讃岐の守護職に就いた人たちは、どんな人物だったのでしょうか。今回は鎌倉時代の讃岐守護を見ていくことにします。

鎌倉時代の守護

最初に守護として讃岐にやってきたのは後藤基清(もときよ)のようです。
『尊卑分脈』によると、後藤基清は藤原北家、秀郷流の嫡流とも言える佐藤義清(西行)の兄弟である佐藤仲清の子です。つまり、西行の甥になります。後に後藤実基の養子となります。その経歴を年表化しておきます。
元暦2年(1185年)義経に従軍し、屋島の戦いに参戦。
建久元年(1190年)頼朝上洛の際に、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院供奉。その後、京都守護一条能保の家人、在京御家人として活躍
正治元年(1199年)2月、三左衛門事件で源通親への襲撃を企てたとして讃岐守護を解任
その後、後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士・検非違使となる。
建保年間(1213年 - 1219年)播磨守護
承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方につき、敗北。その後、幕府方についた子・基綱によって処刑される。
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吾妻鏡
「吾妻鏡」には正治元年(1199)2月5日条に、「讃岐守護後藤基清が罪科によって守護職を改替」と記されています。就任時期や何年にわたって讃岐守護を務めていたのかは分かりませんが、史料的には一番最初の讃岐守護になるようです。
近藤国平 後藤基清失脚の跡をうけて讃岐守護となった人物です。
近藤国澄の子で、武蔵国矢古宇郷を本拠地とする御家人です。近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、山木攻めや石橋山の合戦で戦っています。その後、鎌倉で頼朝側近の一人として仕え、元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。
 後藤基清が解任された後、建久10(1199)年に讃岐守護に就任しています。いつまで守護を務めたのかも分かりませんし、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。

近藤氏系図(高瀬)
近藤氏系図

この近藤氏の末裔と称するのが高瀬二宮の近藤氏で、讃岐守護の国平につながる系図を持ちます。鎌倉末の元徳三(1331)年、高瀬二宮の近藤氏は本家の仁和寺法金剛院との間で二宮荘の下地中分を行っています。ここからは、近藤氏は讃岐国内においては、二宮荘を拠点としながらも大きく成長することはなかったようです。
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三浦光村
『吾妻鏡』寛元4年2月18日条に、次のように記されています。

讃岐国御家人藤左衛門尉が海賊を召し捕えたことを、讃岐守護三浦光村の代官が知らせてきたので、京都の六波維探題は、このことを鎌倉幕府へ伝えた

ここからは寛元4(1246)年に、三浦光村が讃岐の守護であったことが分かります。
鎌倉来迎寺に建つ「三浦大介義明の五輪塔墓」のこと: 風に吹かれて鎌倉見聞_2022

三浦氏は相模国の豪族で、頼朝の挙兵にあたって三浦義明がこれを援助します。その子義澄は相模守で、孫の義村は承久の乱後に、河内国・紀伊国の守護となっています。義村の子泰村は、北条氏の外戚として威勢をふるいます。光村は泰村の弟で、当時鎌倉にいて将軍頼経の信任を受けていました。そのため讃岐守護職にあった光村は鎌倉を離れることなく、讃岐に代官(「守護代」)を派遣していたようです。
寛元4年の翌年の宝治元(1247)年に、幕府に謀反を起したとの理由で北条時頼・安藤景益らに攻められ、三浦氏一族は滅亡します。当然、三浦氏の讃岐守護もここで終わります。
三浦泰村一族の墓~法華堂跡の「やぐら」~

三浦氏は讃岐守護職にありましたが、守護代を派遣して本人は赴任していなかったようです。その守護代を務めていたのが「長雄(尾)氏」のようです。
 高野山の高僧道範が党派抗争の責任を取らされて、讃岐に流されてきます。その時の様子を記したのが『南海流浪記』です。道範は讃岐に連行されて宇多津の守護所に出頭しています。その時に訪ねているのが「讃岐守護所長雄二郎左衛門尉」です。
ここに出てくる「長雄(尾)氏」は、何者なのでしょうか?
「長雄氏」は頼朝以来の関東御家人ではありませんし、守護級の家柄でもないようです。そのため研究者は、「長雄氏」が讃岐守護であったとは考えていません。
「長雄(尾)氏」は三浦氏と私的な思顧関係を持っていた一族のようです。
 吾妻鏡には長足定量は、石橋山の合戦で頼朝と戦って敗れ、捕えられて一時三浦義澄に預けられた後に許されています。このときに長足定景は、三浦氏の思顧をうけて三浦氏との結びつきを強めたことが推測できます。それを裏付ける事件や事項を年表化すると次のようになります。
後に三浦義村の命を受けて、実朝を殺害した公暁を誅伐したのは長尾新六定景であること。
嘉禎元(1225)年、長尾光景が三浦義村・泰村の推挙で、将軍の恩賞を得ていること。
暦仁元(1238)年6月の将軍頼経の春日社参詣のとき、長尾景茂・同光景が三浦義村の随兵六騎のなかに数えられていること
宝治元年6月に、三浦氏一族が滅亡した際に自殺討死した人のなかに、定景の子である長尾景茂・同胤景(次郎左衛門尉と称す)の名がみえること。
以上から『南海流浪記』に出てくる「長雄二郎左衛門尉」とは、三浦氏と私的な恩顧関係をもつ長尾氏のことと研究者は考えています。
 つまり守護所とは守護の居所のことで、讃岐守護三浦氏の守護代として長尾次郎左衛門尉(胤景)が讃岐宇多津に居たことになります。『南海流浪記』の記事は、仁治四年(1243)のことですから、少なくとも仁治4年から三浦氏滅亡の宝治元(1247)年までは、三浦氏が讃岐の守護であったと研究者は考えています。

