旧木屋平村
木屋平(こやだいら)は穴吹川の最上流に位置し、霊山剣山の山岳修行の拠点となった龍光寺のあった所です。文化9年(1812)に作成された村絵図の写しが旧役場から近年発見されています。この麻植郡木屋平村分間絵図には、剣山周辺の宗教施設や,剣山修験の霊場等が精密に描かれています。また、19世紀初頭の集落の様子も見えてきます。今回はこれを見ていこうと思います。テキストは「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年p.171-182)」です。
中世に森藤城があった森遠(もりとう)名周辺を見てみましょう。
「名」は中世起源の集落のことで、山村集落を示す歴史的な地名です。ほとんどの地域では、もはや使われなくなった「名」が、19世紀初頭には日常的に使われていたことが分かります。
この神社の北側には、石垣と門や白壁の土蔵と母屋を持つ家が建っています。これが中世からのこの地域の土豪名主で,木屋平一帯を支配した「オヤシキ」と呼ばれた「松家(まつか)家」です。中世山岳武士「木屋平氏」の子孫と云うことになるのでしょう。
松家氏=木屋平家も平家落人伝説を持つようです。
木屋平森藤名の正八幡神社
森藤名は、剣山に源をもつ穴吹川が西から東に流れ下っていきます。それに沿って整備された国道438号が谷筋を東西に走り抜けています。その剣山に向かって開けた南斜面に、氏神の「正八幡宮」が鎮座します。ここは中世には森藤城があったところです。森藤八幡神社の鎮守の森
松家氏=木屋平家も平家落人伝説を持つようです。
美馬市(旧木屋平村)のホームページには、次のように記されています。
これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経・平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。
森遠周辺は、緩やかな傾斜地や窪地が広がります。
また南向きで日照条件もいい上に、清水が湧く湧水も何カ所かあり、小谷も流れています。入植者なら真っ先に居住する好条件の場所と研究者は考えています。平家伝説をそのまま事実として、研究者が受けいれることはありませんが、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置き、南北朝時代には、小屋平氏がこの土地を支配するようになったことは推測できます。そして室町時代初期になると、それまでの「大浦名」から「木屋平名」に改めて、「コヤ平」の地を「森遠」と呼ぶようになったようです。
木屋平氏の森遠城(現正八幡神社)
また南向きで日照条件もいい上に、清水が湧く湧水も何カ所かあり、小谷も流れています。入植者なら真っ先に居住する好条件の場所と研究者は考えています。平家伝説をそのまま事実として、研究者が受けいれることはありませんが、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置き、南北朝時代には、小屋平氏がこの土地を支配するようになったことは推測できます。そして室町時代初期になると、それまでの「大浦名」から「木屋平名」に改めて、「コヤ平」の地を「森遠」と呼ぶようになったようです。
木屋平氏の森遠城(現正八幡神社)
森遠城は本丸・外櫓・馬場などを含めると約一町五反の広さであったようです。「阿波志」には、次のように記されています。
「八幡祠平村森遠名に在り、俗に言う土御門天皇を祀ると地丘陵にあり、祠中偃月刀及び古冑を蔵す、阿部宗任持つ所」
約210年前の村絵図に森遠名の中心部が、どのように描かれているのかを見ておきましょう。

確かに村絵図にも正八幡神社周辺は、緩やかな傾斜地で、窪地が広がり、周辺の棚田にくらべると田んぼが広いことがわかります。ここに何枚もの「オゼマチ」があったようです。
寛文12年の検地帳によると、松家家は、森遠名で8町7反5畝17歩の田本畑を所有しています。

