西長尾城(城山)上空から望む丸亀平野
西長尾城跡は、レオマワールドの背後の城山(375.2m)にあります。 地元に住みながらも、若い頃の私は「西長尾城=長尾氏の山城」と単純に考えていました。そして、長宗我部元親との戦いで長尾氏が拠点とした山城の遺構が、現在も残っていると思っていたのです。そうではないようです。測量調査などで縄張り図が分かってくると、土佐勢力によって大規模改築が行われ、長尾氏時代の縄張りが分からないほどのリニューアルが行われていることが明らかになってきました。今回は、2004年に、綾歌町によって出されている調査報告書を見ていくことにします。
丸亀市とまんのう町の境界線の稜線上にある西長尾城
最初に長尾氏の歴史を振り返っておきます
太平記には、1362(貞治元)年 中院源少将の籠もる西長尾城が、細川頼之に攻められ落城したことが記されています。その6年後に、讃岐守護の細川頼之は、庄内半島の海崎氏に長尾の地を与えます。海崎氏は、長尾の地に入り長尾大隅守を名乗るようになります。以後、西長尾城に山城を築き、丸亀平野への勢力拡大を行っていったようです。しかし、長尾氏がいつここに山城を築いたかなどについてはよく分かっていないようです。
1579(天正7)年 長尾氏は土佐から侵攻してきた長宗我部氏へ降伏します。
そして西長尾城には、元親の重臣である国吉甚左衛門が西長尾城に入ります。その後、四国平定をめぐって長宗我部元親は信長・秀吉と対立するようになり、それに供えるために、従来の讃岐の山城の防衛強化とリニューアルを行います。それが西長尾城にも見られるようです。
1579(天正7)年 長尾氏は土佐から侵攻してきた長宗我部氏へ降伏します。
そして西長尾城には、元親の重臣である国吉甚左衛門が西長尾城に入ります。その後、四国平定をめぐって長宗我部元親は信長・秀吉と対立するようになり、それに供えるために、従来の讃岐の山城の防衛強化とリニューアルを行います。それが西長尾城にも見られるようです。
西長尾城 城山から北側と東側へ曲輪群が伸びている
城山山頂の本丸跡は24×31mの広さがあり、天空に向かって広がる広場のようです。北に広がる丸亀平野と、飯野山の向こうには備讃瀬戸を行く船が見え、見晴台としては最高です。本丸跡の周囲は急峻で、西端には虎口状の凹みがあり、西側には西櫓と呼ばれる9×11m程の曲輪があるようですが、素人目にはよく分かりません。西に続く山道は佐岡へと下って行きますが、この先には曲輪はないようです。
西長尾城縄張り図
本丸跡から北東(1~10郭)と東北東(11~22郭)に伸びる2本の尾根上に、連郭式に曲輪群が配置されています。その曲輪の間を結んで連絡路があり、東側の尾根先端には、大堀切と竪堀が掘られています。ここには、戦国時代末期の城郭技術がふんだんに取り入れられていること、北からの敵を想定していることなどが分かります。これらは以前に紹介した坂出の聖通寺山城と同じです。
西長尾城 本丸跡から北東曲輪(1~10郭)
山頂部の本丸跡から北東方向に伸びる2つの稜線の防御施設をもう少し詳しく見ておきましょう。
①東側の尾根上には連郭式郭列が大小合わせて第1~10郭まで、10段設けられ、最下部は堀切によって断ち切られ、その下には土塁が築かれています。
②東側の郭列については、下から3段目で南東肩に高さ1m、長さ30mの土塁があります。
③西側の尾根上にも同じように連郭式郭列が 12段連なっています。
④西側の郭列 についても、同じように北西端にそれぞれの郭を連結するように土塁が設けられています。
以上から、北からの攻撃に対する防御と併せて、東西側面からの侵攻に対しても防備ラインが設けられています。
特徴的な曲輪を、見ておきましょう。
第5郭の北端には大きな枡形虎口が作られていて、枡形入口は両側から土塁が延びています。
第8郭は土塁線より南に張り出し、土塁の裾が通路になっています。この土塁線は尾根に沿て直線に築かれ谷筋への大規模な防御施設になっています。
