近世の史料を読んでいると、自らを讃留霊王伝説(=神櫛王)を始祖とする系譜を持つ一族によく出会います。一体、讃留霊王とは何者なのでしょうか。また、それはどのような一族と考えれば良いのでしょうか。私なりに考えてみました。
古代讃岐の開拓伝承のなかで讃留霊王伝説は広く流布しています。
地域的には、現在の綾川や大束川の流域、古くは讃岐国阿野郡・鵜足郡と呼ばれた地域を中心に残る伝承であり、近世には宣長の『古事記伝』にも取り上げられ全国的にも知られるようになったようです。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 
讃留霊王とは、景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王の諱です。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、讃留霊王がその退治に向かったところ、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。しかし、大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
②その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
③これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
④彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
⑤彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①です。
しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。
つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
200017999_00178悪魚退治

王悪魚退治のモデルになった話があると研究者は指摘します。
それを見ていくことにしましょう。
  阿蘇開拓の神健磐龍命(たけいわたつのみこと)」(蹴裂(けさき)伝説)
むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑をひらいた神様、健磐龍命のおはなしをしましょう。 
命は、神武天皇のおいいつけで、九州の中央部を治めるために、山城の国から、はるばる阿蘇の地にやって来たのです。
 外輪山の東のはしから、満々と水をたたえた湖を眺めていた命は、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えました。外輪の壁を蹴破ることは出来まいかと、ぐるっと見回し、北西にあたるところにやってきたのです。
 「よし、ここを蹴破ってみよう。」
 しかし、そこは、山が二重になっていて、いくらけってもぴくともしないのです。現在、二重の峠と呼ばれているところでした。命は、少し西の方にまわってみました。「ここならよかろうか。」
満身の力をこめて蹴りつけました。 湖の壁は大きな地ひびきをたててくずれ落ち、どっと水が流れ出したのです。
 あの阿蘇谷.南郷谷いっぱいの水も、みるみるうちに引いていきました。しかし、途中からばったりと流れがとまってしまったのです。
 「これはおかしい。水が動かなくなってしまった。」
 命は川上を調べてみました。
おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていたのです。
尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたといいますから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになります。
命は、この鯰を退治しました。
鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになりました。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 
土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 
小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、
水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、
スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれるのです。
阿蘇には、このように神話や伝説にちなんだ地名が多いようです。
この讃留霊王伝承の怪魚退治と、阿蘇祖神の健磐竜命の「なまず退治説」は
「土地開発、巨大魚退治、射矢伝承、巨石祭祀」など、いくつもの点でで類似します。
そこで、研究者は次のように考えます
①讃留霊王伝承の「悪魚伝説」は「大鯰退治」の転誂である
②共通点の多い両者の伝承を始祖神話としてもつ両者の関係は、もともとは出自も共通するのではないか
③つまり讃留霊王の「讃岐開発」者は、阿蘇開発者の息長氏や秦氏の系譜につながるものではないか
この説を少し、追っていくことにします。  
古墳時代の西讃には、わざわざ九州から運ばれた石棺を使用した古墳がいくつもあります。また、善通寺の大墓山古墳は九州的な要素を持つ石棺です。古墳時代から瀬戸内海の交易ネットワークの中で九州と西讃が結びついていたことがうかがえます。
 7世紀には坂出の城山には神寵石系の朝鮮式山城が築かれ、その麓の府中は、古代讃岐の中心地とされます。九州及び四国に分布す神寵石系の築造には五十猛神後裔氏族が関係していると言われます。
何かしら両者をつなぐ「糸」が見えてくるような気もします
まず、中讃の神櫛王を祀る神社巡りをしてみましょう。
ちなみに息長氏の始祖神は少彦名神といわれます
城山神社は神櫛命を祭神とします。
その社伝では、元は城山一峰に残る明神原の地に鎮座したといいます。今でも明神原を訪れると巨石群が茂みの中に林立しています。これがこの神社のもともとの磐境なのでしょう。

