瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

第十三回 史談会へのお誘い
白川琢磨 比較宗教学へのご招待 共時的日本宗教史③ —神祇信仰~神仏習合~神仏分離—
日 時 12月21日(土)夕刻5時~7時
 会 場 四条公民館(まんのう町)
 講 師 白川琢磨 福岡大学名誉教授
 資料代  ¥200―  申込は無用
興味と時間のある方の参加を歓迎します。


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弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
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八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

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ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

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八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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