佐柳島
佐柳島は、今は猫の島として有名になりました。
この島は、塩飽七島には数えられていません。佐柳島に人びとが住みはじめたのは江戸時代になってからのようです。高見島から七つの株をもった人名が移住して開拓をすすめ、その後に他の島からも漁民が移り住み、しだいに集落が形づくられていったようです。このため佐柳島には人名株が7つありますが、塩飽全体の650株からするとわずかな数です。そのため人名制が島の歴史に及ぼした影響は、他の島にくらべると大きなものではなかったと研究者は考えています。
佐柳島の八幡神社
明治初期の統計によると、戸数275のうち、農業3、漁業267、大工3、船乗渡世2となっています。大工や船乗りになって稼ぐ人がほとんどいなかった点に、塩飽七島との違いが見れます。佐柳島は、専ら漁で暮らしをたてる島として、「渡世」してきた島のようです。
佐柳島
佐柳島本浦の北はずれに八幡宮があります。佐柳島の八幡神社
拝殿には新築を記念して船を操縦する舵取機が奉納されていました。漁船のものとは思われない立派なモノです。よく見ると「神戸市在住佐柳島有志」と奉納者の名があります。その上の鴨居には、本殿改修寄附者の名を連ねた額が掲げられている。地元の人に混じり、次のように神戸や大阪からの寄附者の名が多くあります。
①神戸市在住 89名②大阪市在住 35名③神戸市給水所 40名④住友神戸支店 16名⑤神戸市大正運輸 14名⑥神戸市日本組 9名⑦大阪市住友 43名
役所や企業ごとに人びとの名前が記されています。神戸・大阪と佐柳島が、どのように結びつくのか私には分からず「疑問のおみやげ」として持ち帰りそのままになっていました。最近、それに応えてくれる書物に出会いました。今回は、佐柳島と神戸の関係を、読書メモ代わりに記しておきます。
八幡神社(佐柳島)の鳥居と瀬戸内海
拝殿新築したときの世話人が、次のように話されています。
新田清市氏(明治35年生)は、神戸市給水所に定年まで務め、退職後に真鍋島にもどってきた方です。本殿改修寄附者の名を連ねた③神戸市給水所40名の一人になります。
わしらの入った大正のじぶんは、船舶給水所というて、神戸港にやってくる船に給水するのが仕事です。神戸が港町として開かれたのは、 一つには水が良かったためで、神戸の水は赤道を越えてもくさることがない、といわれました。神戸港へ入港した船への給水には、突堤に設けられた給水孔をつかっての自家給水と、沖に碇泊したまま水船をたのんで給水するものの二とおりがありました。神戸の良い水を水船でとどけるのが私たちの仕事でした。務めていたのは、ほとんどが佐柳島の人でした。
船が港に入り繋留すると、何番ブイの船、何トン給水をたのむ、と船舶会社から給水所に連絡がはいります。すると、水船が本船に出むきます。私が入った当時は、木造の水船を曳船がひいて本船に近づき、蒸気でポンプを動かす「ドンキ船」が付き添って給水していました。水船の大きさは30、50、100トンの三段階で、慣れた者が大きな船に、初心者は小さな船に乗るといった具合でした。乗組員はいずれも一人で、真中に大きな水槽を備え、前後にオモテとトモの二つの部屋がつくられていました。「給水所に勤めるといっても、戦後しばらくまでは私たちは船住いでした。水船には女をのせてはいけないというきまりがありましたから、女房や子どもたちは島において働いていました。船の中で男手で煮炊きをするという不自由な生活でした」
曳舟には船長・機関長・機関部員・甲板員二名のあわせて五名が乗り組んでいました。みんな給水所につとめる人で、船長と機関長が吏員の職に就き、機関部員と甲板員はやとわれでした。島を出て給水所につとめるときは、だれもが傭人として入りました。水船に乗りたいという人がいると、島出身の先輩が所長にたのみこむという形がほとんどでした。傭人として二年つとめると試験をうけて雇員にすすみ、さらに二年後の試験で正式な吏員になる道がひらかれていました。吏員になるとそれまでの日給が月給にかわり、盆・暮れの帰省も心おきなくできて、暮らしむきも安定します。
八幡宮の拝殿を建替時に、新田さんは島に帰って年金暮らしを送っていたようです。そして、発起人として寄附の呼びかけをすると、神戸や大阪で活躍する多くの佐柳島出身者から巨額の金が集まったようです。水船で働く仲間のなかには、吏員にすすめぬまま年老いてしまった人もいました。彼らからも同じように島へ志が寄せられてきたといいます。ここからは、神戸港の水船は佐柳島出身者によって運営されていたことが分かります。