確かに村絵図にも正八幡神社周辺は、緩やかな傾斜地で、窪地が広がり、周辺の棚田にくらべると田んぼが広いことがわかります。ここに何枚もの「オゼマチ」があったようです。
寛文12年の検地帳によると、松家家は、森遠名で8町7反5畝17歩の田本畑を所有しています。
これは名全体の水田面積の約半分になります。所有する水田は、これだけではありません。5ヵ名全体で16町6反6畝5歩を所有しています。これは5ヵ名全体の田畑面積73町2反9歩の23%にあたります。
また文化6年(1809)には、5ヵ名で下人層56人を配下に入れて使役しています。そのうちの半分にあたる28人は、森藤名で生活しています。「オヤシキ」と呼ばれた屋敷地は1反2畝12歩(372坪)あり、そこで下僕的な生活を送っていたことがうかがえます。まさに中世の名主的な存在であったようです。
木屋平村分間絵図 森藤名部分
上の絵図には穴吹川に流れ落ちる4筋の谷が森遠名を南北に貫いているのが見えます。中央が一番左が「大島谷」で、谷川の周囲は穴吹川から正八幡神社の辺りまで、魚の鱗を並べたように棚田が描かれています。ここには研究者が数えると約390枚あるようです。棚田の用水は、4つの谷川から導水されていたようです。寛文12年(1672)の検地帳の田総面積は、3町9反5畝10歩です。1筆平均面積は約30坪で小さな田んぼが積み重なった景観が見られたはずです。


松家家から上には、段畑(本畑)が広がります。
これは約590枚あるようです。切畑・山畑を除く本畑総面積は12町8反20歩で,1筆平均面積は約65坪になります。棚田の一枚当たりの面積の倍になります。そんなことを知った上で、もう一度絵図を見ると、確かに下部の棚田の方が密度が濃く、上部の畑は密度が低く見えてきます。
現在の正八幡社に拠点を構えた松家家の先祖が、まずは居館の上部を焼畑などで開墾しながら本畑化し、その後に用水路を整備しながら下部に棚田を開いていったことが推測できます。そして、松家家は中世には、武士団化していったのでしょう。

最後に森遠の祭祀空間を見ておきましょう。
まず森藤名の西側から見てみます。正八幡社の西にある成願寺には享保6年(1721)の棟札が残ります。この寺が松家家が大旦那で、その菩提寺であったのでしょう。成願寺の東隣には「観音堂」,「チン守」が見えます。
成願寺(木屋平森遠)
「木屋平の昔話」には、この寺のことが次のように記されています。
成願寺の庵主、南与利蔵の話によると、成願寺の無縁仏のある草地には、沢山の五輪塔の頭部がある。二〜三十個はあるという話だが、それは五輪塔の空、風輪にあたる重さ五〜六粁のものである。昔、五輪塔の宝塔部分だけをすえて墓とする、略式の方法ではなかったかという説もある。それでは、どんな事件でここに沢山の墓があるのだろう。森遠城は百米上方にある。山岳武士として活躍した南北の朝時代に、三ッ木の三木重村らと共に出征して、他郷の地で戦死した木屋平家の勇士達の首塚なのか?。あるいは蜂須賀入国の砌。これに反抗した木屋平上野介の家来達の墓だろうか?。南北朝の末期の、森遠合戦で討ち死にした木屋平家の勇士達なのか?。今はこれらを裏付けるすべもない。
絵図中央部には、先ほど見たように中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡に鎮座する「正八幡宮」「地神」 が描かれています。この地区は村民から「オヤシキ」とか「オモリ(お森)」と呼ばれていて、森遠名の中核的な場所であったようです。

さらに東部を見るともうひとつの「八幡宮」があります。

さらに東部を見るともうひとつの「八幡宮」があります。
「山神」は「谷口名」境と集落北西部の山中の「中内」に2社あります。また家屋内の火所に祀られ火伏せの神と、修験道の崇拝対象とされる「三宝荒神」も2社描かれています。

三宝荒神
このように,正八幡宮・八幡宮・地神・成願寺・チン守・山神・三宝荒神等が集落中心部に配置されている空間構造であることを押さえておきます。
①棚田の消滅,確かに穴吹川から積み上げるように並んでいた棚田群は姿を消しています。
②穴吹川沿いの成願寺周辺,上部の三宝荒神付近,集落上部の絵図では田であった小谷沿い一帯の林地化現象が進んだ。
③本畑はゆず園化現象がみられ,幼木のゆず園が圧倒的多いことから,1994年頃がゆず園化のピークであったこと
④正八幡宮の東に4棟の鶏舎が姿を現したこと,
⑤過疎化による集落空間の縮小化現象がみえる。
ゆず畑のひろがる森遠名
中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡は、今は正八幡宮となっています。村絵図は約210年前の木屋平の姿を今に伝えてくれます。同時に、戦後の高度経済成長の中でのソラの集落の変貌も教えてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年
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