丸亀藩は幕末に西讃府誌を作成してくれたので、江戸時代の村の様子がだいたいつかめます。そこには村内の家数や耕地面積、石高、産業などを書き上げれていて、現在の自治体の市勢要覧などの役割を果たしてくれます。しかし、西讃府誌は残しても、各村々の絵図は残しませんでした。
阿波岩脇村(羽ノ浦町)
阿波藩岩脇村(羽ノ浦町)の村絵図
阿波藩は、ひとつひとつの村々の様子を描いた村絵図を残しているのを見ると羨ましくなります。見ているだけでうきうきします。 村絵図があると近世の村を身近に感じることができます。そこで、今回は近江国甲賀郡の水口宿(水口城下、現滋賀県)に近い酒人村の絵図を見ていくことにします。テキストは「水本邦彦 村 百姓たちの近世 岩波新書」です。

近江 酒人村 グーグル
滋賀県甲賀郡酒人 

旧酒人村は、琵琶湖に東流する野洲川と旧東海道に挟まれた田園地帯の中にありました。東に東海道の宿場街水口があり、西を野洲川が琵琶湖に向かって流れ下って行きます。

酒人村 村絵図
酒人村の村絵図
上図は天保年間に、水口藩に提出された洒人村の絵図です。
当時の酒人村は、家数百軒余、人口370人ほどの村で、平野部にあって稲作農業を主な生業とするごく普通の村でした。村の中央を二本の河川が合流しながら北流します(図の右が北)。南東部からの流れが横田川(野洲川(a)で、これに南西部から流れ込む(b)柚川(そまがわ)が合流します。村域は手前東側の集落・耕地エリアと、川向うには山のエリアに広がっています。
明細帳には、村の山は次のように記されています。
「東西四町余。南北十一町余(約43㌶)松林」
「東西二五〇間・南北一〇〇間(約826アール) 草刈り場」

ここからは、この山はほとんどが松林だったことが分かります。ただし、絵図には村山の峰付近2カ所に注記があり、村々立合い(入会)の草刈り場があると次のように記します。
南西部の注(c) この奧、三雲村、妙感寺村、宇田村、植村、洒人村、泉村、右六カ村村々立合い(入会)の草刈り場
西部の注記(d) この辺 三雲村、酒人村、泉村、立合い草刈り場

(c)は東西10町。南北12町(約119㌶)、
(d)は東西30町余。南北20町余(約595㌶)の広さです。
ここからは西部の山間部は、前面が松林の村山で、その奥に刈敷のための入会地である柴山や草山が続いていたことになります。入会地の広さは東西30町(3,3㎞)とありますから現在のゴルフ場を越えて続いていたことになります。刈敷山として、新芽や草が刈られた入会地は、讃岐の里山でも荒れ果てて裸山になっていたことを以前にお話ししました。ここでも明治初年の記録には、奥山の一部は「禿結して山骨をさらす」あります。はげ山化して荒れた状態になっていたことが分かります。(『甲賀郡志 上』)。ここでは、酒人村も刈敷のための広大な草刈り場を持っていたが、裸山になっていたことを押さえておきます。