第9郭の西端には、連続した竪堀が掘られて、防御を固めています。
第10郭で土塁は直角に折れ、折れ部は櫓台状に広くなっています。この西下には第9郭に通じる枡形虎口があり、櫓台はすぐ下の堀切や竪堀と連携し合い、四方に睨みを利かす重要な防御地点を形成しています。堀切は北西へ伸びて竪堀となって、井戸側は大土塁になっています。
東西の両尾根筋の間には、唯―の水源となる谷筋があます。
ここは加工されて平坦地になっています。そして、4基の井戸が設けられているので、水の手郭の役目を果たしていたようです。しかし、これらの井戸は、水深がないので湧水を汲み上げるものではなく雨水等を溜めて利用するものだったようです。
ここは加工されて平坦地になっています。そして、4基の井戸が設けられているので、水の手郭の役目を果たしていたようです。しかし、これらの井戸は、水深がないので湧水を汲み上げるものではなく雨水等を溜めて利用するものだったようです。
西側の連郭式郭列について、見ておきましょう。
西長尾城 西北尾根の連郭式郭列
郭と郭の段差は約2m前後で奥行10m、幅15m前後のものが北東に向かつて連続して設けられています。その中間部分にあたる 5段の郭列の西肩部分は土塁によって連なっています。 また、 この上塁からそれぞれの郭に進入できるように通路状になっていることか ら、 この上塁は城内移動用の通路や各郭への虎口も兼ねていたようです。
この西側の郭列からは、西長尾城の旧城から新城への改築の痕跡が見えてくると研究者は指摘します。
特に第17郭から第19郭 については、下段の郭に面する肩部分が直線状に整形されています。その郭は、それぞれが平行に整えられているので、改築時に当初から計画的に手を加えていたことがうかがえます。
以上からは、各曲輪を結ぶ通路がよく残り、枡形虎口が多用されているなど戦国末期に大改修が行われていると研究者は指摘します。
国吉城の主郭第28郭 ホウジロウと呼ばれた
ここに「ホウジロウ」という地名が残ります。この「ホウジロウ」ピークは、各尾根への要の位置にあり、麓の長尾氏の居館へ城道がここから伸びています。そのため長尾氏時代より曲輪があった可能性はありますが、それは城山の本丸の附属施設で、規模も小さかったことが考えられます。長宗我部元親支配下の国吉期には、本丸の城郭も大改修された他に、「ホウジロウ」ピークを中心に新たな城郭が新築されています。これを国吉城とよぶ研究者もいます。そうすると、長宗我部元親は「西長尾城 + 国吉城」という構成になっていたことになります。
城山本丸の東に新たに築かれた「国吉城」を見ておきましょう。

第28郭(ホウジロウ)が国吉城の主郭
鞍部を利用した堀の西側に南北33m、東西22mの平坦地が作られています。これが第28郭で、「ホウジロウ」と呼ばれていた所です。この東端には、東西5m、南北8m、高さ1,5mの高まりがあります。これは、これまでの縄張り図では、単なる土塁と考えられてきました。しかし、精密測量図の形からは、「櫓台」だと研究者は考えています。この「櫓台」周辺の施設について研究者は次のように記します。
「櫓台」からは南北に土塁が延びる。北西隅には枡形虎口が開き北側下の腰曲輪に下る。下った地点は小さな枡形状に低くなる。帯曲輪は北縁に折れをつけ、東端は土塁で遮断し西端下の土塁は鞍部北の曲輪まで延びる。この鞍部の東側は破壊されているが西側は土塁が喰い違い虎口となり、南に下ると道下に複雑な竪堀があり、この先の曲輪に達する。鞍部から曲輪へは枡形虎口でつなぎ西の土塁が、この地点で広くなり横矢を掛ける。土塁・喰い違い虎口・両側の一段高い曲輪という構成は大きな枡形ともいえる。主郭東下には堀切があり、両側に竪堀を落とす。主郭との切岸は5m以上の高さとなる。この東へは平坦に近い尾根が続き、広い曲輪を連続させる。東端の曲輪は先端を土塁で固め北東隅の枡形虎口より長宗我部氏に特徴的な二重堀切の土橋に下る。
