善通寺 生野郷 
 古代の生野(いかの)郷
古代の生野郷は、現在の善通寺市生野町よりも遙かに広いエリアだったようです。そのエリアは「生野町+大麻町+伏見・有岡」になります。つまり、現在の善通寺市の南部全てが生野郷だったようです。

善通寺 生野町地図
現在の善通寺市生野町(生野郷はこれに「有岡・大麻」を含む)

地名の由来について西讃府志は次のように記します。
「生野ハ茂メシキ野卜云義ニテ 草木ナドノ弥生茂レルヨリ負ル名ナルベシ」

ここからは金倉川の氾濫原で樹木が茂り、周辺部に比べると開発が遅れた地域だったことがうかがえます。「和名抄」では、多度郡七郷の一つとして記されています。訓は伊加乃(いかの).
善通寺寺領 鎌倉時代

中世の生野郷は、伏見・有岡の地域が善通寺領の生野郷修理免となります。
これは善通寺にとっては、初めての自前の寺領を持つことで、経済基盤確立に向けた大きな意味を持つものでした。生野郷が、どのようにして善通寺の寺領となったのかを見ていくことにします。
鎌倉時代の初期、承元三年(1209)8月、讃岐国守は、生野郷内の重光名見作田六町を毎年善通寺御影堂に納めよという次のような指示を留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地、佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 
 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その真影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御真影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

この経過については、仁治4年(1243)に讃岐に配流された高野山の高僧道範が書いた「南海流浪記」にも、次のように記されています。
此御影上洛の事
承元三年隠岐院(後鳥羽上皇)の御時、左大臣殿富國司に立つる間、院宣に依って迎え奉らる。寺僧再三曰く、上古御影堂を出で奉らざるの由、子細を言上せしむと雖も、数度仰せ下さるに依って、寺僧等之を頂戴(うやうやしくささげて)して上洛す。御拝見の後、之を模し奉られ、絵師下向の時、生野に六町免田を寄進すと云々
承元3(1209)年、隠岐院(後鳥羽上皇)の時に、左大臣殿が当(讃岐)国司になった際に、院宣によって(弘法大師御影)が京都に迎えたいとの意向が伝えられた。善通寺の寺僧は再三にわたって、前例がないと丁寧にお断りしたが、絶っての願いと云うことで、うやうやしくささげて上洛した。御拝見の後、御影を模写し、その返礼として生野に六町免田を寄進されたと伝えらる。

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったとしておきましょう。
 この時の国守は誰なのでしょうか?
南海流浪記には「左大臣殿富(当)國司」とあります。「善通寺旧記」では、これを安貞元年(1227)に左大臣で崩じた藤原公継(徳大寺公継) と推定しています。彼が讃岐の知行国主の時のことだったでした。
藤原公継(徳大寺公継
藤原公継(徳大寺公継) 
公継は歌人としても有名で、『古今著聞集』の情報源として、彼のサロンが大きく関わっていたようです。
藤原公継(徳大寺公継)の、寄進についてもう少し見ておきましょう。
  
 
「重光名の見作田陸町を毎年善通寺御影堂に免じ奉る」
「件の陸町の所当を以って寺家に納める」
この文言からすると、この寄進の実際は、重光名の見作田ののうち六町分を毎年善通寺に納めるということのようです。そうすると官物徴収にあたるのは国衛で、善通寺はそれを国衛を通じて受取るだけになります。これでは寺の支配は、直接田地や農民には及ぶことはありません。寺領といっても寺の支配権は弱いままです。

しかし、ここで研究者が注目するのは、納入された官物について、その使用法が善通寺での理趣三味の勤行と御影堂修理料と定められていること、そしてその管理は「三昧僧の沙汰」が行うとされていることです。
 それと対照的に、次のような文言も別の所にはあります。

「凡そ当寺徒らに数十町の免田を募ると雖も、別当以下恣に私用に企て、佛聖燈油年を追って開乏し、門垣棟瓦月を追って頽壊すと云々。事実たらば、尤も以って不営なり」

これは、本寺随心院からやってくる別当が寺領収入の大半を奪い、そのため寺の仏事にも事欠くこありさまであったことを、厳しくいましめています。その対抗策として、国衙によって徴収が保証され、その管理が善通寺僧にまかされたことになります。これは善通寺領の歴史の上で大きな進歩と研究者は評価します。つまり、本寺や讃岐国衙の在庁官人たちによって、搾取されていた財源が上皇や藤原氏によって、保護されたことを意味するからです。
地方寺院である善通寺に対して、どうして格別の配慮が行われたのでしょうか?

弘法大師御影(東寺)
弘法大師御影(東寺)

御影というのは、弘法大師が入唐の時、母公のために自らを画いたと伝えられる自画像のことです。この大師像は、弘法大師が唐に渡る前、母のために御影堂前の御影の池で、自分の姿を写して描いたとされています。鎌倉時代に、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師の御影」として知られるようになり、信仰の対象にもなります。このような弘法大師御影に対しての天皇や貴族たちの信仰が、本寺からの自立の武器となったようです。そういう意味では、弘法大師御影は、「中世における善通寺の救世主」かもしれないと私は考えています。

弘法大師 誕生 書写3
御影法要

 別の見方をすると弘法大師伝説の中から御影がひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったことを意味します。こうして善通寺の御影は各地で模写され、信仰対象となります。

木造 弘法大師坐像 | 鹿沼市公式ホームページ

さらに、これが立体化されて弘法大師像が作成されるようになります。こうして弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとしてどこにも弘法大師の御影や像があることになります。
弘法大師像

さらに時代が下ると、御影や像を安置するための大師堂が姿をみせるようになります。そして、いまでは弘法大師の石像やブロンズ像が境内のどこかに建っている姿があります。弘法大師御影は、そういう意味では現在にまでつながる信仰の形のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
       参考文献 善通寺市史 鎌倉時代の善通寺領 生野郷修理免
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