瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。


白峯寺古図 地名入り
江戸時代になって中世の白峯寺の姿を描いた「白峯山古図」

前回は、中世の白峯寺には行人(行者)たちが拠点とする多数の子院があったことを見てきました。白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次の21の坊があったと記します。
持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

この子院の中で、台頭してくるのが洞林院です。
洞林院が台頭してきたのは、どんな背景があったのでしょうか。
今回はそれを見て行きたいと思います。テキストは、「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰寺古図拡大版(部分)
洞林院が最初に史料に登場するのは『親長卿記』の文明4年(1472)の記事で、次のように記されています。
○六月廿日条
(前略)白峯寺文書紛失、可申請 勅裁之由奏聞、勅許、
○六月十二日条
(前略)白峯寺住僧、洞林院僧都、同中 勅裁、有御不審事子細今日奏聞也、於洞林院分者雖不被成、
白峯寺同事歎之由有仰、之(申ヵ)子細了、
○六月廿三日条
(前略)洞林院中 勅裁事、典白峯寺院領各別之旨中之、然者可被成 勅裁云々、同仰元長令書遣之、
意訳変換しておくと
○六月廿日条 (前略)白峯寺が文書を紛失し、その再発行を申請し、勅裁を得た
○六月十二日条
 白峯寺住僧からの文書再発行申請にについて、洞林院僧都から「この土地には洞林院分寺領が含まれている」との異議があり、その子細が提出された。
○六月廿三日条
(前略)洞林院の申し出を受けて、白峯寺院領と洞林院領とはそれぞれ別に扱われることになった。同仰元長令書遣之、

ここからは次のようなことが分かります。
①当時の洞林院には、僧官を有した「洞林院僧都」がいたこと、
②洞林院には院領があり、これについて「洞林院僧都」が自ら主張するだけの実力をもっていたこと
③洞林院は、15世紀後半の室町時代の白峯寺における有力な子院であったこと
戦国期以降、洞林院は文書にも登場するようになりますが、それらの文書は後世の写しで、慎重に検討しなければならないと坂出市史は指摘します。
例えば白峯寺に古来より大切に伝存してきた古文書の中に「白峯寺崇徳院政所下文」永正11(1515)年があります。
この下文の発給者は、洞林院代の宗円です。彼は洞林院の住持で、白峰寺の院家代表の立場にもありました。後に洞林院は、白峰寺の院号とされ、綾松山洞林院白峯寺と公称されるようになります。下文の内容を要約すると次のようになります。
①白峯寺が永正11(1515)年に崇徳院という院号を使用して、白峰寺の寺僧に少僧都職を与えていること
②具体的には白峯寺のトツプの洞林院代宗円が、同じ白峯寺の僧権律師秀和に少僧都という僧官の職位を与えたこと。
③しかも「国宜承知敢勿違失」と讃岐国中に号令をかけていること。
 ①律令体制下では僧正・僧都・律師などの僧官は、朝廷(玄蕃寮)に任命権がありました。中央政府が任命していたのです。それが鎌倉時代には、売官も行われるなど権威も通俗化していく中で、仏教各宗派の勢力維持・拡張のために各宗派が独自に僧位を任命するようなります。②ここでは洞林院代宗円が、白峯寺の僧権律師秀和に少僧都の僧位を与えています。ここからは、白峰寺よりも洞林院の方が高い立場にあることを伝える内容です。
一方、白峰寺も「白峯寺崇徳院政所」という名で身内の僧侶を少僧都職に任じています。
崇徳院という院号は、あくまで崇徳という天皇一人に追贈された院号であって、崇徳院政所という家政機関が存在したことはありえません。それを重々承知した上で発給したものと研究者は考えています。分かっていてありもしない機関名を名乗っているということです。ここに当時の白峰寺の権勢の強さや高圧ぶりを感じます。こうなると、白峰寺と洞林院の関係は分からなくなります。
 応永19(1413)年の北野社一切経書写に参画した増吽は、当時「讃州崇徳院住僧」と自らの肩書きを記しています。これは崇徳院御影堂のことで、白峰寺全体の住持ではないようです。
 この他にも「白峯寺崇徳院政所下文」は様式や内容からみて疑問が残る文書だと研究者は考えています。後世に洞林院や白峯寺の権威を高めるためにつくられた偽書だと云うのです。この文書の内容は、白峰寺ではなく洞林院が頓證寺の寺務を掌握していたと主張しています。白峰寺よりも洞林院の方が優位な立場にあったという結論に導く意図が見え隠れします。