ここからは、ホウジロウには「櫓台」があり、土佐流の築城技術を駆使した防衛施設が作られていたことが分かります。第28郭エリアは、国吉時代の「新城」であったようです。 このエリアは、長尾氏時代の西長尾城跡とは、全く別の新しい城郭で国吉城跡と呼んだ方がいいようです。
それでは、「国吉城」のエリアはどこまでだったのでしょうか
第28郭から城山方面には、北西に向かって2段の第27・26郭を経て鞍部に降りていきます。そこから第25・24・23郭の大小3段の郭へと登っていきます。最上段の第23郭は、先ほど見た櫓台のある第28郭と同じ高さになるようです。ここからは、第23から第25郭は、西側の主郭を防御するためのものではなく、第28郭のヤグラに附属する施設と研究者は考えています。つまり「元吉城」は西側は、第23郭までをも含むと研究者は考えています。
「元吉城」の東側を見てみましょう。
第28郭の櫓台の下には堀切が掘られています。切岸は 5m以上の高さがあり、その東のに続く削平地とは一線を画しているようです。第28郭の東の第30郭にも、ヤグラと思わせる形状が残っています。第28郭の櫓台ほどの規模ではありませんが、東先端部に高まりがあるようです。これも櫓台だと研究者は考えています。
この削平地は、何のために作られたのでしょうか? 数千の兵を居城させるための陣城的要素が強いと研究者は考えています。南海通記には、長宗我部元親が東讃制圧時には、土佐・伊予・西讃から1万規模の兵を西長尾城に集結させたと記されます。そのまま信じられませんが、大規模な軍隊が駐屯できるスペースが確保できていたことが明らかになってきました。
以上の施設群を研究者は、次のように評価します
「櫓台」のあった「ホウジロウ」エリアの縄張は、枡形虎口、土塁、喰い違い虎口、櫓台と多くの防御施設があり、土佐独自色も随所に見られ長宗我部氏の新城にふさわしい縄張りである。
西長尾城は2004年の測量調査によって、「戦国期讃岐で屈指の大規模要害」であることがわかってきました。そして、この城が長宗我部氏の讃岐侵攻や経営拠点としてクローズアップされ、文献的にも再評価をされるようになりました。この軍事施設に近接してあった金毘羅堂の役割をもういちど考える契機にもなりました。
南海通記の「土州の兵将、讃州を退去の記;巻之十四」には、西長尾城撤退について、次のように記します。
此の西長尾城と云は古より名を得たる名城なれども其地には非ずして元親新城を搆へ、兵衆三千人込る積の城也。今集る兵衆一万人に及ぬれば城狭ふして込るべきやうなし。新城なれば山下の屋もなし、野に居て雨を凌ぐもあり、村邑に入て居るもあり、漸く夜を明しにき。明る日、国吉甚左衛門に会して議すれども此の大軍を養べき粮なし。先づ白地へ飛檄をなして元親の命を受んとする處に元親より飛札来て、西長尾城へ粮運送ならず、伊豫讃岐の旗下の面々は先づ我々の在所へ帰て後日の成行を待玉ふべし、と諄々たる厚志なり。これに由て妻鳥采女は河江に帰り香西伊賀守は香西に帰る。然れども京方の聞への為に城へは入ずして山下の宅に居す。
漸くして元親去る十九日に上方へ降参あり、阿波讃岐伊豫三ヶ国を指上げられたると聞ければ、香川信景雨霧山の城を去て土州へ引取り、長曽我部右兵衛尉が植田城、国吉甚左衛門尉が西長尾の城も明捨て土州へ引取る。北條郡西の庄の城主、山内源五、鷲山の城主、入交蔵人も城を捨て土州へ還る。昨日は力を竭して人城を奪ひ今日は塵芥に比して城を捨て去る、誠に一睡の夢の如し。
意訳変換しておくと
