江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の記録は「天正の長宗我部元親の兵火により焼かれる」という記録で埋め尽くされています。それは、織田信長の「比叡山焼討ち」に対する「罵詈雑言」にも似ています。歴史を書く側の社寺勢力を、敵に回した結果なのかもしれません。「破壊者」のみの側面が強調されているようです。
元親の讃岐支配は、数年という短いものでした。
しかし、元親は新たな讃岐の支配者たらんとしての新たな統治策を打ち出していたことが明らかになっています。新しい時代を開いていくためには「スクラップ & ビルド」で、破壊が必要になる場合もあります。しかし、破壊だけでは新しい時代は生まれません。新たな創造が必要になります。それを織田信長は行ったということが、戦後は認められるようになり「破壊者」から「英雄」へと見方が変わっていきました。元親の征服者としての「新たな創造」とは、なんだったのでしょうか?
金毘羅山への元親の宗教政策を、そんな視点から見ていくことにします。
阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
天正七年(1579)四月には、西讃守護代で天霧城主・香川信景は、戦わずして元親と和議を結びます。
信景は、元親の次男の五郎次郎親和を娘の婿に迎えて、天霧城(多度津町)を譲り、形式的には隠居します。こうして、三豊・丸亀平野を睨む天霧城を戦わずして元親は手に入れます。そして「長宗我部=香川」同盟を形成します。これは、後の讃岐攻略を進める上で大きな役割を果たすことになります。讃岐の武将達は、最初は形だけの抵抗を見せ籠城をする者もいますが、多くの者は香川氏の斡旋を受けいれて元親の軍門に降ります。
土佐軍が丸亀平野に侵攻してきた時に、元親はどこに陣を敷いたのでしょうか?
まず考えられるのは、善通寺です。善通寺の近くには同盟関係を結んだ香川信景の居館や天霧山城が、近くにあります。天霧城攻防戦の時にも、阿波三好氏の本陣は善通寺が置かれました。しかし、善通寺は三好軍退陣の際に燃え落ちたとされます。その後は、江戸時代になるまで再建されずに放置されたままです。大軍を置くには不便なような気がします。
もうひとつは、櫛梨城です。この城には土佐的な要素が至る所に見られるので、元親によって大規模改修が行われたと調査報告書は述べて居ます。丸亀平野全体を押さえるには適地です。
もうひとつは、櫛梨城です。この城には土佐的な要素が至る所に見られるので、元親によって大規模改修が行われたと調査報告書は述べて居ます。丸亀平野全体を押さえるには適地です。
いくつかの歴史書には、琴平山の松尾寺に本陣を置いたと記します。
それを裏付けるのが天正7年(1579)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を琴平山の松尾寺に奉納していることです。当時、松尾寺の建物群は無傷で残りました。長尾氏出身の宥雅によって建立されたばかりの観音堂も、金比羅堂も無傷で残っていました。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
彼の本家である長尾氏は、一戦を交えた後に元親に下ったようです。しかし、宥雅はそれよりも早く逃げ出しています。後に生駒藩主となる生駒親正が京都の聖護院内桂芳院にあてた文書は次のように記します。
洞雲(宥雅の別名)儀、太閤之御時大谷刑部少輔等へ走入(亡命)
意訳変換しておくと
洞雲(宥雅の別名)については、太閤時代に大谷刑部少輔を頼って境に走入(亡命)
土佐の『南路志』の寺山南光院の項には、次のように記されています。
「元祖 大隅南光院、讃州金毘羅に罷在(まかりあり)候処、元親公の御招きに従り、御国(土佐)へ参り、寺山一宇拝領」
意訳変換しておくと
元祖の大隅南光院は、讃州の金毘羅に滞在中に、元親公の招きを受けて、御国(土佐)へ参り、寺山一宇を拝領した」
ここからは、南光院(宥厳)が元親に招聘されて、金毘羅(松尾寺)の院主を任されたことが分かります。つまり、元親の山伏ブレーンの宥厳(南光院)が松尾寺の院主の座についたのです。これが「元親による松尾寺管理体制」の始まりになります。こうして松尾寺では、元親の手によって伽藍整備が次のように進められます。
天正十一年(1583) 松尾寺境内の三十番神社を修造。棟札に「大檀那元親」「大願主宥秀」天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定天正十二年(1584)10月9日 元親の松尾寺仁王堂の建立寄進
先ほど見たように4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼の意味が仁王堂寄進には込められていたのでしょう。その棟札を見ておきましょう。
中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
右に 大檀那大梵天王長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王権大法印宗仁
その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城の香川氏を継いだ次男「五郎次郎」の名前も見えます。さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
「天正十二甲申年十月九日」という日付も気になります。
10月9日というのは、現在でも金刀比羅宮の大祭日です。金毘羅大祭は、もともとは三十番社に伝わるお奉りでした。それを、金比羅堂の大祭に取り込んだことは、以前にお話ししました。その大祭日を選んで、奉納されています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。
裏側には「供僧」として榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったと研究者は考えています。しかし、よく見ると江戸時代に金光院に仕えることになる院とは違います。長宗我部時代と江戸時代では、一山の構成メンバーが替わっているのです。ここに記されているのは長宗我部元親によって指名された「土佐占領下のメンバー」だと私は考えています。
さらに「鍛治大工図 多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」と多度津や宇多津の鍛治大工と瓦大工の名が記されています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
なお一番下右に「当寺西林坊」とありますが、金光院という名前はでてきません。
当時の松尾寺の中心院房は西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。
幕末の二天門 金堂(旭社)建設に伴う整備事業でここに移築
研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。
ここには「金毘羅」も金光院もまだ登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
当時の松尾寺の中心院房は西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
裏側左には、次のように記します。(意訳)
「象頭山には瓦にする土はないのに、宥厳の加護によってあらわれた。」
土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。
研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。
ここには「金毘羅」も金光院もまだ登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
宥雅が松尾寺の観音堂に登る石段の北脇に、金毘羅堂を建てた元亀四年(1573)のことです。つまり、この時点では金比羅神はデビューから10年しか経っていないのです。知名度はまだまだない「新人」だったのです。この時点では松尾山の宗教施設の中心は松尾寺であったようです。元親の寄進先は、中心施設の松尾寺に向けられたとしておきます。
檀那は「大梵天王 長曽我部元親公」願主は「帝釈天王 権大法印宗信」
「大梵天王」「帝釈天王」とは何者なのでしょうか?
