本山寺境内 仁王門より
本山寺は、財田川と宮川の合流点付近の平地の中にあります。遍路道を観音寺からを歩いて行くと、明治に建てられた五重塔がシンボルタワーとして導いてくれます。この寺の歴史を見ておきたいとおもいます。テキストは「上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会」です。本山寺周辺遺跡
まず本山寺の立地条件から見ていきましょう。本山寺の南を流れる財田川は、まんのう町塩入の東山峠付近の阿讃山脈に源をもちます。山間部では蛇行を繰り返しながら、三豊市山本町で三豊平野に出て扇状地を形成します。三豊平野を流れる財田川周囲の地形にはグーグル地図を見てもかなりの乱れが見えるので、氾濫を繰り返す川であったことがうかがえます。本山寺は財田川右岸にあり、ちょうど高瀬町羽方宮奥に源を持つ財田川支流の宮川が合流する所になります。
本山寺周辺 財田川と宮川の合流地点に立地
航空写真を見ると財田川北側に残る条里型地割が、財田川と宮川の氾濫によってかなり乱れています。その縁辺部に沿って江戸時代以降の旧伊予街道が抜けていていて、その街道に接するように本山寺があることが分かります。本山寺は氾濫原に接していますが、本山寺の史料に洪水の記事は出てこないので、この地が安定していた場所であったことがうかがえます。 宮川の源流は、式内神社の大水上神社(讃岐二宮)です。
この流域からは銅鐸や銅剣が出ているので、早くから開けたエリアだったことが分かります。宮川流域の延命院の境内には、横穴石室を持った中型の古墳があります。しかし、その規模や数は母神山や大野原の古墳群に比べると見劣りします。ところがこのエリアの有力者は7世紀後半に突如として讃岐で最も早い古代寺院の建立を始めます。それが⑤妙音寺になります。これは、壬申乱後に成立した天武朝政権に取り入り、最新鋭の宗吉瓦窯群を誘致し、藤原京へ宮殿用瓦を瓦を提供した丸部氏の氏寺であると研究者は考えているようです。
この流域からは銅鐸や銅剣が出ているので、早くから開けたエリアだったことが分かります。宮川流域の延命院の境内には、横穴石室を持った中型の古墳があります。しかし、その規模や数は母神山や大野原の古墳群に比べると見劣りします。ところがこのエリアの有力者は7世紀後半に突如として讃岐で最も早い古代寺院の建立を始めます。それが⑤妙音寺になります。これは、壬申乱後に成立した天武朝政権に取り入り、最新鋭の宗吉瓦窯群を誘致し、藤原京へ宮殿用瓦を瓦を提供した丸部氏の氏寺であると研究者は考えているようです。
地方の古代寺院は、旧国造クラスの有力者の氏寺として作られたものがほとんどです。そのためパトロンである有力者が衰えると維持できなくなります。妙音寺も中世になると衰退したようです。そのような中で、妙音寺に代わって登場するのが本山寺になります。
本山寺は、三豊市豊中町にある高野山真言宗の寺院で、七宝山持宝院と号します。もとは長福寺と称したようです。
江戸時代中期に書かれた『七宝山本山寺縁起』には、その由来を空海による「一夜建立之霊刹」で、草創の時期は大同2年(807)と記します。しかし、成立期の本山寺については同時代の史料がないのでよく分からないようです。ただ、地理的に次のような点は確認できます。
①古代から本山寺が財田川と宮川の合流点に位置していたこと②古代の官道である南海道がすぐそばを通っていたこと
本山寺本堂に保存されている用材
明治33年(1900)の「古建物調査書」によれば、本山寺本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。そういえば、善通寺建立の用材は、まんのう町春日の尾野瀬山から切り出されたと伝えられます。
空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、交流していたことをうかがわせるものです。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。
元寇後の地方有力寺社の建築一覧表
上の地方寺院の造営時期一覧表を見て分かることは、元寇後の13世紀末に諸国に寺社の修造ブームが巻き起っていることです。讃岐近隣の寺院を抜き出して見ると、次のようになります。
1289年 土佐の金剛福寺1292年 安芸宮島の厳島神社1293年 土佐の最御崎寺1298年 善通寺 備後浄土寺1300年 本山寺1312年 伊予大三島の大山積神社
この背景には幕府が寺社保護を強化するという政策がありました。これが地方寺社の改築ラッシュにつながったようです。このときの寺院建造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
①寺社建造が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと②建造運動が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって進められたこと
②については、正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に次のように記されています。
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」
ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたことがうかがえます。このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させます。そして、地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。こういう動きの中で、善通寺や本山寺の本堂改築を見ていく必要があるようです。
それでは、鎌倉時代の本山寺の動向を見ておきましょう。
