとなる院宣の到来は、尊氏の政治・軍事上の立場に重要な転機をもたらします。
その功績を認められて賢俊は醍醐寺座主に補任され、寺内の有力院家を「管領」(管理支配)するようになり、寺内を統括する立場を強めていきました。寺外においても真言宗の長官である東寺長者、足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮や篠村八幡宮の別当にも任じられ、尊氏の御持僧として、尊氏や武家護持のために積極的に祈祷を行っています。また尊氏の信頼も厚く幕政にも関与し、多くの荘園を与えられて権勢を誇った僧侶でした。その三宝院門跡の賢俊が、鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたようです。

そのため法華堂の寺領である長尾荘は、幕府に没収されることなく、醍醐寺三宝院の支配下に入れられたようです。こうして、三宝院による長尾寺支配が14世紀の半ばからはじまるようです。その支配方法については、次回に見ていくことにします。
醍醐寺三宝院
そのため法華堂の寺領である長尾荘は、幕府に没収されることなく、醍醐寺三宝院の支配下に入れられたようです。こうして、三宝院による長尾寺支配が14世紀の半ばからはじまるようです。その支配方法については、次回に見ていくことにします。
以上をまとめておくと
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。
長尾荘の支配拠点のひとつとして機能するようになるのが長尾寺ではないかと私は考えています。
歴代の長尾寺縁起は、以前にお話ししたように①から②へ変化していきます。
①中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説②近世になると「聖徳太子・空海開基」説
その背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。どちらにしても、この寺の縁起ははっきりしないのです。


長尾寺周辺の遺跡分布図
ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実です。さらに付近には南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたことは押さえておきます。
長尾寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。

長尾寺経幢 (きょうどう)(弘安六年銘)
経幢は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。


長尾寺経幢
そして、正応元(1288)年8月3日付の関東御教書からは、長尾荘がこの頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領となっていたこと見ておきました。つまり、経幢が寄進されたのは長尾荘が鎌倉の法華堂寺領となっていた時期に当たります。
そして、正応元(1288)年8月3日付の関東御教書からは、長尾荘がこの頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領となっていたこと見ておきました。つまり、経幢が寄進されたのは長尾荘が鎌倉の法華堂寺領となっていた時期に当たります。
建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。
さらに「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記」には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。


長尾寺経幢
これを建立したのは地元の武士団の棟梁とも考えられます。
そうだとすれば寄進者は、長尾荘が北条政子をともらう法華堂の寺領であることを知った上で、この地域の信仰センターとして機能していた長尾寺に建立したのではないかと私は推測します。長尾寺は、長尾荘支配のための拠点センターに変身していったのではないかと私は思うのです。
長尾寺の境内や墓地には、五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているようです。そこからは、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。
これを建立したのは地元の武士団の棟梁とも考えられます。
そうだとすれば寄進者は、長尾荘が北条政子をともらう法華堂の寺領であることを知った上で、この地域の信仰センターとして機能していた長尾寺に建立したのではないかと私は推測します。長尾寺は、長尾荘支配のための拠点センターに変身していったのではないかと私は思うのです。
長尾寺の境内や墓地には、五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているようです。そこからは、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山崎ゆり 醍醐寺領讃岐国長尾荘 香川史学16号(1986年)」
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