良田郷と弘田郷の間が仲村郷
一心寺について最初に見ておきましょう。
高野山の登山ケーブルの高野山駅から発車するバスの最初の停留所が「女人堂」です。高野山が女人禁制であった頃は、女性はここより先の立ち入りは許されず、この女人堂からはるかにみえる堂塔を拝んだようです。そこから坂を少し下ったところが一心院谷とよばれているエリアになります。一心院は、鎌倉時代の初期に、行勝上人(1130~1217)によってこの地に建立されました。
高野山一心院跡
茲に故行勝上人、方丈草庵を当山に結び、(中略)、遂に多年の宿願に依って、忽ち一伽藍を建立す。堂塔、僧坊、鐘楼、経蔵成風の構権を接し、土木の功甍を並ぶ。即ち之を一心院と号す。
また、江戸時代の後期文化年間に和歌山藩が編さんした「紀伊続土記」の記事には次のように記されています。
行勝上人は、妙法蓮華経の五字を形取って五カ坊を建立し、五智を取り合わせて妙智坊、法料坊、進智坊等々と称した。 一心院は五坊の総称であり、その名は坊の近くの一心の字によく似た池にちなんだものだった。
さらに「続風上記」には、その後の一心院の変遷が次のように記されています。
五坊のうち妙法違花の四坊は次第にすたれ、経智坊のみ残った。建保五年(1217)に行勝が没すると、貞暁がそのあとを継いで経智坊に住した。貞暁は鎌倉法印ともいわれ、源頼朝の三男で、仁和寺で出家し、勝宝院、華蔵院を領していたが、行勝の徳を慕って高野山に登り彼に師事した。兄の三代将軍実朝が暗殺された後、母の政子が自ら高野山の貞暁を訪れ将軍職につくことをすすめたが、辞して動かなかった。貞暁は貞応二年(1232)寂静院を建立し、それ以後寂静院が一心院を代表することになった。
一心院という寺院は、朝廷や幕府などとも親交のあった行勝上人によって創建されたと伝えられているようです。
しかし、実質的な創建者は、源頼朝の三男で鎌倉法印と呼ばれた貞暁のようです。源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、貞暁は
高野山という世間と隔絶した中で修行に励み、人々の尊崇を集めるようになります。その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なうようになります。これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟である3代将軍実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっています。

高野山西室院に残る「源氏三代供養塔」
このように一心院は政子の庇護を受けて源氏の菩提寺として大きな伽藍を誇っていたようです。しかし、寺院自体は、江戸時代頃にはすでに衰退してしまい、現在は寺院としては存在しません。「一心院口・一心院谷」という地名として残っているのみです。
大きな威勢をもった一心院(寂静院)は、多くの荘園が寄進されていました。讃岐国多度荘もその一つのようです。しかし、これは荘務権をもった荘園ではなく、安楽寿院領であった多度庄の領家分のうち百石をとり分けて寂静院の寺用に配分するというものでした。そのため地頭の妨げによって運上が思うように行えず、天福2年(1224)になって摂津国武庫下荘がかわりにあたえられることになります。
道勝の奏状は、仲村郷が一心院領となった由来を次のように記します。
茲に仲村郷は、去る建永年中、國司当院に寄付し佛聖以下の寺用に配す。(中略)件の郷弘法大師経行の地為るに依って、当山領為るの條、由緒有るに依って、代代の宰吏、己に富郷を以って当院領為る可きの由國宣を成すの後、三十餘年を経畢んぬ。
意訳変換しておくと
ここに仲村郷は、建永年中(1206~07)、讃岐国司が一心院に寄付し寺領となった。(中略)仲村郷は弘法大師生誕の地で、当院の寺領となるのは、その由緒からもふさわしく、代々の国司が仲村郷を当院寺領とする旨の國宣を下した。それから三十餘年を経た。
ここでは、仲村郷は建永年中(1206~07年)に国司によって一心院に寄附されたとあります。「代々の国司が仲村郷が一心院領であることを認めた国宣を発している」とあります。
承久三年(1321)8月の讃岐国司庁宣(寂静院蔵)に、次のように記します。
承久三年(1321)8月の讃岐国司庁宣(寂静院蔵)に、次のように記します。
庁宣一 留守所早く中村郷を以って、永代を限り、高野一心院御領と為す可き事右、彼村を以って、永代を限り、 一心院御領と為す可きの状、宣する所件の如し。在庁官人宣しく承知して違失す可からず。以って宣す。承久三年八月 日大介藤原朝臣(花押)
意訳変換しておくと
庁宣 讃岐国司の留守所中村郷を永代、高野一心院御領となすべきこと。このことについて、仲村郷を永代に渡って、 一心院御領とすべきことについて、国司の庁宣を下した。讃岐在庁官人は、宣しく承知して違失なきように、よろしく取り扱うこと。以って宣す。承久三(1321)年八月 日 大介藤原朝臣(花押)