山の麓付近をみると、 3カ所に「山神」(e1~3)があります。
①北部のf「泉村山境」近くのe1
②南部のg「岩坂村境」近くのe3
fとgは、村境を示す目印でもあると研究者は指摘します。山を守り、山仕事の村民を守護する山神は女神で、近畿地方では杉か松か檜を御神体にすることが多いようです。正月にはこの木の前で、男手により山神祭りが催されます。
 考古学的な面から見ると、村山一帯は、6・7世紀築造の円墳が200基も集中する群集墳で、古代人の埋葬地だったようです。弯薩天井という朝鮮半島様式の横穴式石室の構造からして、被葬者は渡来系の人々だろうとされます。(『甲賀市史5』)。この地が古代にやってきた渡来人によって最初に開かれたことがうかがえるようです。早くから開けた地帯であったことが分かります。
 山裾を南北にh「伊賀海道筋」が走っています。
南にたどれば柚川に沿って伊賀国(三重県)へ、北上するとすぐ先で東海道に合流します。伊賀街道は、明治の史料には道幅二間(約2,6m)とあります。この付近の東海道は三間五尺(約5,2m)だったので、伊賀街道はその半分の道幅だったことになります。
天台宗園養寺は滋賀県湖南市を中心に家族葬や納骨のご相談を承っております
園養寺(おんようじ)
 街道に近い山中には、i園養寺があります。
この寺は延暦年中(782~806)、伝教大師(最澄)開基と伝えられ、牛馬の守護寺としても知られ、広範囲からの信仰を集める寺です。当時は本堂と庫裏は葛屋(草葺屋根)で、瓦葺きの撞鐘堂と薬医門があったようです。横田川には、橋はなくて園養寺付近から歩いて渡り、水量の多い冬から春には「竹橋」を掛ける、と明細帳には記します。

酒人村 園養寺からの野洲川
園養寺から望む野洲川

 川東の河原にはj土手が描かれています。
この図ではわかりにくいのですが、別の村絵図で確認すると、耕地と集落を水害から守る水防施設(川除け)で、河原側に人石と蛇籠を並べ、その内側に堤防を築いて松や竹を植えていたようです。
   明細帳には、次のように記されています。
川除け普請‐少々の義は毎年百姓ども自普請つかまつり候。大破の節は御地頭様より竹木代、人足扶持米とも、往占より頂戴つかまつり候。

意訳変換しておくと
川普請については、少々の工事は毎年百姓たちが自費で行う。大きく破損した場合には地頭(藩主)から土木材料費や人夫賃が支給される。

ここからは、小規模普請は自普請、大規模な治水灌漑工事については、藩主が行っていたことが分かります。中世の地頭たちは、自分の領地だけにしか関心はなく、自領を越えた治水灌漑工事を行う事はありませんでした。そのため平安末期に決壊した満濃池は近世初頭まで放置されたまんまでした。近世領主は、広域の水利土木事業を行うようになります。「水を制する者が、国を制する」、つまり支配の正当性を生み出しすことに自覚的になります。ここでも広域行政担当になる野洲川普請は、藩主によって行われたいたようです。

堤防の南側には、K「田地」l「畠」がひろがります。
そして中央部にm「村人家」のエリアがあります。
東部のn「植村田地境」o「宇田村田地境」からいくつかの水路が流れ込みます。
酒人村 用水路

東部の植村からの流れは、川上の水口美濃部村で横田川から取水された綾井用水(二の井)です。東南部の宇田村方面からは、野上井用水と前田川水が流入します。洒人村の水田の2/3が綾井用水によって、1/3が宇田付からの用水で賄われていたことになります。いずれの水路も、おおもとの横田川取入口には、藩によって伏せ樋(水口と埋設管)が作られていて、この修復にも藩から普請銀が下付されたていました。しかし、この用水をめぐっては、争論が川上の植村や宇田村と何度も繰り返されています。
田地の2ケ所に祀られた「野神(のがみ)(pl、p2)」に、研究者は注目します。
「野神」は、野良仕事(農作業)や作物の実りの神で、牛や馬を守る神でもありました。祭りは田植えの頃や収穫の秋に、御神体の石仏や自然石の前で行われます。
集落のなかを歩いてみよう。今度は別の村絵図です。