白峯寺 別所
白峰寺古図 本堂の東側稜線上には多くの子院が描かれている

「建長年中当山勤行役定」(建長年中(1249~56)は、白峯寺の勤行等について後世にまとめたものです。
その末尾に「再興洞林院代 阿閣梨宋有」とあります。「再興洞林院」とあるので、ここからは洞林院が一度退転した後に再興されていたことが分かります。この文書は年紀がないので、洞林院がいつ再興されたかは分かりません。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

讃岐国名勝図会の白峰寺
それを埋めてくれるのが『讃岐国名勝図会』です。この図会の「頓證寺」の項には、宝物の「大鼓筒」の書上げとして、次のように記されています。

大鼓筒(往古鼓楼大鼓と云ふ、筒内銘あり、「讃州白峯寺千手院常什物也、永禄十年丁卯卯月十四日、作岡之坊宗林、書料当寺院主宗政弟子生年丹五歳、再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有、天正八庚辰年三月十八日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

意訳変換しておくと
(頓證寺の宝物に大鼓筒(往古鼓楼大鼓)があり、その筒内には次のような銘がある。
「これは讃岐の白峯寺千手院の宝物である。永禄十(1567)年4月14日、岡之坊宗林が作り、書は当寺の院主宗政の弟子生年が担当した。洞林院を再興した宝積院阿閣梨宋有、天正8(1580)年3月18日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

ここからは、次のようなことが分かります。
①「再興洞林院代 阿閣梨宋有」が宝積院の宋有のことであること
②天正8年(1580)以前には、洞林院が再興されていたこと
以上からは、洞林院は戦国末期において衰退した時期があり、16世紀後半の戦国時代に再興されたことが分かります。洞林院を再興するにあたって、由緒となる史料が作成・整理されたのでしょう。その一つが「白峯寺崇徳院政所下文」ではないかと研究者は考えています。

白峯寺古図 別所拡大図
白峰寺古図 別所拡大図
以上を裏付けるものとして、研究者は次の史料を挙げます。
①戦国期における白峯寺の記録「恒例八講人数帳」が、天正6年を最後に記事が見えなくなること、
②白峯寺の記録「恒例如法経結番帳」も、天正8年を最後に記事が見えなくなること
これは、両記録は天正8年をさほど下らない時期に、洞林院の再興にあわせて作成されたためと研究者は考えています。
③慶長9年(1604)の棟札には、次のように記されていること。

