江戸時代の讃岐各藩における雨乞修法を担当したのは、次の真言寺院でした。
①髙松藩 白峯寺②丸亀藩 善通寺③多度津藩 弥谷寺
旱魃になるとこれらの寺院では、藩に命じられて雨乞修法が行われるようになります。そのために、善如(女)龍王が勧進され、小さな社が建立されていました。この善如(女)龍王に降雨を祈るという修法は、中世以来のものかと私は思っていました。しかし、そうではないようです。17世紀後半になって、ある人物によって讃岐にもたらされたようです。それが浄厳(じょうがん)という真言僧侶のようです。
浄厳
彼は、善通寺の僧侶や髙松藩初代藩主松平頼重にも大きな影響を与えた僧侶のようです。今回は、浄厳が讃岐に何をもたらしたかに焦点を合わせて、見ていくことにします。テキストは、「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳 白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」です。まず、彼が何者であるのを浄厳伝(現代訳)で見ておきましょう。
浄厳律師は、寛永16年(1639)11月23日に生まれた。字(通称)は覚彦(かくげん)と言い、俗姓は上田氏であり、河州錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)の出身である。父母は信仰に篤く、深く三宝を信じており、律師は生まれながら非凡であった。幼少の御、授乳の時には、いつも右の人差し指で梵字や漢字を、母の胸に書いたと言われ、また一切の文字も習ってもいなかったのによく知っていたと言う。四歳の頃には、法華経の普門品や尊勝陀羅尼を読誦し、またよく阿弥陀や観音、地蔵などの仏の名号を書いたと言う。ある時には、父親に出家したいと願い、密かに般若経を唱えていたとも言われ、女性に会うことを嫌い、生臭いものは食べなかつた。六歳の時には、桂厳禅師の碧巌録の講義を聴き、家に帰りまた自ら講じ、それを聴いた者を驚歎させたと言う。
慶安元年1648)十歳の時に高野山に登り、悉地院の雲雪和尚に付き得度。雲雪和尚遷化後は、釈迦文院の朝遍和尚に師事。
明暦二年(1656) 実相院の長快阿閣梨から中院流の伝法灌頂を受ける。
寛文四年(1664) 南院の良意阿闇梨から安祥寺流の伝法灌頂を受け秘印を授かる。
以後は、倶舎、唯識、華厳や法華の諸経論を兼学して勉学研鑽する。
寛文十年(1670) 大師の『即身成仏義』を講義して、高野山の全山学徒が心服。高野山で修行すること20余年で、学侶の席を捨て山を下る。
寛文十二年(1672)春、故郷河内に帰り、父の俗宅に如晦庵を建て、観心寺で『菩提心論』『理趣経』などを講義
延宝元年(1673) 神鳳寺派の快円律師より梵網菩薩戒を受け、浄厳と名を改め、これ以降は戒律を護持。
翌年には、仁和寺の顕證阿闇梨、孝源阿閣梨の二師に拝謁して、西院の法流や真言の諸儀軌を受得する。また、黄檗の鉄眼禅師に超逓して意気投合し、その後も親交は深められる。
延宝四年(1676)春二月、河内の常楽寺にて曼茶羅を建てて、初めて受明灌頂を行った。この受明灌頂は、真言密教の重要な灌頂であったが伝授が途絶えていた。その灌頂を復興。
この年の5月に、泉州堺の高山寺で、神鳳寺一派の玄忍律師を証明師として招請。通受自誓の受戒を行い、比丘となる。
別行次第秘記は浄厳の真言密教の修行に関する口訣書
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に招かれ講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
貞享元年(1684)11月、教化のために江戸に出る
が、旅住まいをして間もないのに、学人が雲のように多く集まり、講経や説法をしても、人が来ない日は無いほどであった。三帰依の戒を授かった者は、六十万九千人。光明真言呪を授かった者 一万千百余人。書薩戒を授かった者は千百三十人であった。
元禄四年(1691)8月、幕府の命で、湯島に霊雲寺を開創
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
水戸藩の儒者であった森尚謙は、律師の法座があまりに盛んであったのを祝って、次のように詩作している。
「南天の鉄塔覚皇の城、芥子扉を開いて此道明らかなり。憫恨す会昌の沙汰の濁れることを、讃歎す日域の法流の清きことを、戸羅具足して無漏を証し、結縁灌頂して有情を救う。遍照金剛今いづくにか在る。那伽の定裏に形声を見はす」
元禄十五年(1702)6月、体調を崩し病に罹り、27日に、頭北面西し、右脇して臥して、印を結んで、静かに遷化。享年六十四。
浄厳は、戒律を護持して、決して怠らず、三衣一鉢などの持ち物を飾ることもなく、美味しい食物を口にすることはなく、人に接する時は謙譲であり、また人を送迎する際には、非常に丁寧であった。信者から受けた布施は、すべて経典や仏像を購入したり、堂塔を修復することに用い、慈悲の実行を常に旨とし、護法を自らの勤めとなしたのである。まさに、仏教界の逸材と言うべき高僧であった。
