多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)年4月19日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
こうして多度津藩は丸亀藩の支藩として成立します。その石高は以下の通りです。
2多度津藩石高
多度津藩の石高(多度郡+三野郡)

多度津藩の石高1万石は、多度郡が7130石余(15か村)、三野郡が2869石余(5か村)でした。その内で三野郡5か村は大見村・松崎村・原村・神田村・財田上ノ村で、その石高は次の表の通りです。

2多度津藩石高変化
多度津藩各村毎の石高推移

三野郡では宝暦年間は、大見村の石高一番多く、少ないのが原村だったことが分かります。それが明治4年には、神田や財田上(上の村)の石高が倍増しています。山間部での水田開発が継続して行われていたことがうかがえます。
弥谷寺 大見村と上の村組
多度津藩の三野郡5ケ村の位置

上の地図のように前者の3ケ村は三野郡の北部で、後者の神田村(山本町)・財田上ノ村(財田町)は、三野郡の南部になります。ふたつは離れた飛び地でした。環境の違うふたつのグループをまとめていくことは、なかなか大変だったことが予想されます。どちらにしても、弥谷寺のある大見村は、三野郡5か村で構成される上ノ村組に属していました。
上ノ村組の大庄屋は、財田上の宇野家が務めていたようです。
正徳1(1711)年に、神田村に隣接する羽方村(高瀬町)が多度津領に追加されます。その2年後の正徳3(1713)年4月に、上の村組大庄屋の宇野与惣兵衛が観音堂修理料として弥谷寺に田5畝を寄進しています。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田地寄進一覧表
 宇野家は大庄屋を代々務め、多度津藩の湛甫建設が本格化する天保7(1836)年3月まで、宇野弥三左衛門の名前は大庄屋として確認できます。一方、大見村の庄屋は、近世初期の元和6年(1620)以降、明治まで、大井家がずーっと継承しています。(『新大見村史』)
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弥谷寺の本坊
字野家や大井家と、弥谷寺はどんな関係だったのでしょうか?
その関係を垣間見える資料を研究者は2つ挙げています。ひとつは、享保19年(1734)に、弥谷寺住職智等が隠居願いを本寺の善通寺誕生院へ提出しています。それと同時に,大見村庄屋大井平左衛門と連名で大庄屋の宇野与三兵衛へも提出しています。しかし、これは認められなかったようです。
 2つ目は、隠居願いが認められなかった住職智等は、3年後の元文2(1737)年に、有馬温泉への入湯願いが出されています。このほかにも住職の高野山への登山や、本山善通寺の造塔のための大坂行についても承認伺いが庄屋や大庄屋に出されています。ここからは弥谷寺の願書は、直接に多度津藩の寺社奉行に提出され、その結果が直接に弥谷寺へ伝えられるという形式ではなく、庄屋・大庄屋の承認を受けて後に、藩に取り次がれるという仕組みになっていたことが分かります。それだけ弥谷寺の維持、運営に大庄屋・庄屋が深く関わっていたようです。
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弥谷寺本坊
次に弥谷寺の住職の後継者決定手続きを見てみましょう。
寛政11(1799)年暮れに住職蜜範が病死し、後継者を決めることになります。その際の記録に「法春並びに村役人共打ち寄り評議仕り候」とあります。法春とは同一宗門を修行する仲間のことで、弥谷寺の住職の決定には「法春」とともに村役人が「評議」して、その承認が必要であったことが分かります。蜜範の後継者には、松崎村の長寿院が転住して住職となっています。この時は大見村宝城院と大見村庄屋玉三弥源太連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願い出ています。(「諸願書控」、文書2-104-3)。

 その次の後継者選びは、文政9年(1826)に住職霊熙が病気隠居し、後任者に大見村の宝城院が兼帯することを願い出ています。この時も弥谷寺と大見村後見大井勇蔵の連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願書を提出しています。このことは善通寺誕生院へも伝えられ、多度津藩では「願書二誕生院よりの添翰を以て願い出」ているので、これを認めています。(「奉願口上之覚」、文書2-116-11)
 幕末の嘉永5年(1852)に弥谷寺では住職智量が隠居したため、後継者を決めることになります。この時も寛政11年の時の「法春井びに村役人共評議仕り」との同じような文言があります。ここからは弥谷寺の後継者決定にも、大見村の村役人が深く関わっていたことが分かります。村役人と弥谷寺の関係の強さがうかがえます。
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弥谷寺十王堂

弥谷寺の住職は多度津藩の陣屋が出来るまでは、藩主が在国している時には、年頭に丸亀城で丸亀藩主・多度津藩主にお目見えをしていたようです。また、正・五・九月には丸亀城内で、般若経の転読や祈祷を行っています。ここからは、弥谷寺は丸亀藩・多度津藩の祈祷寺だったことが分かります。(「弥谷寺故事謂」)

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弥谷寺十王堂からのながめ

 明和7(1770)年はこの年は不作で、丸亀藩では農民に対し、「夫喰」(食料米)の貸与を行っています。これに対して5月に、多度津藩・寺社奉行は弥谷寺と道隆寺を呼んで、次のように命じていることが「五穀成就民安全祈祷控」に記されています。(要約)