北条重時 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

北条重時
三浦氏滅亡から4年後の建長2年(1250)9月20日の『吾妻鏡』の条に、讃岐国の海賊を関東へ召下し、蝦夷へ遣すということが幕府の評定で評議されたことが記されています。その時に、北条重時にその沙汰が命じられています。国内の犯罪人の取締りは、守護の任務の一つです。海賊を捕らえて、蝦夷に流刑するという措置を北条重時に命じられると云うことは、彼が当時讃岐の守護であったことがうかがえます。ここからは、三浦氏滅亡後の讃岐の守護ポストは、執権となって幕府の実権を握っていた北条氏一門が占めるようになったことが分かります。
北条経時 - アンサイクロペディア

北条有時                                           
 文永五(1268)年2月27日に幕府は、讃岐守護北条有時に次のような書状を送っています。(『中世法制史料集』)
一 蒙古國事
蒙古人挿二凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触鯛讃岐國御家人等状、
依仰執達如件
文永五年二月廿七日
                                                          相模守(北条時宗
右京権大夫 (北条政村)
駿河守殿  (北条有時)
読み下し文
一 蒙古国の事
蒙古人凶心を挿み、本朝を伺う可きの由、近日牒使を進むる所なり、早く用心す可きの旨、讃岐国御家人らに相触れらる可くの状、 仰せに依り執達件の如し
文永五年(1268)2月27日付の蒙古の使節の来朝のことを告げ、讃岐国の御家人に用心すべきことを伝えた内容の関東御教書が、執権の北条時宗から北条有時に出されています。これを受けて讃岐の国人たちも臨戦態勢を整えたのかも知れません。
 国内の御家人の統制が、守護の主要な任務であったことを考えると、北条有時が讃岐の守護であったことがうかがえます。
駿河左近大夫将監
元弘元年(1321)後醍醐天皇討伐のための幕府の上洛軍編成のなかに、駿河左近大夫将監と書いて、その下に讃岐国と注記されています。ここからは当時は、駿河左近大夫将監が讃岐守護であったことが分かります。駿河左近大大将監は、北条氏一門の一人で、 元弘元年ごろまで北条氏一門として讃岐の守護となっていたようです。なお、駿河左近大夫将監は、讃岐守護代の駿河八郎と同一人物であろうとする説もあります。しかし、両者が同一人物であるというはっきりした史料はないようです。
長井左近大夫将監高広
元弘2年(1331)2月に、幕府討伐の計画を企てていた後醍醐天皇は隠岐へ、その皇子宗良親王は讃岐へと配流に処せられます。『梅松論』によると、 宗良親王を讃岐の守護人が請取って都を出発したとあります。また『太平記』巻4には次のように記されています。
「一宮並妙法院二品親王御事」
「三月八日……同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。…」
元弘の変の後処理として、好法院二品親王(=後醍醐天皇の皇子・尊澄法親王=のちの宗良親王)を長井高広が預かり、翌年3月に配流先の讃岐国へ移送された際にも高広が護衛に付いたとあります。この「長井高広」は、『梅松論』に出てくる、讃岐国の守護人のことだと研究者は推測します。長井高広は、幕府創建時の政所別当大江広元の子孫で、六波羅探題の評定衆であった長井貞重の子になります。
  建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」に「長井左近大夫将監 高廣」の名があるので、鎌倉幕府滅亡後に発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人三番の一人になっていたことが分かります。
船木二郎頼重                                                      
  船木氏の祖。美濃・近江に所領があった御家人です。太平記には、次のように記されています。
船木頼重は後醍醐天皇にしたがって、建武の中興の功績により讃岐守護に任じられた。山田郡に高松城を築いて拠点としたので髙松頼重と呼ばれるようになった。

しかし、それもつかの間で建武2年(1335)に、足利尊氏に呼応して讃岐鷺田で挙兵した細川定禅(じょうぜん)を攻撃し敗れます。そして、

屋島の浦から舟で逃れたとあるだけで、その後の行方は不詳です。

神奈川県横浜市戸塚区の高松寺(こうしょうじ)の裏手土墳墓に高松頼重の墓所があるようです。しかし、高松市下田井町の田畑の中にある
五輪塔も高松頼重の墓と伝えられているようです。

伝髙松頼重の墓
高松頼重の墓(高松市下田井町)
以上、鎌倉時代に讃岐守護となった人物のの在籍年を要約しておきます。
①正治元年(1199)まで            後藤基清
②正治元年 →                近藤七国平                  ③仁治4年(1243)→宝治元年(1247) 三浦氏
④宝治元年      →元弘元年(1331)      北条氏一門
⑤元弘2年(1332)→      長井高広
⑥建武2年(1343)→          船木(髙松)頼重                        
三浦氏の滅亡以降は、幕府の執権北条一門が讃岐守護になっています。これは、讃岐国が瀬戸内海における重要な拠点として重視されていたからと研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 承久の乱と讃岐 380P
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