詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。
しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男 中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。
最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。
豊楽寺御堂奉加帳
最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。
豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳元親(花押)有瀬右京進 有瀬孫十郎 嶺 将監仁尾
塩田又市郎 嶺 一覚 西 雅楽助奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉 平孫四郎(後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。
天正八庚辰年造立
大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎
大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか?
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか?
技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。
1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。
仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。
金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
土佐の碁石茶
食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。
土佐の碁石茶
つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺②旧新宮村の熊野神社③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。
②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男 中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界
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