この西長尾城は古くからの名城であるが、もともとの地にあったものではなく長宗我部元親が新城を搆へ、兵衆三千人を入れた城である。この期に及んで兵衆一万人が籠城し、もはやこれ以上の兵を入れることはできない。新城なので麓に館もなく、雨を凌ぐことも出来ない兵や、村邑に入って居る者もいた。夜が明けると、国吉甚左衛門に会って協議したが、このような大軍を養う兵粮がないとのことであった。そこで、阿波池田の白地へ急ぎ使者を出して、元親の命令を求めようとした。するとその時に、元親からは次のような指示が届いた。西長尾城へ兵粮を送ることはしない。伊豫と讃岐の旗下の面々は、先づ自分の在所へ帰って後日の成行を待つべし」との内容であった。これを受けて、妻鳥采女は河江に帰り、香西伊賀守は香西に帰陣した。しかし、京方の聞への為に、城(勝賀城)へは入ずに、麓の居館に入った。
そのしばらく後の19日に、元親は秀吉に降参した。そして阿波讃岐伊豫三ヶ国を召し上げられたことが伝わると、香川信景は雨霧山の城を去て土州へ引取り、長曽我部右兵衛尉は植田城、国吉甚左衛門尉は、西長尾の城を放棄して、土州へ引き上げた。北條郡西の庄の城主、山内源五、鷲山の城主、入交蔵人も城を捨て土州へ帰った。昨日は力を竭して人城を奪ひ、今日は塵芥に比して城を捨て去る、誠に一睡の夢の如し。
ここからは南海通記の作者が、国吉城を西長尾城とは別の新城で、場所も異なるところに築城されたいたと認識していたことが分かります。そして、讃岐支配のために平時にも3000の兵が駐屯していたこと、それが秀吉勢の侵攻の前に、戦うことなく放棄されたとが記されています。発掘調査からも、焼け落ちた跡はでていないようです。そして、秀吉から讃岐国守に任じられた仙石氏や生駒氏は、この城に関心を持つことはありませんでした。時と供に埋もれていく道をたどったようです。
この城からは戦国末期に丸亀平野を囲むようにしてあった次の城郭が見えます
①櫛梨城②天霧城③聖通寺山城
このうち②は、長宗我部元親の同盟者である香川氏の居城です。
①や③については、長宗我部元親時代に大改修がされていたことを以前にお話ししました。つまり、これらの城は、北からの侵攻が想定される秀吉に対して「丸亀平野防衛ライン」を構築していたことになります。この防衛ラインの中に金毘羅神は祀られ、讃岐平定の新たな鎮守社として長宗我部元親に保護されていたと私は考えています。長尾城が、讃岐における土佐の最重要軍事拠点であったように、その近くに新たな流行神を向かえて、創建された金毘羅神は、四国鎮守の惣社としての機能と役割を担わすことを長宗我部元親は構想していたと私は考えています。
①や③については、長宗我部元親時代に大改修がされていたことを以前にお話ししました。つまり、これらの城は、北からの侵攻が想定される秀吉に対して「丸亀平野防衛ライン」を構築していたことになります。この防衛ラインの中に金毘羅神は祀られ、讃岐平定の新たな鎮守社として長宗我部元親に保護されていたと私は考えています。長尾城が、讃岐における土佐の最重要軍事拠点であったように、その近くに新たな流行神を向かえて、創建された金毘羅神は、四国鎮守の惣社としての機能と役割を担わすことを長宗我部元親は構想していたと私は考えています。
西長尾城本丸上空からのぞむ象頭山金毘羅宮方面
以上をまとめておくと
①庄内半島の海崎氏は、長尾に領地を得てやってきて長尾氏を名乗るようになった。
②長尾の館の背後の山に、山城を築いたがそれは小規模なものであった。
③長尾氏は土佐から侵入してきた長宗我部元親に降伏した
③長尾氏は土佐から侵入してきた長宗我部元親に降伏した
③讃岐を平定した長宗我部元親は、次第に織豊政権との対立が顕在化した。
④それに対応するために、かつての讃岐の山城を大型化・新鋭化してリニューアルさせた。
⑤その中でも西長尾城は、「戦国期讃岐で屈指の大規模要害」とされる城郭に姿を変えた。
⑥秀吉軍の侵攻を受けて、讃岐の長宗我部・香川同盟軍は戦わずして土佐に引き上げ、西長尾城は放棄された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献















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