1640(寛永17)年に、お家騒動で生駒藩が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守は、讃岐全域を「東2:西1に分割せよ」という指示を受けていました。そのために再検地を行って、新しい村を作って、高松藩と丸亀藩に分けて境界を引きます。 その際に両藩の境界がまたがる那珂郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が起る可能性が出てきます。それを避けるために、関係村々の政所の意見を聞いた上で、まんのう町周辺の里山の入会(いりあい)権を次のように定めています。
刈敷山への入会権を定めた部分を書き抜いてみると次のようになります。
松尾山 苗田村・木徳村西山 櫛無村・原田村大麻山 与北村・郡家村・西高篠村羽間山 垂水村・(東)高篠村
一、仲郡と多度郡の農民が東西七ヶ村の山や満濃池周辺へ入り、柴木苅りをおこなうことを認める。ただし、従来通り手形(鑑札札)を義務づけること。一、三野郡の麻山については、子松庄(琴平)に鑑札付きで認める。ただし、佐文の者は、鑑札札なしで苅る権利を認める。
ここからは、金毘羅さんの神領以外の松尾山・西山(琴平町)や大麻山・東西の七箇村や満濃池周辺の里山に、入会権が設定されていたことが分かります。誰でも山に入れたわけではないようです。「札にて刈り申す山」と記されているので、入山に際しては許可証(鑑札)が発行されていて、何匁かの支払いが義務づけられていたようです。
それに対して佐文に対しては「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。佐文の住人は、札なしで自由に麻山の柴木を刈ることができるとされています。どうして佐文に、このような「特権」が与えられていたのかについては、史料からは分かりません。
草を刈る図
他の文書には、次のように記されています。「多度郡(多度津町・善通寺市)には山がないので、多度郡の者は那珂(仲)郡の山脇・新目・本目・塩入で柴木を刈ることを許す。」
ここからは柴木刈りが解禁になる日には、多度郡の農民たちが荷車を引いて、鑑札をもって山脇や塩入まで柴木刈りに入ってきていたことが分かります。丸亀平野の人々が霊山としていた大川山や尾野瀬山は、里から見上げる遠い山ではなく、実際に農民たちが柴木を刈るために通い慣れた馴染みの山でもあったようです。旱魃の時に、大川山や尾野瀬山から霊水を持ち帰って、雨乞祈願を行ったという伝承も、こんなことを知った上で聞くと、腑に落ちる話になります。ちなみに宮田の民芸館(旧仲南北小学校)には、里山への入会鑑札が展示されています。化学肥料が普及する戦後まで、里山での柴木草刈りは続けられていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 参考文献 満濃町誌293P 山林資源
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中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」でとりあげていただきました。
参考文献 参考文献 満濃町誌293P 山林資源
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