修験道の祖 役行者
修験者はさまざまな呪的な技能、技術を身につけていました。
修験者の持つ修法類は、符呪を始めとして諸尊法、供養法、加持など多岐にわたります。しかし、分類すると治病、除災に関するものが圧倒的に多いようです。ここからは、修験を受け入れる側の人々は、病気や怪我などの健康問題の解決を第一に求めていたことがうかがえます。修験側もそれに答えるように、「験」を積み呪的技能、技術に創意と工夫をこらしてきたのでしょう。修験の行う符呪や呪文・神歌・真言の唱言、加持祈蒔のよううなマジカルな方法だけでなく、施楽=薬物的治療の道も開拓していたようです。そういう意味では、修験者は薬学、医学的知識をもって病気治しに従事していたと云えそうです。今回は修験者と製薬との関係を見ておきたいと思います。テキストは「菅豊 修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」です。
研究者は、修験者の病気治しを日本の医療史、薬学史の側面からの位置づけます。
その中で古代の禅師、中世の高野聖など修験道につながる民間宗教者が、製薬・医療知識を持っていたこと、さらにその経済活動として製薬などの医療行為を行っていたことに注目します。例えば「狩猟者と修験との同一性」という視点からは、狩猟者が捕らえた獲物から薬を作る姿が見えてきます。そして、修験道系の宗教者が狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に病人に与えています。これは「呪医」と狩猟者兼修験者が重なる姿です。
熊の肝臓は高級漢方でした
日本の伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、修験者にたどりつくようです。それを全国的に北から南へと見ていくことにします。
東北地方では
①葉山修験の影響下にあった山形県上山市の葉山神社はすべての病気を治すといわれた。永禄年中(16世紀中期)の悪疫流行の際には、修験者がこの山の薬草によって、人々の命を救ったと伝えられます。
②出羽三山奥の院・湯殿山の霊湯の湯垢を天日で乾かして固めたものは、万病の薬になるとされ、山伏たちが霞場に配って歩いていました。
③出羽三山修験、とくに羽黒修験が携帯する霊石「お羽黒石」は、中国古代道教で重宝された神仙薬「㝢餘糧」「太一㝢餘糧」でした。ここからは羽黒修験が製薬などの技術もっていたことがうかがえます。
㝢餘糧
関東地方では、埼玉県秩父地方の三峰山で「神教丹」が販売されていました。現在でも三峰神社では、次のような漢方が販売されているようです。
胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。陀羅尼助には、医薬品でもあるオウバク(黄柏:キハダ)が含まれていいます。エンメイソウ(延命草:シソ科ヒキオコシ)は、行き倒れにあった人を引き起すくらい苦くて、起死回生の妙薬とされます。また、日本三大民間薬と言われるセンブリ(当薬)も陀羅尼助に入れられ薬草です。千回振っても、お湯で振り出しても苦さが取れないことから、この名がつけられたといいます。その他には、ゲンノショウコ(現の証拠:フウロソウ科ゲンノショウコの全草)もあります。これら薬草に共通するのはいずれも「非常に苦い」ようです。「良薬は口に苦し」といわれる由縁かも知れません。そして効能が胃腸薬に関するものであることです。どちらにしても、我が国では消化器疾患に有効な薬草が好んで使われているようです。三峰山は、霊山で行場であると同時に、これらの薬草の宝庫でもあったようです。今でもオウバク(黄柏:キハダ)
が数多くみられるようです。
が数多くみられるようです。
キハダ(オウバク)
北陸地方では、富山県の製薬・売薬が「富山の薬売り」として有名です。
冨山の製薬も、そのルーツは修験者にあるようです。越中には立山を中心とする修験者の売薬活動があり、「立山権現夢告の薬」が立山詣でのお土産として信仰を介して広がります。現在、数多くみられる富山売薬由緒書は、立山修験を背景とした修験の唱道文の名残と研究者は考えています。
富山県西部の砺波平野の里山伏は、農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。
符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていたようです。次のような薬が里山伏系の寺社で販売されています。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、海乗寺の喘息薬松林寺の腹薬利波家の喘息薬山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
