白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。
今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭②御影堂の六人の三味僧③金堂・法華堂に所属する18人の供僧④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。


大寺院の構成メンバー
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。
弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。阿開梨道範記之
ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。
白峯寺阿弥陀堂
このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。
白峯寺縁起 巻末部分
13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。
白峯山古図(部分)
聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。
白峯寺の「別所」の現在位置
歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。
中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
白峯寺行者堂
白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。
持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊
これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」
意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。
ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。
以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「上野 進 中世における白峯寺の構造 調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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