讃岐平野の真ん中にある飯野山(讃岐富士)にも巨石群があります。こちらは鵜足郡の式内社飯神社の磐座とされます。同社の祭神は飯依比古命(讃岐国の国魂神)・少彦名命とされているようです。
神櫛命は那珂郡式内の櫛梨神社(仲多度郡琴平町)でも祀られています。
「クシナシ」は酒成しで、造酒の意と説く人もいます。
しかし、「クシ」は酒ばかりではなく、「奇し」(神秘、霊異)にも通じるとしたら、讃留霊王という美称にも通じるのかもしれません。
 満濃池を見下ろす丘の上にある式内の神野神社(論社の一つ、まんのう町神野〔真野説〕。加茂大明神も合祀)は、境内社に神櫛神社があって神櫛王命を祀ります。この神社を創建した矢原氏も和気氏に連なるといい 讃留霊王伝説を引きます。ちなみに矢原氏は、江戸時代初期の満濃池再築の際に、旧満濃池内にあった池内村を生駒家に寄進し、後に「池守」と命じられています。
 神野神社については丸亀市郡家町に論社があります。
この神社は、伊予国神野郡の久留島なる者(和気氏の一族?)がこの地に移り住み、祖神の伊曽乃神(御村別君が奉斎:西条市)を勧請したと伝えます。社伝では、神託が綾大領の多郡君にあって社殿を再築し、推古天皇朝に郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになったといいます。内容についてはともかく、綾氏一族に関連することを伝えます。「多郡君」は綾氏の系図には「多祁君」という名で見えます。

 阿野郡には鴨郷に式内社の鴨神社(坂出市加茂町)があります
鴨氏族の祖神・別雷神(=少彦名神)を祀ります。綾氏一族の奉斎とされます。ちなみに、少彦名神は息長氏の始祖神ともされますので、両者のつながりがうかがえるといいます。
最後の一社が式内社が神谷神社(坂出市神谷町)です。
この本殿が鎌倉期の三間社流造で、神社建築では珍しい国宝指定がされています。 祭神は、『讃岐国官社考証』には天神立命とされますが、この神は天押立命ともいい、久我直等の祖とされます。実体は少彦名神の父神の天若日子(天津彦根命)です。
以上、見てきたように綾郡の式内三社にはすべて少彦名神で綾氏の関与が考えられるようです。
飯山町下法勲寺には、その名もずばり讃留霊王神社があります
 この神社は讃留霊王後裔の城山長者酒部黒丸の創祀と伝え、後裔には綾氏や和気氏があるといいます。しかし、現在の神社はもともとは八坂神社の境外末社であったものを近くにある円墳の上に移動して新たに作られたものです。明治以後に、新たに古代の天皇陵が指定されたようなもので、この古墳の埋葬者は誰であるかは考古学的には分かりません。明治以後になっても讃留霊王伝説を信仰し、その系譜の中に自分や一族を位置づけようとする人たちの熱意には驚かされます。
 今は丸亀市となった綾川町陶にある北条池の付近にも、讃留霊王神社があり、本殿裏の前方後円墳が、讃留霊王の墓と地元では伝えられています。

