三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。
今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。
それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。
この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」
というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。
しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政②仁保(仁尾)城の細川頼弘③高瀬の爺神城主の詫間弾正、④高瀬・麻城の近藤氏⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。
一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。
二宮近藤氏の居城・神田城
一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」
これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
先ほど見た昔話には、次のように記されていました。
「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」
しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)
土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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