①暦仁2年(1239) 沙弥真仏が本堂修理。
②建長7年(1255)「沙門心導」「比丘尼宝阿」と「沙弥道安」が本堂修理
③正応4年(1291) 「金剛仏子心導」と「佐々木某」が本堂修理
ここからは、鎌倉時代以前に本堂にあたるものがすでにあり、13世紀に定期的に修理が行われていることが分かります。本山寺は平安時代末期には、存在していたようです。
研究者が注目するのは、登場人物の「沙弥」という肩書きです。
沙弥とは「正式の僧侶になる以前の人」ととされます。暦仁2年(1239)の「沙弥真仏」、建長7年(1255)の「沙弥道安」がどのような人物であるかは分かりません。しかし、彼らが僧侶と在家の中間にあって本山寺本堂の修理に関与していたことは分かります。また、暦仁2年の修理以外は、どれも正式な僧侶と沙弥(あるいは俗人)とがセットになって修理・再建の責任者となっています。ここからは、本山寺本堂は僧侶たちだけでなく、沙弥・俗人の支援を受けて修理・再建が行われていたことが分かります。これは早い時期から本山寺が、地域社会と連携し、その支援を受けれる体制が整えられていたことを示すものと研究者は考えています。
沙弥とは「正式の僧侶になる以前の人」ととされます。暦仁2年(1239)の「沙弥真仏」、建長7年(1255)の「沙弥道安」がどのような人物であるかは分かりません。しかし、彼らが僧侶と在家の中間にあって本山寺本堂の修理に関与していたことは分かります。また、暦仁2年の修理以外は、どれも正式な僧侶と沙弥(あるいは俗人)とがセットになって修理・再建の責任者となっています。ここからは、本山寺本堂は僧侶たちだけでなく、沙弥・俗人の支援を受けて修理・再建が行われていたことが分かります。これは早い時期から本山寺が、地域社会と連携し、その支援を受けれる体制が整えられていたことを示すものと研究者は考えています。
本山寺本堂
そして、13世紀末の諸国寺社の修造ブームが本山寺にもやってきます。本山寺の本堂は、従来は正応年間に丸亀藩の京極近江守氏信が寄進したものと伝えられてきました。ところが昭和28(1953)年2月の解体修理の際に、礎石から次のような墨書銘がみつかります。
「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」
ここから、本堂が鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝に指定されます。讃岐の寺社では「長宗我部元親焼き討ち全焼説」が由来として」伝わっていることが多いのですが、本山寺の本堂はそれ以前のもので焼き討ちを受けていないことを押さえておきます。
また、「大工藤原国重や平友末」と大工名も記されています。
その後の研究で彼らは奈良南都の工匠で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。奈良の名のある大工が讃岐にやってきて手がけた本堂になるようです。同じ時期に、奈良の大工たちが尾道の浄土寺などにもやってきて腕を振るっていた時代です。本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。
本山寺本堂廊下よりの伽藍 右が十王堂
なお、正安2年に本堂棟上を行ったのは「沙弥覚道」です。
「覚道」については、善通寺中興の祖として著名な宥範の師のようです。宥範の伝記『贈僧正宥範発心求法縁起』(応永9年(1402)撰集)に、その師として「談議所無量寿院僧正覚道上人道憲」が記されています。「覚道上人道憲」とあるので本山寺本堂に関わった「覚道」と同一人物である可能性を研究者は指摘します。
またこの史料によれば、徳治元年(1306)に宥範が東国修行から帰国した際、讃岐国野原(現在の高松)の無量寿院隋願寺で、師「覚道上人道憲」と面会しています。ここからも「覚道上人道憲」は正安2年の「覚道」と同一人物であることが裏付けられます。
この「覚道上人道憲」は顕日房道憲とも呼ばれたようです。
道憲は東大寺戒壇院中興の祖とされる実相房円照の弟子です。文永9年(1272)に授戒し、円照の授戒弟子として南都奈良で活動した後、出身地に帰って寺院建立や教化活動を行っていたことが知られています。とすれば、寺院建立に実績のある「覚道上人道憲」が、本山寺本堂の建立にあたっても助力したと考えることができます。本山寺の本堂や仁王門の建立を、南都奈良の大工たちが担当していました。それを実現させたのは奈良でも寺院建立活動を行っていた「覚道上人道憲」がいたから実現できたことと研究者は推測します。
道憲は東大寺戒壇院中興の祖とされる実相房円照の弟子です。文永9年(1272)に授戒し、円照の授戒弟子として南都奈良で活動した後、出身地に帰って寺院建立や教化活動を行っていたことが知られています。とすれば、寺院建立に実績のある「覚道上人道憲」が、本山寺本堂の建立にあたっても助力したと考えることができます。本山寺の本堂や仁王門の建立を、南都奈良の大工たちが担当していました。それを実現させたのは奈良でも寺院建立活動を行っていた「覚道上人道憲」がいたから実現できたことと研究者は推測します。
①「仏師、当国内大見下総法橋」②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は、「当国内大見」住人と記されています。大見は、弥谷寺の麓で三野湾に面する所で、三野郡下高瀬郷に属します。西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。
②の絵師は、善通寺お抱えの絵師のようです。
ここからは、本堂や仁王門などの建築物については、奈良からやってきた宮大工たちが、そこに安置された二天像は地元讃岐の仏師や絵師たちによって造られたことが分かります。
本山寺の二天立像(毘沙門天)
本山寺の造立運動を進めたのは、どんな宗教者だったのでしょうか?