中讃地域の式内社を見て思うことは、
祭神が共通すると言うこと、つまり少彦名神か、それに連なる神々を始祖神として祀っているところが多いようです。古代においては、共通の神を祀る一族として互いに同族意識を持っていたのかも知れません。
次は、古墳の石棺を追いかけます。
阿蘇ピンク石(溶結凝灰岩)は近畿や讃岐などの古墳の石棺に用いられました。哀皇后が石作連を率て、仲哀天皇の遺骸を収める石棺用として讃岐国の羽若(綾歌郡羽床)の石を求めさせたという記事が知られます。産地の羽床に、中世に割拠したのが古代綾君の流れを引く羽床氏です。
三木郡庵治には同族の奄智首かおり、庵治の石は今も有名です。
瀬戸内海を越えた播磨には竜山石(宝殿石)があって、高砂市伊保町竜山に産する凝灰岩の石材で、仁徳天皇陵古墳、津堂城山古墳(雄略真陵)や今城塚占墳(継体真陵)などの長痔形石棺にも使用されています。竜山には巨大な石造物「石の宝殿」を神体とする生石(おうしこ)神社もあり、大己貴神・少彦名神を祀ります。
次は巨石祭祀です。
 伊予の佐田岬半島の付け根・愛媛県大洲市の粟島神社(大洲市北只。祭神少彦名命)には巨石遺跡があり、もとは大元神社の地といいます。何か国東や宇佐につながる感じがしてきます。大洲市内には仏岩や高山寺巨石群など巨石遺跡がちらばります。これらを同族の宇和別が祭祀したのではと考えるようです。また、佐田岬は宇和郡に属し、大洲市には稲積・菊地・阿蔵などの地名も残ります。瀬戸内海の海洋ネットワークを天かける息長氏につながる一族の活躍ぶりがうかがえる気もします。
しかし、「蹴裂(けさき)・大鯰退治」伝説を持つ阿蘇開発者の息長氏、宇佐地方の開拓者である秦氏、伊予の西条開拓者である和気氏と讃岐の古代開発者とは、共通点が多いのでないか」という位のことしか分かりません。
ただ、注意しなければならないのは「ヤマト政権による瀬戸内海交易ネットワーク」という風に捉えると、この時代の讃岐の動きは見えてこないような気がします。
「ヤマト政権を介してもたらされた」という従来の見方を一度棚上げして、人と物の動きを見ると別の景色が見えてくるような気がします。それは、例えば今まで見てきたような神社であり石棺です。これらは、九州から東へと「息長氏 → 秦氏 → 和気氏」らの氏族が瀬戸内海を東に勢力を拡大していく姿がうかがえます。中讃地域の古代開発者もこれらの動きの一環として捉えることが出来るような気もします。

さて、悪魚退治伝説に中世において、自らの家系を「接木」する一族が現れます。
                 
讃留霊王の悪魚退治というのは、綾氏の先祖を飾る話です。
古代において綾氏の名前が見えるのは阿野・香川郡一帯です。
その後に綾氏は多く枝分かれして、武家として戦国末期まで長く活動します。江戸期以降は帰農し、有力な庄屋として近代まで続いた家があります。そして、讃留霊王(=神櫛王)に始まる系譜を今に伝える家もり、地元香川県在住の岡伸吾氏が丁寧に系図収集につとめ「綾・羽床一族推定系図稿」「讃岐氏一族推定系図稿」として整理されています。
 平安中期には綾一族から押領使や大禄・府老など国管在庁役人などが多く出ます。
平安時代後期になると、綾氏をにはさらに2つのドラマチックなSTORYが付け加えられます。
 ひとつは、国司の落とし子説です。
一族の長の綾大領貞宣(羽床大夫)の娘が、讃岐守として赴任した藤原家成との間に、もうけた章隆だと言うのです。家成の讃岐守在任は、一年弱だから疑問もありますが、国司の「落とし子」章隆の登場で、以後の綾氏は、藤原姓を称して「讃州藤家」と名乗るようになります。その後の子孫一族は、羽床・香西・新居・福家など多くの有力な武家を出し、中世の讃岐において大きな力を持つようになります。
 もうひとつは、崇徳上皇をめぐる話です。
讃岐に配流となった崇徳上皇は、林田の雲井御所(綾高遠の旧宅という。坂出市)で幽閉生活を送ったと言われます。ここで、上皇奉仕したのが綾一族である綾高遠の娘・綾局だと言うのです。高遠の後裔は林田氏を名乗り、後に苗字が綾にも戻りますが、子孫が残した系図は宮内庁書陵部に『綾氏系図』として所蔵されているようです。