讃岐国司庁宣からも一心院領であったことが認められていたことが裏付けられます。
承久三年は、「紀伊続風土記」によれば、貞暁が経智坊に住していたときになります。
承久三年は、「紀伊続風土記」によれば、貞暁が経智坊に住していたときになります。
しかし、庁宣の文は、すでに与えられている領地を安堵・承認するというより、この時にはじめて中村郷が一心院に寄進されたことを示しています。「続風土記」にも次のように記されています。
「山史、承久三年八月、源義国、讃州中村郷を以って永く、 一心院経智坊に寄附せらると云々」
ここからは中村郷全体が一心院領となったのは、貞暁が一心院を継いだ後のことだったようです。ここに出てくる「源義国」は、当時の讃岐国主と研究者は考えているようです。
朝廷による一心院の仲村郷領有の承認は、どのように行われたのか 延応元(1239)年太政官牒所引道勝の奏状は、次のように続きます。
而して今庄琥の綸旨を下され、向後の牢籠窮迫を断たんと欲す。望み請うらくは天恩、 先例に因り准して、当院を以って御祈願所となし、兼て讃岐国仲村郷を以って永代を限り当院領と為し、四至を堺し一膀示を打ら、 一円不輸の地と為し、伊勢役夫工大嘗会召物以下大小勅院事等、永く皆免ぜられ、而して領家職は、道勝の門跡として相樽せしむべきの由、勅裁を蒙らんことを。
意訳変換しておくと
今、庄琥の綸旨が下され、今後の混乱が起きないように願う。そのため望み請うことは、先例に随って、一心院を御祈願所として、讃岐国仲村郷を永代に渡って当院領とすることを。
そのために四至を境に膀示を打ち、 不輸不入の地として、伊勢役夫工大嘗会召物など大小勅院事等をすべて免除してされんことを。そして領家職は、道勝の門跡として世襲的に引き継ぐことができるように、勅裁を蒙らんことを。
仲村郷は国司の寄進によって一心院領になりました。しかし、国司が交替すれば、その特権をとり消されるかもしれません。そこで獲得した領有権を永続的なものとするために、次のようなことが誓願されています。
①朝廷に願いでて、 一心院をおおやけの御祈願所にしてもらうこと、
②そして祈願新地の寺領として、仲村郷の荘園化を朝廷に認めさせること
③従来国衛が仲村郷から徴収していた官物雑事、あるいは伊勢遷官や人嘗会の費用などのために課していた国役を一切免除してもらうこと
こうして獲得した仲村郷の領有権(仲村郷領家職)を、一心院の相伝とするというのがこの奏状の目的のようです。
この奏請は朝廷によってうけいれられます。延応元年二月の大政官牒は、 一心院を公家御祈願所とするように治部省に指示しています。また同じ日附で、仲村郷の四至を定め膀小(境界のしるし)を打ち、これを高野一心院領とするようにとの官宣旨が讃岐国に下されています。
この奏請は朝廷によってうけいれられます。延応元年二月の大政官牒は、 一心院を公家御祈願所とするように治部省に指示しています。また同じ日附で、仲村郷の四至を定め膀小(境界のしるし)を打ち、これを高野一心院領とするようにとの官宣旨が讃岐国に下されています。
一心院領仲村荘の四至―東西南北の境界線は、次の通りです。
東は吉田、葛原両郷を限り、西は弘田郷を限り、南は善通寺一円を限り、北は三井郷を限る

一心院の仲村荘領有が朝廷によって承認されてから60年近くを経た永仁4年(1296)11月のことです。
仲村荘の百姓達の申状が、一心院を代表する寂静院にとどけられました。それには次のように記されています。
讃岐國仲村御庄価家御米の内高野運上百姓等謹しみて言上早く申状の旨に任せて、御成敗を蒙らんと欲す大風損亡の子細の事件の損亡の子細、先度、御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間、 一紙を言上せしめ候の処、寺用御方目りは、御使両人を差し下され、損亡の実に任せ御計を蒙る雖も、半分の御免除を蒙らずば争(いかで)か安堵せしむ可けん哉の由、重ねて言上せじむる者也。所詮損亡顕然の上は、寺用御方の如く御免除を蒙らんが為め、乃って粗言上件の如し。永仁四年十一月二日 寂静院御方百姓等上全宗(花押)有正(略押)有元(花押)武安(花押)真久流丸(略押)清 量(略押)
意訳変換しておくと
(この永仁四年という年は大風が吹いたため作物に相当の被害があった。)そこで仲村荘の百姓達は年貢の減免を領主の高野山一心院に願いでた。それに対して、寺用御方からは二名の使者が讃岐に下向してきて、被害実態を調べた上で減免の計らいをした。しかし百姓達は半分(残り半分の寂静院御方)免除も得なければ安堵できないと決議した。そこで、この度は寂静院御方に属する百姓の連名で、寺用御方のごとく免除の処置をしてくれるようお願いしたいと言上した。讃岐國仲村郷の御庄価家御米の内 高野山に運上する百姓等が謹んで言上します。