浄厳の墓(河内延命寺)
以上のポイントを要約しておくと
①寛永16(1639)年 河内に生まれ10歳で高野山に入山得度②寛文10(1670)年 高野山修行20余年で、高野山を下り故郷河内に真言新安祥寺流を開く③元禄4(1691)年 5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立
庶民の教化に努め、近世期の真言宗の傑僧と評され人物のようです。
この中で注目したいのが讃岐との関連で、次の記述です。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、浄厳の戒徳を仰ぎ慕い、直接浄厳から教えを受けた。1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
これを裏付けるのが「浄厳大和尚行状記」です。
浄厳大和尚行状記
この書は、浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子や、松平頼重との関係が詳しく記されています。浄厳来讃のきっかけについては。次のように記します。延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、4月21日より法華経を講じ、9月9日に満講した。
ここからは、延宝6(1678)年に、善通寺誕生院主宥謙の請いを受けて因果経ならびに法華経の法筵を開いたことに始まると記されています。
どうして宥謙は、浄厳を善通寺に「講師」として招聘したのでしょうか?
誕生院主宥謙の課題は、7年後の貞享2年(1685)に控えた弘法大師八百五十年遠忌でした。それを前に善通寺を浄厳の説く新安祥寺流に改める「宗教改革」の道を選んだと研究者は考えています。それは、宥謙以後の善通寺歴代住持の動きからもうかがえるようです。
宥謙以後の善通寺誕生院住職は、光胤―円龍―光歓―光天―光國と続きますが、新安祥寺流との関わりが深くなっていきます。
宥謙が元禄四年(1691)に入寂すると、住持職を譲られていた光胤は、元禄9(1696)年に、京都や江戸での寺宝の開帳を行ったことは以前にお話ししました。元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年 江戸で行われ、②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで善通寺での居開帳、③同年11月23日~12月9日まで上方、④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで
播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
善通寺江戸開帳の「元禄目録」
江戸での開帳の際に首題に「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」と題された「元禄目録」が残されています。元禄開帳末尾
その末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の「御覧(見学)」のために作成された目録であることが分かります。桂昌院は、家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の当寺の実権者でした。その桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれについての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
「大奥の実力者が見学に行った善通寺のご開帳」というのは、ニュースバリューがあり、庶民を惹きつけます。現在でも、皇室記事に人気があり、皇族たちの着ているものや見学先に庶民が強い関心を持っているのと同じです。しかし、どうして四国の善通寺のご開帳に、わざわざ桂昌院が見学にきたのでしょうか。法隆寺や善光寺に比べると、全国的な知名度はかないません。
善通寺本尊薬師如来開眼供養願文(善通寺)
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている
この時に大きな力になったのが桂昌院の帰依を得ていた浄厳の存在だと研究者は推測します。
当寺の浄厳は江戸にいて、五代将軍綱吉から湯島の地を賜って霊雲寺を開いて真言律を唱え、多くの信者たちを得ていました。浄厳による大奥への裏工作があったことが考えられます。
善通寺本尊薬師如来像
それを裏付けるのが、現在の善通寺本尊薬師如来像です。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
