白峯寺古図 地名入り
  白峯寺古図(江戸時代初期)

  江戸時代になって、白峰寺の洞林院本坊が自分たちの正当性を主張するために、中世の白峰の伽藍を描かせたとされるのが白峰寺古図です。この古図については、以前に「絵解き」を行いました。その中で気になったのが「西院」のあった場所です。今回は、この西院があった場所を考えていきたいと思います。テキストは「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  調査報告書NO2 2013年」です
白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部分図)
白峯寺古図には青海村から①下馬碑→②大門→③中門→④十三重塔への参道が描かれています。②大門が現在の白峰展望台がある所で、ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。大門から稚児川の谷間に開けた白峯寺へ下って行きます。③中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭(子院?)があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い2つ石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つ十三重石塔です。西院は、①~④のエリアにあったと考えられてきました。。

西院のあった場所を考える時に、手がかりとなる史料が白峯寺には残されています。以前に紹介した六十六部の埋めた経筒と一緒に出てきた遺物の荷札です。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺出土の六十六部経筒

その荷札には次のように記されています。
十三重塔下出土  骨片、文銭
西寺宝医印塔下出上 経筒」

ここからは次のことが分かります。
①骨片・銭貨が十三重塔下から出土
②経筒が西寺宝医印塔下から出土

まず、①の骨片・銭貨の出土した「十三重塔下出土」は、どこなのでしょうか?
これは簡単に分かります。十三重塔といえば1954年に重要文化財の指定を受けた二基の十三重塔しかありません。荷札に書かれた「十三重塔下出土」の十三重塔は、「白峯寺十三重塔」でしょう。ただどちらの十三重塔から出土したかまでは分かりません。

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白峯寺の十三重塔
この東西ふたつの塔については、以前に次のようにお話ししました。
①東塔が弘安元年(1278)、櫃石島産の花崗岩で、櫃石島石工集団の手によるもので、頼朝寄進と伝来
②西塔が元亨4年(1324)で、天霧山凝灰岩製で、弥谷寺石工によるもの
 
中央の有力者が櫃石島の石工集団にに発注したものが東塔です。西東は、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、造立年代の分かる讃岐では貴重な石造物です。

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三重塔
並んで建つ東西の十三重層塔は、初重軸部の刻銘から、東塔が弘安元年(1278)に、西塔が元亨4年(1324)に造立されたことが分かります。これも重文指定の理由のひとつのようです。十三重層塔は、昭和38年(1963)に解体修理されて、東搭の初重軸部の円穴から砕骨が出土し、基壇内からは砕骨、カワラケ、銭貨などが出土しています。白峯寺に所蔵されていた資料が、この解体修理時に出てきた遺物なのかは分かります。荷札に書かれた内容から骨片・銭貨についても、どちらからの十三重層塔から出土地したもののようです。
それでは経筒は、どこから出土したのでしょうか。
荷札には「西寺宝薩印塔 出土経筒」とあるので出土地が「西寺宝筐印塔下」であることが分かります。それでは、「西寺宝医印塔下」の「西寺」はどこなのでしょうか。それは「宝医印塔」のある場所を探せば分かると云うことです。経筒の出土した「宝策印塔」については、白峯寺住職への開き取りから次のことが分かったようです。
①五色台線(180号)から白峯寺への進入路入口に接してある第3駐車場の入口付近に石組み基壇があること。
②約20年前、第3駐車場整地時に石組み基壇を解体し、隣接地に仮置きした。その解体時に石組み基壇内から、経筒が出土したこと。
③石組の基壇上には、当初宝医印塔があったが、戦後の混乱期に行方不明になったこと
④「西寺」は、白峯寺への進入路の入口から展望台のあるあたりが「西寺」と呼ばれていること
現在、この付近は、県道や白峯寺の駐車場、坂出市の展望台と駐車場となっており、「西寺」に関する痕跡は何もありません。ただ駐車場の中央に、正面「下乗」、裏面「再建 寛政六甲寅年/二月吉日」と刻んだ花崗岩製の下乗石があります。
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白峯寺 展望台駐車場の下乗石
ここからは、白峯寺境内との境界付近に「西寺」があったことが推測できます。しかし、宝医印塔と西寺の関係については、聞き取り調査では分からなかったようです。
白峯寺 西寺跡の範囲

          西寺があったとされる伝承エリア
次に江戸時代に描かれた絵図から「西寺」「宝筐印塔」について、見ておきましょう。
研究者が参考とする絵図は、次の4つです。
①江戸時代初期に描かれたとみられる「白峯山古図」
②元禄2年(1689)の高野山の学僧寂本によって描かれた『四国遍礼霊場記』内の絵図
③弘化4年(1847)に描かれた『金毘羅参詣名所図会』内の絵図
④嘉永6年(1853)に描かれた『讃岐国名勝図会』内の絵図
もう一度「白峯山古図」を見ておきましょう。
白峯寺 西寺 白峯寺古図


