源頼朝は、源義経・源行家の追捕のために、配下の御家人を全国にわたって守護・地頭に任ずることを、後白河法皇へ願い出てて許可されます。これによって次の二点が実現します。
①頼朝と御家人との私的な主従関係が、公的なものとして認められたこと
②東国だけでなく全国的に鎌倉幕府の勢力が及ぶようになったこと
守護は、有力御家人を国ごとに任じ、国内の御家人への大番役(京都の警固)の催促、謀叛人・殺害人の逮捕などの軍事・警察権を握っていました。地頭は、公領・荘園ごとに置かれ、年貢の徴収・上地の管理などに携わっていました。言うなれば「警察署長 + 税務署長」のようなものです。
義時を討て」後鳥羽上皇の勝算と誤算 承久の乱から武士の世に:朝日新聞デジタル

鎌倉幕府の成立によって「二重政権」のようになって、朝廷の政治的地位は低下します。
その勢力回復を、あの手この手で試みるのが後鳥羽上皇です。それは、源頼朝の死後に頻発する有力御家人の謀叛によって生じた隙をつくものでした。承久元年(1219)正月に三代将軍源実朝は、頼家の子公暁に暗殺されます。このとき幕府では、北条義時が執権となって幕府の実権を握り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとします。上皇はこれを許さず、このため頼朝の遠縁にあたる藤原道家の子頼経を四代将軍に迎えて、幕府の体制を固めます。この事態に対し後鳥羽上皇は、承久3年5月に京都守護伊賀光季を討って、北条義時追討の院宣を発します。幕府は直ちに北条泰時・時房に挙兵上京を命じ、翌月には幕府軍は、京都で御鳥羽上皇の軍勢を鎮圧します。この結果、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上率は土佐へと配流されます。
承久の乱2

この承久の乱に際し、讃岐で鳥羽上皇を支援する側に回ったのが讃岐藤原氏(綾氏)一族です。
讃岐藤原氏の統領、羽床重資の子羽床兵衛藤大夫重基は後鳥羽院側に味方したため、その所領は没収されています。(「綾氏系図」)。また綾氏の嫡流である綾顕国も羽床重員とともに院側に味方したとされます(『全讃史』)。讃岐では讃州藤家の嫡流である羽床重基と、綾氏の嫡流たる綾顕国が、後鳥羽上皇方についたようです。
一方、幕府側についたことが明らかなのは、藤家一族の香西左近将監資村です。
資村は、その忠節により香川郡の守護職に補せられたと云います。(『南海通記』)。しかし、これは守護に代って任国に派遣される守護代の下の守護又代になったにすぎないと『新修香川県史』は指摘します。
イラストで学ぶ楽しい日本史
承久の乱の前と後
一方、承久の乱で院方についた武士として、東讃地域の武士は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 
その背景は、源平合戦当時に東讃に勢力をもっていた植田氏一族が、平氏の傘下にあったこがあるようです。植田氏の基盤とした東讃地域は平家方についたために、鎌倉幕府から「戦犯」扱いされ、強い統制下にあったことが考えられます。それが「反鎌倉」の動きを封じ込まれることになったというのです。

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南海通記と南海治乱記
 この点について『南海通記』は、承久の乱後に橘公業が関東の目代として三木郡に居住することになり、東讃四郡の守護になったと記します。しかし、東讃四郡だけの守護はあり得ないし、橘公業が三木郡に住んだという史料はありません。公業は嘉禎二年(1326)2月まで伊予国宇和郡を本拠地としていることが『吾妻鏡』には記されています。南海通記は、後世に書かれた軍記もので「物語」です。史料として無批判に頼ることはできないことが「秋山家文書」などからも明らかにされています。
讃岐 鎌倉時代の地頭一覧表

讃岐の鎌倉時代の地頭一覧表
讃岐の地頭の補任地として、現在17か所が明らかになっています。
  承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐために、その荘園に新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。上の表を見ると分かるように、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうちで、承久の乱後に地頭が補任されたのは次の4ヶ所です。
法勲寺領・櫛梨保・金蔵寺領・善通寺領

地域的に見ると丸亀平野に集まっています。金蔵寺領は、間違って地頭が置かれたようですが、残りの三か所では、その地域に勢力を持つものが院方に味方したために没収されて、その所領に新たに地頭が任命されたことが考えられます。ここからは綾氏一族の綾顕日、羽床重基だけでなく丸亀平野の武士たちの多くが院方に味方していたことがうかがえます。彼らは、羽床重基に率いられた藤家一族だったことが推測できます。これが承久の乱後の地頭補任が、丸亀平野に限られていることと深く関係しているようです。

讃岐藤原氏系図1
讃岐藤原(綾)氏の系図

それならば、院側についた綾氏一族は、乱後に国府の在庁官人群から一掃されたたのでしょうか?
建長8年(1256)の史料には、讃岐の在庁官人として、新居藤大夫資光の孫の新居刑部次郎資員と重晨の従兄弟の羽床藤大夫藤四郎長知の名があります。院方に味方したと思われる羽床氏や新居氏の一族が、従来に在庁官人の地位にとどまっていることが分かります。
その理由として研究者は次のように考えています。

「院方に味方したということで、藤家一族を讃岐の国衛から排除すると、讃岐の支配を円滑に行えないために、在地で大きな勢力をもっていた藤家一族に依存せざるを得なかった

藤家一族は、承久の乱も讃岐の国衛で重要な地位に就いていたようです。
羽床城 - お城散歩
羽床城跡
以上をまとめておくと
①源平合戦の際に、讃岐綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏は平家を裏切って、いち早く源氏方の御家人となり、鎌倉幕府の信頼を得て、その後の讃岐国衙の在庁役人として重要な役割を果たすようになった
②承久の乱では、讃岐藤原氏の主流派は後鳥羽上皇に味方し、乱後に所領の多くを失った。
③乱後に新補地頭がやって来た荘園は丸亀平野に多いので、讃岐藤原氏主流派の配下にあったのが丸亀平野周辺の武士団であし、彼らが「戦犯」としてと所領没収されたこと
④東讃は、源平合戦の際に平家方に味方し、その後に鎌倉幕府の「戦後処理」が厳しかったために後鳥羽上皇側に味方する武士団は現れなかったこと
⑤しかし、乱後も後鳥羽上皇を支援した新居氏や羽床氏の子孫は在庁役人としてとどまっていること、
ここからは、承久の乱を契機に羽床氏などの讃岐藤原氏の主流派が国衙から一掃され、それに代わって讃岐藤原氏の惣領家が香西氏に移行したとは云えないようです。 ここでも「南海通記」の見直しが求められています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。