藩主・京極高文様が近年の旱魃という領内不幸に、「百姓貧殺イタセシ事」を深く悲しんでおられる。そのために正月に「五穀豊熟民安全」を祈って、藩主自らが大般若経の「御札」を書き、その版木を道隆寺へ奉納することになった。そこで、多度津藩内の道隆寺と弥谷寺に大般若経の転読を命じ、祈祷料として銀5枚、領内へ配る御札用の料紙として杉原一束が渡された。祈祷料と御札紙のことは、弥谷寺から地元の「上の村組中」へも伝えらた。

 大般若経とは、正式な名前を「大般若波羅蜜多経」といいます。
 唐の時代に三蔵法師玄奘侶が16年のインド(天竺)留学から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)します。小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若などさまざまな般若部経典の大全集で、その数は600巻にもなるようです。内容は、「般若波羅密」と訳される”悟りに至る智恵”を説く諸経典を集成したもので、「色即是空 空即是色」、一切の存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
2020年8月 – 三方石観世音
大般若経600巻

   しかし、中世の村々の寺社では、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈るための祈願行事となります。村々では日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて祈願するようになります。導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読し、藩内の安全、五穀豊穣、また地区住民の厄災消除、家内安全を祈願するものです。

大般若経転読法要: 薬師寺日記
大般若経の転読(薬師寺)
しかし、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという保管状況になっていたところが多いようです。それが、神仏分離で神社からお寺に移され、保管されてきたようです。
大般若シリーズ【3】 転読 その1新米和尚の仏教とお寺紹介

 経本を1巻1巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな”般若の風”が起き、疫病や災害が吹き飛ばされるとされます。それぞれの僧侶が、1巻1巻「大般若波羅蜜多経 巻第○○(巻数) 唐三蔵法師玄奘奉詔訳ー!!」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「調伏一切大魔最勝成就!」と唱え締めくくります。
このような転読会が多度津藩主から弥谷寺と道隆寺には命じられていたようです。
この時の弥谷寺の大般若経の転読には、代拝使として寺社奉行と寺社取次・代官奈良井藤右衛門らがやってきています。そして三野郡大庄屋字野十蔵を初めとする、大見村など4ヶ村の庄屋や村々の長百姓、組頭らも弥谷寺へやってきます。これは、多度津藩上ノ村組の大庄屋・庄屋・村役人のフルメンバーになります。そこに大勢の見物人もやってきます。その前で、弥谷寺住職によって大般若経の転読が行われています。一大イヴェントです。ここからは、弥谷寺が「上の村組」の重要な宗教的センターの役割を担っていたことが分かります。弥谷寺は、藩の保護を受けた特別なお寺と地元では認識されるようになります。ちなみに、この転読には弥谷寺のほかに、宝城院・長寿院・牛額寺・萬福寺・吉祥寺ら11人の僧が参加しています。その頂点に立つのが弥谷寺住職ということを目に見える形で、地元の人たちに知らしめる機会にもなります。
それから半世紀近く経った文化12年(1815)に、弥谷寺と道隆寺へ御紋幕が下賜されています。
その下賜理由は、次のように記されています。(要約)
「昨年秋の旱魃では、多度津領内は「一統困窮」した。そこで今年の夏は「五穀成就 民安全の御祈祷」を命じた。その結果、秋には領内全体に「作り方宜しく 村々より冥加米等献上」されている。これを祝して紋幕一対を下賜するので今後も、「五穀成就 民安全の祈念」をするように」とのことであった。
文化12年10月「御紋幕御寄附之控」、文書2-106-3=裏竃.

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善如龍王(男神像)
幕末の頃には「雨乞執行(祈祷)」が弥谷寺で行われています。
丸亀藩が日照りの時に、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。また、三野郡の威徳院(高瀬町)や本山寺(豊中町)では、善女龍王信仰による雨乞祈願が早くから行われていたことは、以前にお話ししました。それを見て多度津藩でも幕末になると「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。この時の雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。
 また年は分かりませんが18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にありますので、この頃のことのようです。
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生駒一正のものとされる五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておくと次のようになります
①弥谷寺は中世は、高野聖などの念仏僧によって阿弥陀浄土信仰の拠点となっていた。
②そのために周辺の有力な信者たちが磨崖五輪塔を建立し、納骨するなど慰霊の聖地となった。
③守護代の香川氏は天霧城を拠点とすると、弥谷寺を菩提寺として、西院周辺に墓域を設け五輪塔を造立し続けた
④戦国時代末に藩主としてやってきた生駒氏も、ここに五輪塔を造立するとともに、弥谷寺で作った五輪塔を墓碑として各地の寺院に造立した
⑤丸亀藩主の山崎氏も本堂の西側に、藩主のものを含めて五輪塔3基を造立した。
⑥18世紀になると香川氏・生駒氏・山崎氏の墓標がならぶ弥谷寺境内に、それに習うかのように周辺の有力者が墓標を造立するようになる。
⑦境内に墓標を建てた有力者は、弥谷寺の保護者となり寺院経営に協力していくことになった。

それが本堂改築の資金調達であったり、以前にお話した金剛拳菩薩建立のための資金調達であったようです。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
このように弥谷寺は多度津藩の有力寺院として公的な行事を行う中で寺格を上げていきます。同時に後継者決定には、大庄屋や庄屋たちを関わらせることで、地域の有力者の寺院経営への参加意識を高め、伽藍整備に関わる資金調達をスムーズに行うシステムを作り上げていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書