ちなみに、 讃留霊王の悪魚退治伝説が生み出されたのもこの時代ではないかと専門家は考えているようです
話の中に「瓦経」言葉が出てきます。これは経塚の要素が見られ、古代においては使われることない言葉です。そこから、この伝説の成立は平安末期と推定しています。古代まで遡る話ではなく「大鯰退治」をモデルに、讃岐でこの時代に作られたのが「悪魚退治」伝説のようです。
 その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
讃留霊王という先祖を同じくする伝説のヒーローの他に、新たに「国司落とし子」説や「崇徳上皇への奉仕」説が加えられて行ったのではないでしょうか。一族の結束を深めに、いつの時代にも行われてきたことです。その頃に、この説話の骨格はできあがったようです。
  そして、綾氏に近い擬似的な血縁集団も悪魚退治伝説をかたり、自分の始祖を讃留霊王とした系図を作るようになっていきます。
さらに、息長氏の研究者は次のように論を進めます
 綾君の「綾」について言うと、語源の「アヤーアナーアラ」は韓地南部、伽耶の同じ名の地域、安羅(「阿・安」十「耶・那・羅・良」「地域・国の意」を指す。漢字では「穴、荒」とも書かれて大和などの穴師にも通じ、日本各地に同種の地名が残こる。これら地名の担い手として、安羅方面からの渡来の天孫族や天日矛の一族があげられる。
日向国諸県郡にも綾の地名があり、中世に綾氏がいた。。肥後国の火君一族とみられる飽田郡領の建部君の流れとみられ、建部宿祢姓で日向国諸県郡(中郡)富山に起こり藤原姓と称した富山氏の一族と考えられる。綾の地名自体は日向国造一族が命名か)。
  つまり、綾とは朝鮮半島の加耶の「安羅」から来ていて日本での漢字表記は「穴・荒」だったというのです。これは私の今の守備範囲を大きく越えてしまいました。
 景行天皇の後裔と称する氏族について見ておきましょう
記紀に従えば景行天皇には八十人もの多くの皇子がいたことになりますが、無論史実とは言えないでしょう。記、紀、旧事本紀等にあげられる名前は、それが全てではないうえに、名の重複もあります。景行天皇の皇子たちは、国造としては、讃岐国造、針間国造、日向国造等を出しています。詳しく見てみると、近江及び大隅(日本武尊後裔と称)、讃岐(神櫛命の後裔)、播磨(稲荷人彦命後裔)、伊芦(武旧凝別命後裔)、日向(豊国別命後裔)及び美濃(人碓命後裔)ですが、実際には地方豪族がほとんどです。これら氏族の実際の系譜は、殆どが宇佐国造から分岐した大分・火国造と同族で、武国凝別命(別名が豊国別命、健磐竜命)の後裔、ないしは彦坐王一族の出と称した氏族(非息長氏族)と研究者は考えているようです。
  実際の景行天皇の皇子で後裔諸氏を遺したものはないようです。
その考えは以下の通りです。
①例えば、日本武尊の子孫の諸氏が近江や讃岐などに実在したことは、疑問が大きい。子と称する稲依別命の後とされる近江の犬上・建部君一族は、実際には息長氏と同系の伊賀国造の同族ではないか。
神櫛王は、日本武尊の子と称される武貝児命、息長田別命と同人であり、景行天皇の子とされる櫛角別命(茨田下連の祖)や、五十河彦命とも同人。
讃岐の綾君や吉備の宮道別君は、景行天皇の子と称する武貝児命(たけかいこう 武卵王、武鼓王)の子孫とされるが、実際には建緒組命の後裔と考えられる。
『記・紀』等では、武貝児王が日本武尊の子と伝える。
しかし、神櫛王は日本武尊の兄弟だするとと両者の関係は、神櫛王の甥が武貝児王ということになり、これだと別人なる。しかし、実際には原型が同一人物であり(本居宣長もそう示唆)、景行皇子の日本武尊とはまったく別人。
この場合、日本武尊に建緒組命を考えた方がよさそう。
関連記事