国衙によって集められた随心院の善通寺領一円保は、善通寺と曼荼羅寺の2ヶ所に分かれていました。これは郷でいうと、多度郡の弘田、仲村・良(吉)原の三郷にまたがっていたことになります。そのうち弘田郷から一円保を除いた残りの部分は、藤原定家の所領だったようです。

藤原定家といえば、「新古今和歌集」の撰者で、当代随一の歌人として知られている人物です。
藤原定家といえば、「新古今和歌集」の撰者で、当代随一の歌人として知られている人物です。

明月記
定家の日記「明月記」には、寛喜二年(1230)閣正月12日に次のように記されています。讃州弘田郷の事、彼郷公文男左衛門尉信綱請く可き由申す。何事在る哉の由相門の命有り。左右只厳旨に随うの由答え申しおはん了ぬ。
意訳変換しておくと
讃岐弘田郷の公文の息子左衛門尉信綱が弘田郷の請所を希望しています。どう思うかと相門からきかれたので、相円の意向に随う由を答えた
ここでの登場人物は、「讃岐の信綱・藤原定家・相門」の3人です。「信綱」は弘田郷の請所を希望しています。請所というのは荘園の役人などが領主に対して一定の年貢納入を請負う代りに、領地の管理を任される制度です。信綱は弘田郷の在地武士であることが分かります。
それでは、定家に相談してきた「相門」とは誰なのでしょうか」
相門とは、貞応2年(1323)まで太政大臣だった西園寺公経のことのようです。公経は、源頼朝の姪を妻にもち、鎌倉幕府と緊密な関係にありました。承久の乱後に幕府の勢力が朝廷でも強まるようになると、太政大臣に任ぜられ権勢をふるうようになります。定家は、公経と姻戚関係にあった上に、短歌を通じたサロン仲間でもあり、その庇護をうけていたことがこの史料からは分かります。


西園寺公経=相門
定家は信綱の請負を任命する立場で、弘田郷の年貢を受け取る立場で、弘田郷の領主であるようです。が、ここでは相談を受ける立場で、最終決定権は相門(西園寺公経)にあったようです。定家の上には、さらに上級領主として西園寺公経がいたのです。請所選定で、西園寺公経に「信綱でよいか」と相談され「御随意に」と応えたということなのでしょう。
定家は信綱の請負を任命する立場で、弘田郷の年貢を受け取る立場で、弘田郷の領主であるようです。が、ここでは相談を受ける立場で、最終決定権は相門(西園寺公経)にあったようです。定家の上には、さらに上級領主として西園寺公経がいたのです。請所選定で、西園寺公経に「信綱でよいか」と相談され「御随意に」と応えたということなのでしょう。
当時は、請所になると次第に請負った年貢を納めなくなり、実質的に領地を奪ってしまう「悪党」が増えてきた時代です。
ところが信綱は、約束に忠実だったようです。翌年の寛喜三(1231)年正月19日の「明月記」に次のように記されています。
此男相門自り命ぜらるる後、弘田事虚言末済無し。田舎に於ては存外の事歎。
意訳変換しておくと
(弘田郷公文の息子信綱)は、相門から請所を命ぜられた後、弘田郷の事に関して虚言なく行っている。田舎においては近頃珍しい人物だ。
定家は他の所領で在地武士の押領に手をやいていたようです。讃岐の信綱が約束を守ることに驚いているようにも思えます。弘田郷公文の信綱は、もう一度明月記に登場してきます。
「明月記」の寛喜二(1230)年10月14日に、次のように記されています。
讃岐佛田一村國検を免ぜらる可きの由信綱懇望すと云々。昨今相門に申す。行兼を仰せ遣わし許し了ぬ由御返事有り。
意訳変換しておくと
讃岐の弘田郷の佛田一村での国衙による検注を免除していただきたいとの願いが請所の信綱からあったので、相門(西園寺公経)に伝えた。行兼を派遣して免除することになったという返事を後ほど頂いた。
この年の10月に請所となった信綱からの「検注免除」依頼を、西園寺公経に取り次いだところ、早速に免除完了の報告を得ています。「鶴の一声」というやつでしょうか、こういう口利きが支持者を増やすのは、この国の国会議員がよくご存じのことです。
ここからは弘田郷は、この時点では国衛領であったことが分かります。その国検を免じることができる立場にあった公経は、当時讃岐国の知行国主だったと研究者は推測します。そうすると定家は、知行国主の公経(あるいは道家)から弘田郷を俸禄的に給与されていたことになります。つまり彼の弘田郷領主としての支配権は強いものではなく、現地の信綱から送ってくる郷年貢の一部を受取るだけの立場だったことになります。そのため讃岐の信綱の公文職や請所の任命も、実際は公経が行っていたのです。藤原定家が世襲できるものではなかったのです。定家の弘田郷領主の地位も一時的なもので、長続きするものではなかったと研究者は考えています。
①定家の日記「明月記」の1230年正月の記録には、弘田郷領下職領の請所の任命の記事がある。
②そこからは定家が弘田郷の領下職を持っていたことが分かる。
③しかし、その権利は永続的なものではなく当寺の讃岐国主の西園寺公経から定家が俸給的に一時的に与えられたもので、永続的なものではなかった。
④請所に任じられた弘田郷信綱は信綱は、年貢をきちんと納める一方、国衙の検注免除も願いでて実現させている
承久の乱後に地頭による押領が進む中で、都の貴族たちが年貢徴収に苦労していたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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