一度読んだのでは内容がなかなか理解できませんが、この文書からは、仲村荘から納入される領家米は、「寺用御方と寂静院方」のふたつに配分されて納入されていたことが分かります。そのため「寺用御方」分は半額免除になったが、寂静院方については、何ら対応してくれないのでわざわざ高野山まで百姓たち代表7名が出向いて誓願したようです。
研究者が注目するのは「寺用御方」で、これがどこの寺用なのかという点です。
「御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間」とある文を、寺用方と寂静院方とは、御山においても仲村荘の領有においても一体の関係にあることだから、双方への訴えを一紙にまとめて言上したという意味に解するとすれば、両者は密接一体の関係で、寂静院方は寂静院自身の用途、寺用方は一心院全体の寺用にあてて配分支配していたのかもしれません。
また署名している七名の百姓は、寂静院に対して年貢納人の責任者である名主たちでしょう。
名前の下に花押が書かれているのでただの農民ではありません。下人や小百姓を従えた土豪的有力農民なのでしょう。「西讃府志」にのっている中村の小地名のうちに、連署中の名主の名と同じ武安という小字が残っています。仲村の薬師堂周辺で、このあたりに武安が所有していた名田の武安名があったと研究者は推測します。武安から県道をへだてた西南の地域は「土居」と呼ばれ、地頭の屋敷があったとされる所です。このあたりは旧弘田川の伏流水が地下を流れ、出水が多い所です。木熊野神社の周囲にも出水がいくつもあり、これらを水源として稲作が古くから行われていたエリアのようです。
仲村城跡周辺(善通寺の山城より)
「全讃史」(1828年)には、このあたりに仲行司貞房の居城である仲村城があったと記します。
「外堀」となづけられた出水や土塁、土井の地名も残ります。仲行司貞房といえば、元暦元年(1184)の「讃岐国御家人交名」にでてくる名です。この仲行司貞房、またその子孫が仲村の地頭と推測も出来ますが、異論もあるようです。とにかく地名から推測すると仲村にも地頭がいたようです。善通寺領良田郷などの地頭と同じように、仲村の地頭も自己の領主権の拡大のために荘園領主である心院と対立し、一心院を悩ませたのかもしれません。鎌倉後期の頃には、一心院はまだ被害調査のため使者を派遣しています。ここからは実質的な領主権を、この時期までは確保してことがうかがえます。
仲村城跡(善通寺市)
この段階では、仲村荘の百姓の年貢減免要求は、名主による領主への懇願という比較的隠やかな形をとっています。しかし、鎌倉末から南北朝期と時代が下るにつれて、次第に農民の抵抗が拡大強化されていきます。一心院の支配も、対農民体側の免でも経営が困難になっていったと研究者は考えています。
南北朝動乱期の源氏の菩提寺としての一心院・寂静院の立場は複雑です。
一方で南朝の後醍醐天皇、後村上天皇から戦勝祈願の御祈騰を頼まれているかと思うと、 一方では足利幕府から所領の安堵状や裁許状をもらったりしています。両勢力の間にあって、その地位を保つために苦心したことが想像できます。一心寺に残るこの時期の文書には次のように記されています。
一心院造営新所讃岐國仲村庄以下の事、興行の沙汰を致し、専ら修造せらる可きの由、申す可き旨に候也。偽って執達件の如し。四月五日 権大僧都秀海奉謹上 寂静院衆僧御中
意訳変換しておくと
高野山一心院の建物に荒れがめだつようになった。それは造営料があてられていた仲村荘からの年貢納入が思うようでないからである。そこで仲村荘の支配をたてなおし、収入を確保して、院の修造に専念するように寂静院に命ぜられた。
この文書の差出者は権大僧都秀海です。しかし、彼が命令をだしたのではなく、彼の仕えている上級者の命令を受けて、それを寂静院に伝えたもののようです。そうすると仲村荘を管領している寂静院の上に、命令することが出来る上級支配者がいたことになります。またこの文書は、書状形式をとっているため、月日のみで年がないので、いつごろのことか分かりません。
この書状の文面からは、 一心院の仲村荘支配が次第におとろえていることはうかがえます。おそらく南北朝の動乱のうちに、仲村荘は一心院の手を離れていったと研究者は考えています。明徳二年の足利義満の寂静院所領安堵の御教書の中にも仲村庄の名はありません。この地も天霧城の守護代香川氏が戦国大名化を進める中で、侵略押領を受けて消えていったと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高野山一心院領仲村庄 善通寺市史592P
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