②大門は丘陵の頂部に描かれているので、「大門」は現在の県道から白峯寺への進入路付近だったことがうかがえます。聞き取り調査で「西寺」と呼ばれている場所は、展望台駐車場がある付近でした。そうすると「西寺」のあった所は「白峯山古図」では、「大門」の付近であることになります。しかし「白峯山古図」には、大門周辺には大門以外に建物は何も描かれていません。大門周辺に子院や伽藍は、なかったようです。
元禄12年(1689)の寂本『四国遍礼霊場記』内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 四国遍礼霊場記2

ここでは、白峯寺への参道に①「丸亀道」との表記があり、ちょうど丘陵頂部には、②「下乗」石が描かれているだけです。「大門」も「西寺」の表現もありません。ただ、石塔が2基描かれています。これが十三重塔のようです。
弘化4年(1847)に描かれた「金昆羅参詣名所図会」の絵図を見ておきましょう。
丘陵頂部に「大門」は描かれていますが、「西寺」を示す表現はありません。ただし、「大門」の手前には「堪空塔」と書かれた石造物が描かれいます。描かれている形は宝策印塔の形とはちがいますが、これが「大門」周辺で唯一見られる石造物になります。
最後に嘉永6年(1853)に描かれた「讃岐国名勝図会」内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 西院 金毘羅参詣名所図会
讃岐国名勝図会

それまで「大門」として描かれていたのが①「大門跡」となっています。門としての建物の表現はなくなっていて、「西寺」を示す表現もありません。そして、東西の②十三重塔の後ろには「頼朝塚」・「琵琶塚」と注記されています。
  このように江戸時代に描かれた絵図には、「西寺」や「宝医印塔」は描かれていません。現在「西寺」と呼ばれている場所は、展望台や駐車場付近ですが、江戸時代に描かれた絵図では、それを裏付けることはできなようです。
 そこで研究者は視点を変えて「西寺」と呼ばれているので、白峰寺の西側に描かれている伽藍を白峯寺古図で探します。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

白峰寺の西に位置し、十三重塔背後の堂宇が「西寺(西の院?)」
そうすると浮かんでくるのが「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」です。これが「西寺(西の院」当たるのではないかと研究者は推測します。
  承応2年(1653)の澄禅によって書かれた「四国遍路日記」には、次のように記されています。
「寺ノ向二山在、此ヲ西卜伝。鎌倉ノ右大将頼朝卿終焉ノ後十三年ノ弔二当山二石塔伽藍ヲ立ラレタリ。先年焔上シテ今ハ石塔卜伽藍之□ノミ残リ」

  意訳変換しておくと
「白峯寺の向うに山がある。これを「西卜伝」と云う。鎌倉将軍の源頼朝が亡くなった後の13回忌に石塔と伽藍と造立された寺である。先年伽藍は焔上して、今は石塔と伽藍跡だけが残っている。

ここからは石塔が残り、「白峯山古図」に「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」などが描かれている子院が「西ト伝」で「西寺(西の院」ではないかと研究者は推測します。
以上をまとめておくと、
①現在の下乗碑が建つ展望台駐車場付近には大門があり、その付近に「西寺」があった伝えられる。
②しかし、江戸時代の絵図には、どれも大門付近には建造物は描かれていない。
③そこで、西院は白峯寺古図に描かれいる十三重塔背後の堂宇群であったと研究者は推測する。
④澄禅の「四国遍路日記」には、石塔と伽藍が頼朝13回忌に建立されたこと、それがその後に炎上して十三重塔のみが残ったこと
  そうだとすれば、白峰寺には洞林院に劣らない勢力を持った寺院(子院)がここにあったことになります。それが「西卜伝(西寺)でしょう。その寺は、源頼朝13回忌に石塔(十三重塔)と伽藍が造立されたとも伝わります。それは石塔に刻まれた年号とは一致しないので、そのまま信じることはできません。
 しかし、京都などの有力者が十三重塔を寄進しているのは、洞林院ではなく西寺なのです。洞林院のライバルであったのかもしれません。洞林院が造ったとされる白峯寺古図には、堂舎は描かれていますが寺名は書かれていません。
どちらにしても、現在の東西の十三重塔の背後には、大きな伽藍を持つ西寺があったこと、そしてその伽藍が炎上した後に残ったのが十三重塔だということになります。十三重塔は白峰寺の前払いとして寄贈されたのではなく、西寺の塔として建立されたものであったようです。
白峯寺 西院白峰寺古図
白峯寺西院(西の院)?
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です