大仏師運長が誕生院にあてた「見積書」
その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示され見積書となっています。このような「見積書」によって、運長は全国の顧客(寺院)と取引を行っていたようです。 ここで研究者が指摘するのは、運長は浄厳の肖像を制作していることです。浄厳は、以前から運長にさまざまな仏像の制作を依頼してようです。ここからは私の推論です。「弟子」にあたる誕生院院主光胤は浄厳に次のような依頼を行います。
「おかげさまで江戸での開帳が成功裏に終わり、善通寺金堂並びに本尊造立のための資金が集まりました。つきましては、善通寺金堂の本像作成にふさわしい仏師を紹介していただけないでしょうか」
江戸の浄厳に相談し、仏師紹介を依頼したことが考えられます。そして浄厳が紹介したのが腕利き仏師運長だったと私は考えています。このように考えると、江戸での開帳計画も一か八かのものではなく、浄厳の指導助言に従って光胤が進めたもののように思えてきます。善通寺の運営について浄厳は、さまざまな助言や協力もしていたようです。
円龍が運長に依頼した愛染明王像(善通寺)
次の善通寺住持の円龍は、宥謙・光胤から受法した正嫡の弟子です。そして、京都愛宕宝蔵院主から善通寺に転住してきた人物です。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
善通寺大塔再興雑記には、光圀の名前が見える
光國僧正は阿波出身であり、東大寺戒壇院長老となった慧光(1666~1734)に師事していました。また、五重塔再興に東奔西走した人物です。
慧光は浄厳の高弟のひとりで、湯島・霊雲寺の二世でもあります。善通寺に伝えられる新安祥寺流聖教には光國が所持していたものがあり、さらに白峯寺等空と離言書写のものも伝えられています。これらをあわせると善通寺の大部分の聖教が整うようです。
以上をまとめておくと、浄厳を善通寺に招請した誕生院主宥謙のねらいは、弘法大師650年遠忌を契機として善通寺を新安祥寺流の拠点のひとつとすることにあったと研究者は考えています。
それを裏付けるように、これ以後善通寺周辺の真言有力寺院がである金昆羅金光院・弥谷寺・白峯寺・志度寺などが新安祥寺流を受入れます。 (松原秀明「讚岐における浄厳大和尚の遺蹟と、その法流について」『郷土歴史文化サロン紀要』第1集1974年
こうして、讃岐の真言寺院は新安祥寺流に席巻されていくようになります。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。
高野山の善如(女)龍王 高野山は男神
「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。
浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に将来された際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王のようです。
善通寺の善女龍王社
それを裏付けるのが、本堂の西側にある善女龍王の小さな社です。この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡で、調査報告書には、「貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札」
が出てきたことが報告されています。最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。これは浄厳によって善女龍王信仰による雨乞祈祷の方法がもたらされたという記録を裏付けるものです。逆に言うと、それまで讃岐には真言密教系の雨乞修法は行われていなかったことになります。
善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められた約80件の雨乞文書が残されています。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。
浄厳評伝の中には、高松藩主松平頼重関係が次のように記されていました。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述する。
松平頼重と浄厳の関係について見ておきましょう。
浄厳が善通寺を訪れたことを聞いた頼重(隠居名:源英公)は、彼を高松城下へ招請します。そして、翌年1679年正月に謁見、以後、頼重は源英公は息女であった清凍院讃誉智相大姉とともに連日聴聞したようです。頼重は、2月には浄厳のために石清尾八幡宮内に現証庵を建立し住まわせます。また、4月には、浄厳が老母見舞のために河内に帰省するに際には、高松藩の御用船を誂えて送迎しています。その信奉のようすは『行状記」に詳しく記されています。ここからは、 頼重が浄厳に深く帰依していたことがうかがえます。ちなみに頼重は、年少期には京都の門跡寺院に預けられて「小僧」生活を長く送っています。そのため宗教的な素養も深く、興味関心も強かったようです。