酒人村 村絵図2
酒人村の村絵図2
集落は竹藪・塚・水路などで囲われていて、全体が一つの砦のようになっています。
戦国時代、甲賀郡一帯は地元の侍衆が支配し、彼らの居館や城があちこちにありました。酒人村は百姓の村でしたが、砦のような集落のたたずまいは、日々臨戦態勢にあった戦国時代の名残りを受け継いでいるようです。集落には百姓たちのたくさんの人家が立ち並んで描かれています。
明細帳から家数や人口など関係記事を列挙してみると次のようになります。
・家数101軒。
・人口378人、男 183人、女191人、・僧4人
・大工四軒。大鋸(おが)(製材業者・木挽き)一人.
・牛46疋、馬一疋。
・農業のほかに、男は藁筵織り、日用(日一雇い)稼ぎ、または 本挽きに罷り出る。
・女は賃仕事として苧(からむし:麻糸)を績む。木綿も着用ほど紡ぐ。
家数100軒ほどで人口300人台という規模は、この地域の平野部の村としてはやや大きめの規模になるようです。
比較のために周辺の村の様子も見ておきましょう。
・泉村 153軒、797人。大工1、木挽き9、桶屋1 、鉄砲打ち1、猟師4、馬20、牛38
・氏河原(宇治河原)村 108軒、500人余。大工2、木挽き28。牛63。
・東内貴村 43軒、209人。木挽き4。牛18。
・北内貴村 60軒、376人。木挽き14、牛馬喰(ばくろう)1、牛医1 ,牛25
ここからは、どの村にも大工や木挽きがいたことが分かります。甲賀地方では古くから「甲賀の杣(そま)」と呼れ、材木供給地だったようです。そのため木材関係者が多いようです。彼らは、今は京都の大工頭中井家の大工組に編成され、京都の天皇の御所などの普請にも駆り出される腕利き職人集団になっているようです。彼ら職人ですが、農業民と同様に村の構成員であり、百姓数のなかに入っています。泉村の桶屋や猟師、北内貴村の牛馬喰や牛医もおなじ百姓に分類されます。
近世社会で「百姓」という場合、二種類の意味合いがあったと研究者は考えています。
A 村に暮らし生活する住人(宗門人別改帳、家数人数改帳などに登録されている)を指す場合、
B 農耕に従事する者を指す場合
この明細帳では、「泉村百姓屋敷152軒」という時の「百姓」は、村に住む住人の意味になります。このなかには大工も桶屋も含まれることになります。これに対して、同じ明細帳で「猟師四人、これは百姓つかまつり候あいだの峠(稼ぎ)に川の猟つかまつり候」などと記されています。この場合の「百姓」は、Bの農作業ないしは農業従事者を指しているようです。
Aが住居がどこにあるかで区分し、「村方(在方)」の住人を指し、「町方(町人地)住人=町人」「武家方(武家町)住人=武士」などに対応する概念とすれば、Bは職種によって分類「士農工商」の「農」に相当するものと研究者は考えています。
この関係を研究者は次のように図示し、百姓を定義します。
酒人村 百姓の定義

職種・技能と居住域のワンセツト形態を特色とする近世社会では、「百姓=村の住人=農業従事者」であることを原則とします。しかし、村によっては「百姓」のなかに商工業や林業漁業従事者を含んでいたことになります。村の住人で、農業従事者が狭義の「百姓」と押さえておきます。

酒人村の百姓家については、母屋(おもや:居宅)と付属の建物の規模がわかる略図が残っています。
それは、安永五年(1776)に発生した火事で、被災した家々の報告書が残っていたためです。
ここからは住人の住宅が次の二つに区分できるようです。
①居宅に加えて物置、土蔵等の付属建物を持つグループ
②母屋だけのグループ
①のなかでも一番大きい居宅は16・5坪(約55㎡)になります。この規模だと間取りは、牛部屋付きの土間と座敷四部屋からなる造りだったと推測できます。この家はほかに物置、上蔵、さらには別棟の座敷まで備えています。それもそのはずで、この当主は村の庄屋を勤めていた家柄です。ムラの中でももっとも上位の家柄だったようです。

その一方で、下層グループは母屋だけです。
間口三間の場合、間取りはせいぜい土間ブラス2部屋程度になります。間口・奥行1間と記された家は、上層百姓家の物置にも及びません。この二軒の持ち主がいずれも「後家」であります。母屋のみのグループは、上層百姓に従属的な位置にあったと研究者は推測します。村の内部は、平均化された階層ではなく、そこにはかなりの格差のあったと研究者は考えています。
集落内には牛46頭と馬1頭が飼われていました。
家数で割ると二軒に1頭に近い割合になります。牛馬は田畑の工作や物資の運搬だけでなく、厩肥をつくるためにも欠かせません。賑やかな牛馬の鳴き声、厩屋の奥いは、村の世界を構成する大切なな要素です。
立ち並ぶ百姓家の間に寺、郷蔵、高札場などが描かれています。
酒人村 持寶寺
持宝寺