先ほど見たように、この時期の地方寺社造立ラッシュは「②地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していた」と研究者は指摘していました。それを今度は見ていこうと思います。
中世の本山寺は、持宝院あるいは長福寺とよばれていたようです。 本山寺という現寺名は、地名によるもので古代の郷名「本山郷」に由来します。本山荘は鎌倉時代前期には九条家領でしたが、のちに石清水八幡宮領となります。研究者が指摘するのは岩清水八幡宮領の成立に際して、その分霊が勧請されていることです。
鳩八幡神社
その一つが岡本にある鳩八幡神社になるようです。 本山荘・本山新荘のエリアは、現在の豊中町本山・岡本、観音寺市本大町あたりが荘園領域とされます。岡本(鳩)八幡神社は、社記によると嘉禎年間(1235)に本山荘が山城国石清水八幡宮へ寄進せられ、その社領となります。そのため領家である石清水八幡宮の御分霊を勧請し荘内の総社として祀られたとされています。 荘園が立荘された場合には、荘園領主と同じ神社を勧進するのが一般的でした。
15世紀の観音寺船籍の船には、山崎胡麻60石の積載記録が残されています。これは石清水八幡宮の荘園である本山荘・山本荘から財田川を通じて観音寺港に集積されたものと考えられます。石清水八幡宮の神人たちは、淀川の交通路を握り、そこから瀬戸内海に進出しました。讃岐には海浜部を中心に草木荘・牟礼荘・鴨部荘など石清水八幡宮の荘園をはじめ末社が多いのもそのためです。
近江坂田郷の寺社関係 八幡神社を中心にネットワークが形成されていた例
近江坂田郷の寺社関係 八幡神社を中心にネットワークが形成されていた例
つまり、本山寺は本山荘の寺社ネットワークの核であったことになります。そして中世は、石清水八幡宮のネットワークの一端に組み込まれていたことがうかがえます。それを裏付けるように、近世においては、本山寺は岡本八幡の社僧を務めています。また、熊岡八幡神社の別当寺でもあったことは、先述したとおりです。本山寺は、こうした旧本山荘内にある神社の別当を務めることによって勢力を維持したと研究者は考えています。
熊岡八幡神社
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
以前に、多度津の道隆寺や大内の与田寺(水主神社)などを例に紹介しました。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。また与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったのです。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。また与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったのです。
興隆寺の五輪塔群
そういう視点で本山荘を見ると、見過ごせないのが興隆寺跡です。
西讃府誌には、興隆寺は 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。興隆寺跡にある石塔群は108基で、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。
本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる
五来重氏は、このご詠歌はもともとは、奥の院興隆寺のものと考えています。「手向にぞなる」とは、亡くなった人の供養を示します。建ち並ぶ五輪塔も先祖供養のためと考えれば弥谷寺と同じような性格の寺であることになります。鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔を造立したことがうかがえます。
興隆寺五輪塔群
一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。
一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。どちらにしても、ここには修験者や聖などの行場であり、先祖供養の寺でもあったようです。
一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。どちらにしても、ここには修験者や聖などの行場であり、先祖供養の寺でもあったようです。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
妙音寺 本堂本尊 12世紀の木造阿弥陀如来坐像興隆寺 伝本尊 薬師如来 中世期に石塔群造立本山寺 本 尊 馬頭観音
脇士 阿弥陀如来 + 薬師如来
本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。そして、馬だけでなく牛や蚕などあらゆる畜生類を救う観音ともされるようになり近世には農民たちの広い信仰を受けるようになります。そして、道ばたにも馬頭観音の石仏が立てられるようになります。その造立目的は、次のようなものでした。
本山寺の本尊馬頭観音
馬頭観音の梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」という意味のようです。
これはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもあるので、敵対するヒンズー教の神を「天部の仏」として迎え入れたことがうかがえます。その役割は、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。そのため他の観音が女性的で穏やかな表情なのに、馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。私は、最初に馬頭観音を見たときに、「これが観音さま?」というのが正直な感想でした。密教では「馬頭明王」と呼ばれて、すべての観音の憤怒身ともされています。そのため憤怒相の守護尊として明王部に分類されることもあるようです。
これはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもあるので、敵対するヒンズー教の神を「天部の仏」として迎え入れたことがうかがえます。その役割は、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。そのため他の観音が女性的で穏やかな表情なのに、馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。私は、最初に馬頭観音を見たときに、「これが観音さま?」というのが正直な感想でした。密教では「馬頭明王」と呼ばれて、すべての観音の憤怒身ともされています。そのため憤怒相の守護尊として明王部に分類されることもあるようです。
「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。そして、馬だけでなく牛や蚕などあらゆる畜生類を救う観音ともされるようになり近世には農民たちの広い信仰を受けるようになります。そして、道ばたにも馬頭観音の石仏が立てられるようになります。その造立目的は、次のようなものでした。
①牛馬の安全守護②牛馬供養
造立の際に、勧進によって多数同信者の願いを結集すれば、その石仏の功徳はより大なものになると信じられます。そのために万人講を組織して、喜捨をあつめることが多かったようです。これを進めたのが修験者や聖たちでした。そのため馬頭観音やその権化・権頭天王を祀る寺社は、彼らの拠点となり周辺に多くの修験者が生活していたようです。ここでは、中世の本山寺(長法寺)が馬頭観音を本尊とする修験者たちの拠点寺院化していたことを押さえておきます。
本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如来です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院の本尊であった仏を、本山寺の馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く事情が反映されているのでしょう。それは、妙音寺と興隆寺を統合して、外から新規に馬頭観音を向かえて本尊としたということが考えられます。それを進めたのが修験者や聖たちであったというのです。
京都・浄瑠璃寺「馬頭観音菩薩立像」
牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。馬頭観音は、もともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られ、姿を換えていきます。
牛頭天皇(祇園大明神)
権化が牛頭天王
蘇民将来説話の武塔天神
薬師如来の垂迹
スサノオの本地
牛頭天王は、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ、現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。
滝宮神社
「牛頭天王」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。
牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となったのが龍燈院です。
龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが三豊の本山寺周辺でも起こっていたのではないかと私は考えています。つまり、牛頭天王神(ごずてんのう)をまつる聖集団によって、本山寺は中世に姿を見せたという説です。
滝宮牛頭神社の別当寺 龍燈院跡
牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となったのが龍燈院です。
龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが三豊の本山寺周辺でも起こっていたのではないかと私は考えています。つまり、牛頭天王神(ごずてんのう)をまつる聖集団によって、本山寺は中世に姿を見せたという説です。
滝宮龍燈院の十一面観音(綾川町生涯学習センター蔵)
讃岐でも、大般若経の書経活動でも聖たちの連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと
本山寺でも、戦後まで大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
本山寺ではお経を担いで村を回ります。これも回って読む一つのやり方ですから、転読といえるでしょう。住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。これが、檀家だけでなく、地域をめぐっていたようです。これも中世以来の村々の境を超え、宗派や檀家を越えた「郷村の寺社」としての本山寺の性格を伝える物かも知れません。
新潟県阿賀町馬取(まとり)地区の村中大般若
大般若経経典 の入った木箱を背負った一行が無病息災を祈る
三所神社の大般若経
その中の奥書に、次のように記されたものがあります。
「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵」
ここからは、山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。良恵は住持でなく聖のようです。 与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。
以前に、仁尾の商人や大工が四国山脈を越えた現在の大豊町や本山町で活動を行っていたことを次のように紹介しました。
①高知県大豊町の豊楽寺の本堂新築(天正2(1574)年11月)の御堂奉加帳に「仁尾」の「塩田又市郎」の名前があること。
②土佐郡森村(土佐郡土佐町)の森村の阿弥陀堂造立棟札に「大工讃州仁尾浦善五郎」とあり、善五郎という仁尾浦の大工が請け負っていること。
長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは土佐からの熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでした。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。
仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世になると詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。
塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、中世には三野湾で作られた塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。その利益から仁尾には数多くの寺院が姿を見えるようになります。
そういう視点から本山寺の出現過程を次のように推察しておきます。
①熊野行者などの山林修行者によって七宝山に行場が開かれ、庵や堂が姿を見せる。
②観音寺は七宝山の行場を結んで「中辺路」ルートとして売り出す。
③その行場のひとつが七宝山麓の興隆寺で、先祖供養の地として地元の有力者が五輪塔を納めるようになる。
④そこに新しく登場してきたのが牛頭信仰を持った修験者たちである。彼らは、「馬頭観音=その権化である牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神=薬師如来の垂迹=スサノオの本地」としていた。
⑤彼らは、京都東山祇園や姫路の広峰山から牛頭神を勧請し、全国に祇園社、天王社を祀るようになる。
⑥そのような中で、本山荘内の興隆寺や妙音寺で活動していた牛頭天王信仰の修験者たちが、新たな寺院を現在地に建立する。それが本山寺の前身である。
⑦こには牛や馬に関わる百姓や馬借たちの支持もあった。そして、郷村を越えた広域信仰圏を形成した。
南海道(伊予街道)に隣接した本山寺は、交通の要衝に当たります。
仁尾の商人や修験者たちは土佐に三野湾で採れた塩を運び込み、その還りに茶を持ち帰って利益を挙げていたのは先に見たとおりです。本山寺を拠点とした修験者たちは、財田川を遡り、財田やまんのう町の峠を越えて、阿波との交流を持ち、その信者たちには、塩を運ばせたことが考えられます。阿波池田や、山所神社のあった祖谷口、あるいはその奥までが本山寺の信仰ネットワークの及ぶ地域で、本山寺の信者となっていた馬借たちの活動範囲だったことが推測できます。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。
天文16年(1547)に鎮守堂が建立されるなど、天文年間(1532~55)は本山寺の堂宇整備時期であったようです。
130年後に書かれた『玉藻集』延宝5年(1677)には、16世紀の状況が次のように記されています。
意訳変換しておくと本山寺持宝院此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、亦は長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、門内に古松枝條扶疎として、幾世をか経ぬる、むかしを問ましき計也、堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古五輪五六基があり、境内と隔て置かれている。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川(財田川か宮川?)が流れている。
ここには空海建立説はありませんが「三尊共弘法大師作」と記されるので、近世前期になると本山寺に空海伝説が根付いていたことが分かります。
本山寺中興の祖といわれる尚範が元亀2年(1571)に高野山にのぼり、金剛三味院で研鑽を積んだ後に本山寺の復興に尽力します。以後、本山寺僧と高野山との関わりが、本山寺における弘法大師信仰の普及につながると研究者は推測します。同じような動きが弥谷寺にも見られることは以前にお話ししました。この背景には、高野聖たちの活動があったことがうかがえます。彼らによって弘法大師伝説が本山寺にももたらされたようです。そういう意味では、弘法大師伝説は牛頭天王信仰に、室町時代以後に接ぎ木されたものといえそうです。
本山寺の五輪塔
『玉藻集』に「堂の後に古五輪五六基あり」とあるのは、現在は大師堂裏にある大型五輪塔群のことでしょう。
この大型五輪塔群は室町時代のもののようです。一説には奥の院の興隆寺から移されたとも伝わるようです。本山寺が有力者の菩提寺的な性格を持っていたことが分かります。しかし、それが誰なのか、どんな一族であったのかは分かりません。
同時期に、西讃守護代で天霧城の香川氏は、弥谷寺西の院を墓域化して多くの五輪塔を残しています。それが、本堂下の生駒親正の大きな五輪塔につながって行きます。この五輪塔と、本山寺の大きな五輪とは合い響き合うモノがあるように私には思えます。16世紀には観音寺室本の麹職人たちに香川氏は、特許上を出しています。香川氏の勢力が観音寺の当たりまで及んでいたことを示します。本山寺も香川氏の勢力下にあったと考えられます。
以上をまとめておきます。
①元寇後に異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は、勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと。
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④その流れの中に、本山寺の本堂や仁王堂のあらたな建立があったこと
⑤同時に、伽藍整備と平行して、郷村の有力寺社は周辺寺社の系列化・末寺化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造勧進への協力や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして観音寺や本山寺は勧進聖や修験者によって、「中辺路」ルートの拠点寺としてネットワーク化されそのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」から四国遍路へとつながっていく。
今回は中世までとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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