頼重の再招聘に応じて浄厳は、延宝八年(1680)3月に再び高松にやってきます。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
凶事とされていた彗星の出現を予測していた浄厳は、浄厳は、白河上皇の永保元年(1081)に大江匡房が金門鳥敏法厳修を奏上した際に、ただひとり安祥寺の厳覚律師だけが知っていて五大虚空蔵法を修された故事を頼重に語ります。これを聞いて頼重は、髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に従って同法を伝授させます。そして、五大虚空蔵尊像十幡を十ヶ寺に寄付し、正月・五月・九月に五大虚空蔵求富貴法を修行させるように命じます。これは以後、毎年の恒例となっていきます。そして、浄厳は河内の延命寺で金門鳥年法を七日間修し、それが彗星到来にともなう凶事を事なきことに済ませたとされます。こうして浄厳の讃岐での名声は、彗星到来を機にますます高まります。翌天和二年(1682)には、頼重62歳の厄除祈祷を行っています。
彗星到来の凶事を防ぐために「髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に命じて五大虚空蔵法を伝授し、尊像十幡を十ヶ寺に寄進した」とあります。
それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
秀吉の命で生駒氏が領主として入部した際に、讃岐領内十五の祈祷寺が決められていました。
生駒騒動後には、讃岐は髙松藩と丸亀藩に分けられますが、「東讃十ヶ寺・西讃五ヶ寺」と呼ばれているので、高松藩領内では通称「十ケ寺」として東讃十ケ寺がこれを引き継いだようです。その「十ヶ寺」を挙げておきます。
阿弥陀院・地蔵院・白峯寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院
この筆頭は髙松城下町の石清尾八幡官別当寺であった阿弥陀院で、寺領高200石余、白峯寺がこれに次いで120石です。
このほか、大般若会や雨乞い祈祷も、これら十ヶ寺の所役であったことは、以前にお話ししました。特に大般若経は阿弥陀院と白峯寺が月替りに参城して転読したようです。
白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。
虚空蔵菩薩像(白峯寺)
白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。
白峯寺の善女龍王
二幅所蔵される善如(女)龍王像(第105図・第106図)も雨乞い祈祷の本尊として、浄厳の先例に拠って調えられたと研究者は考えています。確かに絵は男神の善如龍王で、女神の善女龍王ではありません。真言系雨乞修法の本尊は、男神像像の善如龍王から、女神の善女龍王に「進化」しますが、それが醍醐寺の宗教的戦略にあることは、以前にお話ししました。ここでは、善通寺や白峯寺などの雨乞本尊が男神の善如龍王で、高野山からの「直輸入」版であることを押さえておきます。これも、讃岐に善如龍王をもたらしたのが浄厳であることを裏付ける材料のひとつになります。その後の浄厳の活躍ぶりを『行状記』は次のように記します。
浄厳の効験により、「天下の護持僧」として元禄四年(1691)に五代将軍綱吉から江戸湯島に霊雲寺を賜り天下の析願所となった
このように、讃岐に新安祥寺流の法脈が広がるのは、浄厳が頼重からその護持僧としての信任を得ていたことが大きく影響していることが分かります。髙松藩の浄厳保護と、善通寺の浄厳の安祥寺流への切り替えは同時進行で進んでいたことを押さえておきます。
以上から浄厳の讃岐にもたらしたものを挙げておきます。
①善通寺誕生院院主の帰依を受けて、善通寺を新安祥寺流の拠点寺院としたこと
②善通寺を拠点に西讃の有力真言寺院が新安祥寺流を受けいれたこと
③善通寺の歴代院主は、浄厳やその弟子たちと法脈をひとつにして、寺院経営などに指導助言を得たこと
④そのひとつが江戸での開帳行事の開催や、本尊作成の仏師選定などが史料から分かる。
⑤浄厳は髙松藩松平頼重の護持僧侶として、宗教政策に強い影響力をもつようになったこと
⑥松平頼重の引退後の宗教政策には、浄厳がさまざまな点に影響を与えていたことが考えられる事
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳 白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」
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