古代インド神話では、次の三神一体です。
①創造を司る神ブラフマー 梵天②維持を司る神がヴィシユヌ③破壊を司るシヴァ神
ブラフマーは、宇宙の創造を司る「世界の主」であり、万有の根源を神格化した神です。これが仏教にとり入れられて梵天となり、釈尊の守護者とされるようになります。そして、梵天は帝釈天と対となって、釈尊のそばに侍するものとされます。梵天の住み家は、須弥山の上の天上で、人間界を支配する神として敬われ、諸天の中で、最高の地位にあるとされたます。
一方、雷神インドラは帝釈天となり、梵天とともに釈尊のそばに仕えます。帝釈天も住み家は、須弥山上で、その帝釈宮に住みます。日本に伝わった帝釈天は、自然現象を左右する神であるとされ、雨を降らす神だとか太陽神だと考えられるようになります。帝釈天の配下で、須弥山中腹の四門を守るのが四天王で、東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天が配されます。ちなみに北を護る多聞天=毘沙門天であり、多聞天が独尊で祀られる時、毘沙門天といわれるようになります。
世界の主である梵天にあやかって「大梵天王」と記したのは、元親の宗教的ブレーンたちでしょう。
そして、その中心人物と目される宗信は「大願主帝釈天王権大法印宗信」と自分を帝釈天王と称するのです。元親を世界の主の大梵天王と称させたのは、この人物のようです。宗信は、このような表現で元親に「天下への野心」を焚きつけたのかもしれません。私が元親の小説や映画を作るならば、松尾寺仁王門建立シーンでの元親と宗信のやりとりは是非入れたいところです。 同時に、松尾寺は讃岐における宗教支配の拠点センターとしての役割をになうことが求められるようになります。
土佐出身の山伏指導者による松尾寺の管理・経営
先ほども述べたように元親の軍には、次のように多数の山伏が従っていたことが史料から分かります。
①三十番神社の棟札に名の見える宥秀②仁王堂の棟札に名の見える宗信・宥厳③帝釈天王を称する宗仁は、山伏たちを束ねる頭領
①の宥秀は幡多郡横瀬村の山本紀伊守の子で、九歳の時、足摺山で出家して僧侶となります。足摺山は補陀落渡海の地で土佐修験道のひとつの拠点です。
②の宥厳も大隅南光院と名乗る山伏でした。元親に従軍して松尾寺を任され、名前も宥厳とあらため松尾寺の住職となったことは、先ほど述べたとおりです。
「山伏」というと「流れ者」というイメージが今では広がっています。しかし、当時の山伏(修験者)は「金比羅堂」を創設した宥雅のように高野山で修行と修学を重ねた学僧もいました。中央の学問所で学んだ知識と人的ネットワークを持った僧侶は、祐筆(秘書集団)としてだけでなく戦国大名の情報収集や外交工作には欠かせないものでした。そこから毛利藩の僧侶から戦国大名にまで成り上がる恵瓊のような人物も現れてくるのでしょう。
長宗我部元親は、僧侶の中でも修験道の山伏を重用したようです。彼らは、四国辺路など修行のために四国中の行場を自由に往来していました。これが敵国に攻め入る際には、情報収集活動や道案内を行うには適任でした。また戦功の記録係りや戦死者の弔い係りの役割も果たします。
そして、松尾寺は元親に従う山伏達の集結する場となります。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
天正十三年(1582)には、伊予の河野通直を降し、四国統一を成し遂げます。
このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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コメント
コメント一覧 (1)
讃岐内にも三好の末裔が多くいた事。
三好や地元の武将がやってた悪しきこともすべて滅んだ長曽我部の責任にしてしまったこと。
実際に故意に長曽我部元親が寺を焼いた事例はほとんどないと見ています
tono202
がしました