野尻村法厳寺の薬は神仏分離後に真宗等覚寺に伝授されます。また同村の五香屋の「野尻五香内補散」のルーツも修験に求められるようです。このような製薬・売薬ばかりでなく、修験は医業にも携わっていたようです。例えば川合家(旧円長寺)は医者となり、また上野村養福寺上田家は19世紀初頭、第六代勝竜院順教の頃から開業医となっています。
1855年(安政2)の「石動山諸事録」には、石動山修験の売薬について次のように記されています。
意訳変換しておくと一、旦那廻り与云相廻中寺有之、壱軒米壱升宛貰、三月等祭礼ニハ寺江行賄二預ル、宿料不出、又薬二而も売候得ハ、壱ケ寺拾両も入、越中杯ハ弐拾両斗も受納之寺有之事一、石動山より売出候薬ハ、五香湯壱服四十文・万金丹壱粒弐文・反魂丹壱粒壱文・五霊散眼薬二而(後略)(多田正史家文書、鹿島町史編纂専門委員会 1986年)
一、得意先の旦那廻に出かける修験は、定まった寺に宿泊した。一軒から米一升をもらい受け、三月の祭礼の時には寺で賄いを受けるが、宿料は無料であった。また薬も販売し、ひとつの寺で十両も売れた。越中では二十両も売れた寺もあった。一、石動山修験者が売出している薬は、五香湯一服40文・万金丹一粒2文・反魂丹一粒一文・五霊散眼薬である(後略)
ここからは、「旦那回り」に出る修験は、 一軒一升のコメを貫い受け、祭礼時には無料で宿泊歓待を受けています。それだけでなく、旦那廻りのついでに売薬活動を行っています。その稼ぎも、10両から20両というのですから高額です。この現金収入は、定着化した里修験にとっては重要な収入源になったでしょう。製薬・売薬が、修験の生活を支えていたことがうかがえます。
冨山の薬売り(修験者の痕跡がうかがえます。)
明治の神仏分離以降も、製薬・売薬の技法は受け継がれ、石動山修験宝池院の末裔である宝池家では「加減四除湯」「和中散」「退仙散」などの秘伝薬が伝えられていたようです。二蔵坊の後裔である広田家には、1882年(明治15)「紫胡枯橘湯」「清肺湯」「加味三柳湯」など多くの薬の製法、成分、効能書「医要方一覧記」が残されています。
先ほどの文書中に出てくる「反魂丹」は、石動山修験の売薬の中でも「富山の薬売り」を代表する薬だったようです。「富山の薬売り」に立山修験のほか、石動山修験が何らかの関わりをもっていたことがうかがえます。
北陸の修験といえば白山修験ですが、冨山の売薬との関係は、よく分からないようです。ただ白山修験の山伏である越前馬場平泉寺の杉本坊も、丸薬を売り歩いていたようです。その他の白山の修験者たちも製薬、売薬に携わっていた可能性が高いと研究者は考えているようです。
次に近畿地方をみてみましょう。
伊勢野間家の「野間の万金丹」は、朝熊麻護摩堂明王院に起源するため「明間院万金丹」とも呼ばれていました。やはり修験系統の製薬、売薬です。この「万金丹」の名は、「石動山諸事録」にもでてきます。修験の間で、さまざまな技術、知識の交流があったことがうかがえます。
「万金丹」は、滋賀県甲賀郡甲南町下磯尾の小山家でも伝来されています。これはこの地の飯道山修験が朝熊岳護摩堂明王院の勧進請負をやっていることから、修験間で製法の伝授があったと研究者は推測します。
近世の甲賀地方は製薬、売葉の盛んな地域で、近江商人の売薬は富山の売薬とともに、全国に広がっていました。
「神教はら薬」や「赤玉神教九」「筒井根源丹」という家伝薬は、いずれも神威に関わっていました。その中の「神教はる葉」は、多賀不動院の坊人が多賀大社の布教で諸国巡札した時に持参した土産物とされます。それを後に坊人が甲賀(甲南町周辺)に移り住んで甲賀山伏となって宣伝したものだと伝わります。小山家には、「万金丹」とともにこの「神教はら薬」が伝えられています。
「神教はら薬」や「赤玉神教九」「筒井根源丹」という家伝薬は、いずれも神威に関わっていました。その中の「神教はる葉」は、多賀不動院の坊人が多賀大社の布教で諸国巡札した時に持参した土産物とされます。それを後に坊人が甲賀(甲南町周辺)に移り住んで甲賀山伏となって宣伝したものだと伝わります。小山家には、「万金丹」とともにこの「神教はら薬」が伝えられています。
近畿地方の修験と薬を考えるなかで、「陀羅尼助」は大きな意味を持つようです。
「陀羅尼助」は、吉野大峰山に伝わるもので、大峰開祖の役小角が吉祥卓寺で作り始めたとされます。これは、修験道の祖が製薬に関わっていたことになります。この薬は、胃腸薬でのみ薬ですが、打撲傷や眼病などの外用にも使われ、まさに万能薬としての名声を得ていたようです。後には、大峰山以外の高野山や当麻寺などでも製造されるようになります。