再興千手院一宇並御厨子大願主洞林院大阿閣梨別名尊師」

ここには本堂・千手院の再興願主が洞林院になっています。
白峰寺院主に代わって、洞林院が台頭していたことがうかがえます。これ以降、諸堂棟札の多くに洞林院の名が見えるようになります。寺院運営において洞林院が中心的な役割を担ったことが推察できます。
慶長9年まで姿を消していた千手院の再興を担ったと考えられるのが、棟札にみえる洞林院の「大阿闍梨別名」です。別名について慶長6年4月6日と13日の文書に次のように記されています。
【史料1】生駒一正寄進状32
白峯之為寺領、山林竹木青海村五拾石、一色二進帶可有者也、
慶六 卯月六                  (花押)
別名
〔史料1】は生駒一正が白峯寺へ青海村の50石を寺領として寄進し、山林竹木の進退を認めたことを別名坊に伝えたものです。 花押だけで一正の署名はありません。ここからは、生駒一正の保護を別名が受けていることが分かります。
次からの【史料2】【史料3】【史料4】は、東京大学史料編纂所架蔵の影写本からのもので、これまでに紹介されていなかった史料で、坂出市史が初めて紹介するもののようです。
【史料2】佐藤掃部助書状鮨
已上
白峯寺院主被仰付候上、御知行方同寺物何も如先々御居住在之候、此旨、我等より申入候へとの御詑候、為後日如件、
慶六  卯月六日       佐藤掃部 (花押)                       
  白峯寺院主 別名尊師 尊床下
意訳翻訳しておくと
白峯寺に次のことを仰せつける。すでに寄進した御知行方(寺領)や寺の運営管理権についてもこれまで通り認めるとの沙汰が(生駒一正様より)あったので、私(佐藤掃部助)から連絡する。
【史料2】をみると、末尾宛先に「白峯寺院主別名尊師」とあります。ここからは別名が白峯寺院主であったことが分かります。そして生駒一正は、寺領の寄進と同時に、これまで通り別名を院主として認め、寺領の知行や寺物の管理を行うよう、有力家臣である佐藤掃部助を通じて命じています。
史料3 佐藤掃部助書状34
己上
しろミね山中はやし卜大門卜申内、谷中竹木一切令停止候以来少も伐取候者きゝ立次第可成御成敗候、近日殿様御判可給候へ共、御上洛之事候間、御下向次第御判可給候、猶寺中坊主中以上二可被申候、恐々謹言
慶六 卯月十三日             掃部 (花押)
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
意訳変換しておくと
己上
白峰山中の大門内側の谷中の竹木については、一切の伐採禁止を命じていがこれを守らずに伐採するものがいる。今後は、見つけ次第に成敗する。(生駒一正)殿様が御判断することではあるが、今は、上洛中で不在であるので、帰国次第に判断を仰ぐ次第である。なお白峰の寺中の坊主たちにも以下のことは連絡済みである。、恐々謹言
慶六                佐藤掃部(花押)
卯月十三日                     
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
【史料3】からわかることは
①先ほども出てきた生駒藩の重臣佐藤掃部助が白峯山中の林中の「大門」から内の「谷中」での、竹木の刈り取りの停止を再度確認し、順守することを命じている。
②あて先は周辺の村の有力者4名になっている。
③「(白峰)寺中坊主中以上二可被申候」とあり、白峰寺や洞林院の名前は出てこない。
④寺中坊主中とは、白峰全体の子院を指しているように思えること
この文書が出された背景を推測すると次のようになります。
従来から白峰寺山中や大門の内側に里の村々の人々が入り込んで、木材や下草の伐採や採取を行っていた。それに対して、白峰寺の方から宗教的な聖地であるので禁足地としてほしいという要望が生駒藩に出さた。それを受けて生駒藩は出入禁止令を出すが、村人はそれを守ろうとしない。そこで再度、白峰寺から厳禁令を出してほしい請願があった。それを受けて、禁足地へ入るものは成敗するという厳禁令が村々の指導者に出された。

【史料4】佐藤掃部助書状,35
己上
御寺五拾石之百姓郡役外二何二も一切公事仕間敷候、少も仕候者、其百姓曲事二可仕者也、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
しろミね寺
百姓中
意訳変換しておくと
己上
白峰寺の50石の寺領内の百姓については、郡役以外には一切の公事を負担させないので、百姓の一切の紛争を禁止する、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
白峰寺
百姓中

