室町時代の讃岐は、守護細川氏の求めに応じて何度も兵団を畿内に送り込んでいます。細川氏は、讃岐武士を、どのように畿内に動員していたのでしょうか、今回はこれをテーマにしたいと思います。テキストは「国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年」です。
 細川晴元が丸亀平野の武士たちをどのように、畿内へ送り込んでいたのかがうかがえる史料を見ていくことにします。

 香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の一部です。

A
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守元長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク、
B
出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元判
西方関亭中
C
  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二
(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
意訳変換しておくと
A
永正17年(1520)6月10日細川澄元が亡くなり、その子・晴元が継いで、細川讃岐守が後見役、三好筑前守之長入道が補佐役となった(中略)
讃岐国ハ(中略)細川晴元に帰服した。これに対して伊予の河野氏は細川氏の催促に従わなかった。阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将を合せて軍団を編成し、糧食を蓄えて、諸方の味方と連絡を取りながら挙兵について協議した。その書には、次のように記されていた。
B
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で、日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
C
 「この書は、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家に保管されていた
これは、澄元が亡くなって8年後の大永七年(1527)のことで、(中略)細川晴元が、初めて軍を率いて上洛した時のことが記されている。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。その内容は、3段に分けることが出来ます。
 A段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。B段は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
C段には、引用した晴元書状についての説明で、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

この文章で謎だったのがB段文書の宛先「西方関亭中」と山地氏との関係でした。
これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭という語は、「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
つまり、B段については、細川氏が海賊衆の山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。

「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが讃州西方山地右京進、其子左衛門督という者の家に伝わっていたということになるようです。逆に山地氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏

という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

それでは兵は、どのように動員されたのでしょうか
「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の「武部」は、高瀬の秋山文書のなかにも出てくる人物です。武部は賢長とともに阿波にいて、秋山氏の要請を澄元に取り次ぐ地位にいました。つまり、武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人であったことが分かっています。

享禄四年(1532)は、細川晴元と三好元長が、細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川高国の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたようです。
石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったことがうかがえます。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。
琴平の石井氏の動員は、どんな形で行われたのでしょうか。
それがうかがえるのが最初に見た『南海通記』所収の晴元書状です。晴元の書状は、直接に西方関亭中(海賊衆)の山地氏に送られていました。山地氏はこのときに、晴元の直臣だったようです。それを確認しておきましょう。
応仁の前の康正三(1456)年のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を押領した海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路(地)氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理(押領)となっています。なお、小早河少泉と山路(地)は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人が押領していること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
③4氏の本拠地はちがうが、海賊衆という点では共通すること
  そして、最後に「小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々」とあります。山地氏が細川氏の晴元の直臣だったことが確認できます。
 讃岐からの出兵に関しての軍事編成や出陣計画は「猶香川可い申候」とあります。
香川氏と事前の打ち合わせを行いながら、その指示の下に行えということでしょうか。ここからは、この出兵計画の最高責任者は讃岐西方守護代の香川氏だったことがうかがえます。もちろん、香川氏も兵を率いて畿内に出陣したでしょう。その際に使用された港は、多度津港であったことが考えられます。
 「兵庫北関入船納帳」(文安二年(1445)には、香川氏の管理のもとに、多度津から守護細川氏への京上物を輸送する国料船が出ていたのは以前にお話ししました。ここからは、堀江港に替わって桜川河口に多度津港が開かれ、そこに「関」が置かれ、山地氏らの海賊衆が国料船をはじめ多度津港に出入する船の警固に当っていたことは以前にお話ししました。 
 それが16世紀前半になると、多度津港は、阿波細川氏の西讃における海上軍事力として、軍兵の輸送や軍船警固の拠点港になっていたようです。

 西讃守護代の香川氏は、少なくともこの時期に2回の畿内出兵を行っています。県史の年表を見ておきましょう。
1517 永正14 9・18 阿波三好衆の寒川氏,淡路へ乱入
1519 永正16 11・6 細川澄元・三好之長ら,四国の兵を率いて摂津兵庫に到る。東讃の安富氏とともに香川氏も出陣
1520 永正17 3・27 三好之長,上京する(二水記)
      5・3 香川・安富ら,細川高国の陣に降る
      5・5 細川高国,三好之長を京都にて破る
  7 細川澄元,京都での敗戦
を聞き阿波に帰る
      5・11 三好之長父子,京都にて自害
      6・10 細川澄元,阿波において没する
   2年前から東讃の安富氏とともに香川氏も細川澄元・三好之長に従って出陣したが、この年五月、京都等持寺の戦いで細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。

1531 亨禄4 2・21 三好元長,阿波より和泉堺に到る
      6・4 三好元長,細川高国を摂津天王寺に破る
      6・8 細川高国,細川晴元勢に攻められ摂津尼崎で自害

 享禄4年(1531)、細川晴元と三好元長が、大永七年に京都を脱出して以来各地を転々としながら抵抗を続けていた細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年です。この時に先ほど見た、琴平の石井昆沙右らは高国との一連の戦いに多度津から出陣し、その恩賞として晴元から所領を宛行われたと推測できます。

以上の年表から香川氏の畿内への出兵を考えると
一度は永正16年(1519)年で、東讃の安富氏とともに細川澄元・三好之長に従って出陣しています。しかし、翌年に細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。
二度目は大永7年から享禄4(1531)年までの時期です。
享禄4年の天王寺合戦の際には、香川中務丞元景は晴元方の有力武将として、木津川口に陣を敷きます。
 畿内に出陣するためには、瀬戸内海を渡らなければなりません。この時に、多度津から阿波に陸路で向かい、三好軍とともに淡路水軍に守られて渡海するというのは不自然です。多度津から白方の海賊衆の山地氏や、安富氏の管理下にあった塩飽の水軍に警固されながら瀬戸内海を横断したとしておきましょう。
 以上を整理しておくと、
①阿波細川氏は讃岐の国侍への影響力を高め、畿内での軍事行動に動員できる体制を作り上げた。
②丸亀平野南端の小松庄(琴平町)の地侍・石井昆沙右は、細川晴元の命によって畿内に従軍している。
③その方法は、まず讃岐西方守護代・香川氏の命に応じて、多度津に集合
④細川晴元直臣の海賊衆山地氏の輸送船団や軍船に防備されて海路で畿内へ
⑤畿内での働きに対して、阿波細川氏より名田の扶持を下賜されている

 このように地侍級の武士を、有力国人武士の下に組織する軍事編成は寄親・寄子制といい、戦国大名たちの編成法のようです。そして、阿波細川氏の力が弱体化していくと、香川氏は地侍や三野氏・秋山氏などの有力国人武士や、海賊衆の山地氏などを自分の家臣団に組織化し、戦国大名への道を歩んでいくことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年
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