八幡神社(佐柳島)の鳥居

八幡神社(佐柳島)の鳥居
佐柳島出身者には、ハシケ(艀)にのって暮らしをたてる人びとも多くいようです。
八幡宮の本殿改修寄附者の額には、住友神戸支店、神戸市大正運輸、神戸市田本組、そして大阪住友と阪神の企業の人びとの名が記されていました。彼らは輸送会社や倉庫会社で働き、ハシケのりとして港湾労働で汗を流した人だちだったようです。ハシケは水船とちがつて、ふつう夫婦でのりこみ、子どもも船の中で育てたようです。また、見習いとしてやとわれた「若い衆」も同乗していました。
住友運輸のハシケに夫と一緒にのっていたという岩本クニさん(明治42年生)のインタビュー記事には、次のように記されています。
いまは楽させてもろうてますが、憶えてこのかた働きずめでした。小学校から帰ると、母親が百姓しよる畑のわきで乳飲み児の子守です。母は乳がでなかったので、背中に負うた児がよく泣きよりました。ハラすかしてな。マメをペチャペチャかみくだいては、口元にもっていったものです。日暮れちかくになると母より一足先に家に帰り、ご飯をたいてその児と二人で畑の母を待つ毎日でした。学校をおえると、こんどは岡山の紡績工場づとめです。主人といっしょになったのは20歳のときです。主人は14歳で神戸に出て、ハシケにのっていましたので、私もいっしょに船の中で暮らすようになったのです」
こわかったのは、何といっても台風のときです。下の娘が三つくらいやったろうか、三十数年前に大嵐にあいました。避難の途中で、曳船のロープがプツンと切れてね。いあわせた船にやっとの思いで肪わせてもろうたが、今度は、その船ともども流されたんよ。二隻とも嵐にやられてしまうと思って、泣き泣きロープをほどいたのですが、 一時はもうダメかと思いました。せめて子どもの命だけはと思うて、トモに寝ていた娘をおこしてだきかかえました。海の中へとびこんだらだれかが助けてくれるのではないかと思うてね。そうこうしよるうちに救助船が近づき、命からがらのりうつったんです。
海が平穏であっても、海上での暮らしはちょっとの油断でたいへんなめにあいます。とくに幼児のいる母親は、たいへんだったようです。
ある夏の晩、ハシケの上で家族そろって夕涼をしていました。スイカを切ろうと下の娘に包丁を取りに行かせたんですが、なかなかもどってこない。上の娘に見に行かすと、あわてて帰ってきよるん。どうしたと聞くと「妹が海に浮いとるん、といいよるの」大いそぎで引上げたところ、息があった。水もさほど飲んでいないようで、ほっと胸をなでおろした。「子どもはえろう元気なもんです。ケロッとした顔しておきあがって「おかあちゃんスイカ」といいよるんです。海の水をのんでまだスイカをほしがるんよ」
ハシケでは、あるときは女が男の代役をつとめ、子どもまでその仕事を手伝ったようです。戦後間もない頃、配給米をもらいに出かけた夫が夜になってももどってこない。どうもヤミ米を買いに行ったと間違えられて、警察の留置所に拘束されているらしいとのこと。夜中の12時には、荷役の仕事がはいっているので、船を出さないわけにはいけん。曳胎の船長さんに、やんわり曳いてや、いうて私がハシケの船頭になって舵をとりました。上の娘が五つか六つくらいのときやったろうか。眠い目をこすりながらロープの上げ下げを手伝うてくれてね……」
しかし、働きさえすれば白い米を思うそんぶん口にできることは幸せでした。ハシケを所有する会社からは、男・女・子どもを問わず一日一人五合の白米の配給がありました。それがハシケのりの大きな魅力です。「年に何度か島に帰ると、少しずつ残しておいた米でおむすびを山のようにこしらえて、隣近所に配ったものでした。ええ土産物だと喜ばれました。ハシケの人はええなあ、と島の人にうらやましがられたものです」
と、戦後間もないころの物質が不足していた時代を岩本さんは回想しています。
ハシケの暮らしは、電気・水道・ガスがありません。そのため石油ランプを灯して明かりとし、煮炊きには、流木をひろったり、造船所で木の切れ端をもらつてきて燃料としました。野菜や日用品は、港に碇泊する船をめあてに巡回してくる「ウロウ船」から買います。ときには船からあがって、ハシケの女たちが連れだって市場に買出しに出かけることもありました。それは、息抜きのひとときで、ささやかな楽しみでした。
洗濯と給水は、神戸港の突堤で行なっていました。「水はほんとうは買わにゃいけんけど、私ら佐柳島のもんは、おおかたタダで使わせてもろうていました。 給水所の人が佐柳島の出の人でしたから、給水所のお役人がいくら厳格いうても、そのあたりはおおめにみてもろうていました」ある日、突堤で洗濯をしていたら、いつもとちがう人がみまわりにやってきました。そして、なにしよんぞととがめられました。よくみると、里の隣の家の息子です。実家の井戸によくもらい水にきていた家の子なので、子どものころからよく知っていました。そこで、すかさずこう云いました。。「何いうとるん、あんた、うちの井戸でうぶ湯をつかったやないの」その人は驚き、私の顔をまじまじと見て、なつかしさのあまり声をあげた。「クニさんかいなあ。ほうかいなあ。なんぼでもとれや、かまわん、かまわん」
ハシケの船住いも昭和30年代半ばで終わりをつげたようです。
岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
そのころから神戸港の浚渫がすすみ、本船が埠頭に横づけされるようになり、コンテナ船なども登場し、荷役作業のあり方が変わっていきます。そして、ハシケや水船は姿を消して行きます。
八幡神社の前の浜
佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
佐柳島は近世になって入植された島なので、塩飽の島々のように船乗りや大工などの職人として、島外に出る伝統がありませんでした。しかし、神戸が近代的な港町として発展していく中で、ハシケヤ水船に関わり、その発展に寄与していたようです。
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
ttps://4travel.jp/travelogue/11285847
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一と歩いた昭和の日本 第五巻






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