最後に九州です。
福岡県の英彦山修験が万病の薬として「不老円」を処方して、檀家詣りの際には持ち歩いていたようです。
また福岡県の求菩提山修験が製薬、および治療に関わり、「神仙不老丹」や「木香丸」などの薬を販売していたことは有名です。
求菩提山修験の修法については『豊務求菩提山修験文化政』に詳しく報告されています。そのなかには「医薬秘事、秘伝」として次の薬の調合書、医学書が収載されています
また福岡県の求菩提山修験が製薬、および治療に関わり、「神仙不老丹」や「木香丸」などの薬を販売していたことは有名です。
求菩提山修験の修法については『豊務求菩提山修験文化政』に詳しく報告されています。そのなかには「医薬秘事、秘伝」として次の薬の調合書、医学書が収載されています
①「求菩提出秘伝」②「望月三英、丹羽正伯伝」③「求菩提山薬秘伝之施」④「灸」
ここからは、求菩提山修験が製薬に関わっていたことが分かります。
②「望月三英、丹羽正伯伝」の中には、幕府の触書をそのまま書写されています。ここからは修験者たちが様々な知識を吸収し、それを活かそうとしていたことが次のように記されています。
例えば3種の医学書には、それぞれ32例(求書提出秘伝)、20例(「望月三英、丹羽正伯伝」、21例(「求菩提山薬秘伝之施」)、合計73例の薬の調合、治療法が記載されています。そのなかに、薬の加工過程で行われる「黒焼き」と呼ばれる方法が記されています。
例えば「求菩提山秘伝」では、「雷火のやけどに奇薬」として次のように記されています。
「鮒を、まるながら火にくべ黒焼にして、飯のソクイにおし交てやけどの処につけ ふたに紙を張りおくべし」
ここからは、フナを黒焼きにしてやけど薬として用いていたことが分かります。
「求菩提山秘伝」には、31例中8例、「望月三英、丹羽正伯伝」には20例中2例、「求菩提出薬秘伝之施」には31例中3例の黒焼きの加工法がでてきます。この黒焼きという技法は、皇漢医学や庶民が行なっていた民間医療にもみられるので、修験独自の加工法とはいえませんが、修験製薬の重要な技法の一つであったことは間違いないようです。
修験と製薬活動のかかわりについて見てきました。
修験者たちは農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動に、深く関わっていました。その関わりを深める中で、里修験として村社会への定着化がが行われたようです。そのプロセスを示すと次のようになります。
修験者たちは農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動に、深く関わっていました。その関わりを深める中で、里修験として村社会への定着化がが行われたようです。そのプロセスを示すと次のようになります。
①スタートは宗教的な権威を背景にして、自分たちの得意とする儀礼や信仰といった観念世界から村社会に接近。
②修験者が持っていた実用、実利的な技能、技術を提供することで「役に立つ人間」と村人から認識されるようになる
③農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動のリーダーとなり、指導的な地位を確立
宗教的な指導者であるばかりでなく、現実生活に役に立つ知識・技能を持っていたことが大きな力となったと研究者は考えているようです。
役に立つ技術の一つが製薬、売薬の技術でした。
医者、薬剤師としての姿は、修験者が人々の生活のなかに浸透していく上で有効に働きます。その他にも修験者には、次のような側面を持つことが明らかとされています。
医者、薬剤師としての姿は、修験者が人々の生活のなかに浸透していく上で有効に働きます。その他にも修験者には、次のような側面を持つことが明らかとされています。
①芸能や口承文芸の形成、伝播に関わった遊芸者としての姿②市に結びつく商人としての姿③鉱山を開く山師としての姿
中世から修験者は、このような経済活動と関わっていて、さまざまな技術や知識を持っていたようです。それが里修験化の過程で、在地の技術、知識、本草学、皇漢医学など、その時代の先端の知識、情報を吸収することで、その技術を再編成し、適応の幅を広げていったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅豊 修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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