寺は集落中央北部にq持宝寺、南部にr無量寺があります。いずれも本堂は草葺きです。qの持宝寺は天台律宗で村人の檀那寺になります。本尊の如意輪観音坐像(鎌合時代・重文)のほかに善光寺式の阿弥陀如来を安置するので、酒人善光寺とも呼ばれ、近隣の人たちの信仰を集めていたようです。
 無量寺は川向かいの園養寺の末寺で、長保年中(999~1004年)恵心僧都(源信)開基という由緒を持ちますが、明細帳作成当時は、住職はいないと記されています。無住だったようです。
郷蔵(倉庫)は、北東と北西の隅に建てられています(S1、S2)。

郷倉
郷倉(かすみがうら市)
年貢米や備荒用の穀物、祭礼具などの保管庫として使われていたようです。明細帳で規模のわかる北東側の郷蔵(S1)は、間口四間、奥行二間の葛葺き犀根で、横に三間×一間の作業小屋(計り屋)が付属しています。どうして、村に郷蔵が二つあるのでしょうか。それは、当時の村が水口藩と旗本内藤氏の二領主に分有される相給村だったためのようです。そのために、領主ごとの蔵があったようです。
寺や郷蔵と並んで高札場(t1、t‐2)も2つあります。
高札
高札場

ここには幕府の命じた法度(法令)が板に墨書され掲示されていました。忠孝を奨める札、徒党禁止札など、一品札の種類はいくつかありますが、どこでも中心は「バテレンを見つけた者には褒美を与える」と記したキリスト教禁止の高札です。秀吉に始まるキリシタン禁令は、徳川政権においても「国是」として継承されます。洒人村の場合もこの高札が掲げられていたと推測されます。なお高札場が2ケ所あるのは、郷蔵と同じ理由です。
西の郷蔵の横に村氏神の山王権現のu小祠が見えます。
明細帳によれば、この宮は「当村中ばかりの氏神」で、八間×四間の境内にある三尺(約90㎝)×三尺I寸(約106㎝)の「こけら茸き」の社です。4月の2回目の申の日に神事が行われ、村民が参詣します。
ふつう、近世村では氏神は一村だけのものでしたが、洒人村の場合はこの村氏神のほかに、他村と共同の氏神社が2ケ所あったようです。1つは植村・泉村と共同で祀る国中大明神(植村に鎮座)です。
その外縁にもうひとつ、北脇村以下10ケ村という広域で祀る若宮八幡宮(北脇村に鎮座)がありました。こうした氏神信仰圏の重層性は、当村がかつては伊勢神宮領だった柏木御厨のなかの洒人郷の一集落だったことに由来するようです。柏木御厨全体の氏神が若宮八幡宮で、酒人郷限りの氏神が国中人明神ということになります。この絵図からは外れて見えませんが、村内の東方および北方には国中大明神の分社が1つあり、東方の社は牛頭天王社、北方の社は十禅師社と呼ばれていたようです。
最後に、墓地です。
洒人村では、集落の外縁にニカ所あります(V1、V2)。「基所」と書いて「ムショ」と読むようです。ここでは初めから「無所」と記されています。村民が死去すると、遺体はこの墓地に葬られました。
 民俗調査によれば、この辺りでは、昔は葬式は夜に行われたと報告されています。出棺を知らせる寺の鐘が鳴り、松明を先頭に白装束の野辺送りの行列が棺を担いで基地に向かう姿がかつては見られたようです。
以上、近江の酒人村の村絵図を見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「水本邦彦 村 百姓たちの近世 岩波新書」です。