ここでは、白峯寺領の百姓に特権を与えるとともに、一切の紛争の禁上を命じています。
この他にも、年未詳の文書ながら、宛先を別名とするものが2通あります。この中で研究者が注目するのは[三左馬書状]の宛先が「松之別名様」となっていることです。「松之」とは、元禄8年(1695)の白峯寺末寺荒地書上に出てくる「松之坊」のことのようです。そうだとすると別名は、もともとは松之坊を拠点に活動していた僧侶で、その後に洞林院に移ったことがうかがえます。または、松之坊が、洞林院を継承した子院だった可能性もあります。
 以上のような文書からは、次のようなことが分かります。
①慶長6年に生駒一正が白峯寺の別名に対して寺領の寄進など保護を加えていたこと
②この時期の白峯寺では本堂・千手院の再興といった大きな課題に直面していたこと
③一正の有力家臣・佐藤掃部助が白峯寺院主の洞林院別名とともにその再興を図ろうとしたこと
④洞林院の別名は、院主の正当性を一正に保障されることにより、さらに強固にしたこと
その後の慶長9(1604)年に、佐藤掃部助と洞林院別名の手によって千手院の再興が実現します。このことを記す棟札には周辺地域の人々の名前も見え、多くの人々の勧進奉加があったことがうかがえます。さらに3年後の慶長12年には観音堂造立のため、讃岐11の郡から計53石の勧進を行うことが白峯寺に伝えられています。研究者が注目するのは、この段階で生駒藩の主導による勧進・造営体制へと変化していることです。それが可能となったのは、生駒氏が院主洞林院を直接的に掌握していたことが背景にあると研究者は考えています。そのキーマンが別名だったようです。別名は生駒氏の支援を受けながら地域有力者も巻き込み、白峯寺の観音堂造立の勧進を成功させます。これは民衆に生駒氏をあらたな公権力として、印象づけるには格好のモニュメントにもなります。生駒藩は治世安定を目に見える形で示すために、有力寺社を保護支援して堂宇の再興を行っていました。白峰寺だけではなかったのです。金毘羅大権現も弥谷寺も伽藍整備が行われていました。このような中で白峯寺の観音堂勧進に見せた勧進手腕を見て、生駒藩は別名に弥谷寺を兼帯させたと私は考えています。
 こうして生駒藩からの強い信頼を得て、観音堂(本堂)復興を成し遂げた別名の山内での力は大きくなります。同時に、洞林院は他の子院を圧倒するようになります。洞林院の復興とその後の成長は別名の力に依るところが多いとしておきます。

元禄2年(1689)に、寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図を見てみましょう。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
白峰寺 四国遍礼霊場記(1689年)
上図の左ページの建物配置は、太子堂が現在地に移動した以外には大きな変化はないようです。右ページからは次のようなことが分かります。
①現在の本坊には円福寺があり、洞林院は本堂の東側にあったこと。
②洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったこと


次に江戸時代になって中世の白峯寺境内を描いたとされる「白峰寺古図」を見てみましょう。
白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図
中世の白峰山を描いたというこの絵に描かれるのは洞林院だけです。伽藍の間には数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかに「格差」が付けられています。研究者は次のように述べています。
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵の作成意図には、次のようなねらいがあったと研究者は指摘します。
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
さらに推察を加えるとすれば、そのような主張が必要であった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? 
  洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したことは見えてきたとおりです。その際に、洞林院の由緒を示すための文書や絵図が作成されたようです。白峯寺古図には、復興された洞林院の「由緒」を見る人に視覚的にイメージさせる力があります。制作意図もその辺にありそうです。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:

金毘羅参詣名所図会(1847年)道林寺(洞林院)が白峰寺本坊として現在地に描かれている。その奧には明治まであった子院がいくつか見える

以上をまとめておきます。
①中世に21あった子院の内で、洞林院は15世紀後半には白峰寺に肩を並べる大きな存在となっていた。
②しかし、その後の戦乱の中で洞林院は一時的に退転した
③それが復興されるのが16世紀末のことである。
④洞林院院主別名は、生駒藩の支援を受け白峯寺観音堂(本堂)の再建勧進を行い、藩主の信頼を得た
⑤別名は、弥谷寺の兼帯をまかされ、その復興勧進活動にも関わることなる。
⑥藩主生駒一正の信頼を得た別名の山内での権勢は高まり、同時に洞林院の力も大きくなった。
⑦以後近世は、洞林院を中心に白峯寺は運営されていくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。」
参考文献
  上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会
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